教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

肉体からの開放を願う

2009-10-18 00:03:53 | オタネタ全般
(注:今回はエロネタ傾向が強くなります)



ふと、タイヘンなことに気がついた。

最近ずっと実写ではオ○ニーしてない(笑)。

いくら重度のアニオタで二次元愛好者だからといって、そこまで徹底しなくてもよさそうなもんだと、自分でもそう思う。
ついに落ちるところまで落ちたかというか、登りつめるところまで登りつめたかという感慨深いものがあるような気もしてくる。

さて、そんなわたしが世界を見るとどう映るか。
というか、わたしが女の裸を見るとどう映るか。

自分の頭のなかを整理してみようかと思う。



わたしは三次元より二次元が好きだ。
わたしは現物のねえちゃんより絵に描いたねえちゃんのほうが好きだ。
わたしは現物のねえちゃんの裸より絵に描いたねえちゃんの裸のほうが好きだ。

さて、アニメやマンガが嫌いな人が絵に描いたねえちゃんの裸を見たらどう見えるだろうか。
ただcartoon臭いだけのものにしか見えないかもしれないし、現物ではないものにドキドキなんてするわけがないとしか思わないかもしれない。

ところが!

本気で二次元を好きになったらそうでもない。
いや、そうでもないどころか全く逆に見える。
むしろそっちのほうがマシだというように見えてくる。

わたしが現物の女を見たとき、それがどう映るかわかるだろうか?

ただ、肉体をもつというだけで堕落した生物に見えてしまう。
極論するならば、ナウシカに出てくる腐った巨神兵みたいなのとか、ハリウッド映画のキモチの悪いエイリアンとか、そんなのが数%くらい混じってるんじゃないかというように見えてくる。

だから今さら実写のアダルトDVDを見ても
「うわっ、なんかキモい、なんつうか獣姦みたい」
と思ってしまう。
好きなアニメを見終わって精神的な満足感を得たあとなどは特にそう思うだろう。

絵に描いたねえちゃんの裸にはそういうところは一切無い。
なかにはキモチワルイのもあるのも確かだが、現物のねえちゃんが全員一律持っているような堕落した生物的な感じが一切しない作品もまた高頻度にありつける。

実写のアダルトDVDに比べ、エロゲがいかに素晴らしいかについては当blogにてかつて書いたことがある。
細かいことはそちらを参照いただきたい。

二次元と三次元のエロス
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090519



わたしは思う。

単に性欲が沸いたからといって、だれでもいいような知らん女の裸をアダルトDVDだかエロ本だかで見てオ○ニーするのでは真の満足感は得られない。
性欲というのは、究極的には異性への愛である。
しかし一見しただけのアダルトDVDだかエロ本だかの女優に対しては愛は沸かない。
しかしエロゲやエロマンガであれば、単なる女の裸だけ愛でるのではなく、そのキャラクターを総体として愛でることができる。

わたしは直感的にそれに気付いたからこそ、本能的に実写でオ○ニーするのをやめたのだろう。

わたしは実写のアダルトDVDのような堕落した肉体という枷から解き放たれた二次元のすばらしさをここに見た。
世俗がそれに気付くのはいったいいつになることやら・・・。

コナミの搾取とバンナムの搾取

2009-10-17 00:01:23 | オタネタ全般
かつて、コナミはときメモ1で搾取を行った。
いま、バンナムがアイマスで搾取を行っている。

しかし!

コナミの搾取とバンナムの搾取は何かが違う!
わたしはバンナムの搾取は許容できるが、コナミの搾取とはかつて袂を分かった。

何が違うのか。
それを今回考えてみたい。



予め言っておくが、コナミがときメモ1のときに行った搾取は当時「搾取」とは言わなかった。
我々の仲間内では「お布施」と呼んでいた。
ちょうどオウム真理教(アレフに改称)の時期と重なったこともあって「お布施」となったのだろうと思う。
しかし、かたや「搾取」でかたや「お布施」と呼ぶのも用語の混同を招くので、とりあえずここでは現代スラングである「搾取」で統一することにする。



ときメモ1もアイマスも両方とも有料グッズが死ぬほど多い。

まず両方ともあるのがラジオ番組、およびそれのドラマCD化。

いまはアイドルマスターレイディオはニコニコでも聞けるが、当時のときメモラジオドラマはそんな便利なものなどなく、文化放送(だったかな?)のAM放送をつかまえるしかなかった。
当時わたしは東京から遥か離れたところに住んでいたため文化放送の受信状態は会話内容を聞き取れるかどうかといったくらい最悪だった。
コンポの外付けアンテナを改造して指向性を強くして少しでも受信状態を改善しようとしたとか、そんなことは今となっては良き思い出である。

まあそういうのはどーでもいい。
今にして思えば、
「文化放送を聞けないヤツはカネ出してドラマCD買えよ」
という臭いして少しアレな感じではあった。

最初っからドラマCDの売り上げでラジオドラマの製作費用を回収するビジネスモデルだったのだろう。
こういうのは当時はしかたがなかった側面も強い。
それに我々がファンサービスとして無料で提供しろと言うわけにもいかない。
まあこれくらいは大したことはない。



さて、有料グッズ。

これには非常に大きな違いがある。

コナミの搾取はどうだろう。
ときメモ1のグッズの場合、そこらへんのホームセンターで売ってそうな日用品に絵を追加プリントしたものをグッズとして売っていた。
それも、絵は描き下ろしでも何でもなく、いつも見ている使い回しの絵を使っていた。
そしてその絵がプリントしてあるだけで、ホームセンターの値段の5~10倍の値段をつけていた。

最初のころ、我々はグッズに飢えていた。
だから、コナミでなくても誰でも作れそうな今から見ればショボいグッズであっても、そういうところは最初だけは見てみぬふりをしていた。
ファンはぼったくられているのを知ってて、最初はあえて我慢してぼったくられていた。
しかし、これがいずれユーザーに見限られる主たる要因となる。

対してバンナムの搾取。
これは我慢してぼったくられるような類のものではない。
喜んでぼったくられるような類のものだ。

何が違うか?

これは商品に製作者の熱意が燈っているかどうかの違いである。

製作者の熱意とは?

それは、追加の衣装やアクセサリーを見れば一目瞭然だ。
これは誰でも作れるようなショボい類のものではない。
製作者がアイマスを好きでないと到底作れないようなこだわりの逸品が追加される。

ときメモ1のグッズはヘタしたら自分でも発注できそうなくらいのものだ。
しかし、アイマスのグッズは自分で思いついて自分で作れるようなくらいのお手軽な出来映えを大きく逸脱しているものが多数ある。

だから、それをカタログで見たとたん、
「これをうちの○○に着せたらどんなにかわいいんだろう~」
と魂を闇に魅入られてしまい、ついつい買ってしまうのだ。
この辺はアイマス師匠の熱い記事(※1)を参照いただくと御理解いただけよう。

これは最初にグッズによる搾取をはじめたコナミに対し、後発のバンナムのほうが搾取方法をよく学習していて1枚上手だったのかもしれない。
先駆者というのは失敗を繰り返しながら進むものだから、あまりコナミを咎めることはできない側面もある。
しかし、バンナムはコアなファンは喜んで搾取され続け、コナミは搾取対象のファンの心象を損ねた面があるのは紛れもない事実だ。



それからビジネスのスタイル。

コナミは版権にむちゃくちゃうるさい。
だから個人のblogにキャプチャ画像をアップしようものなら速攻削除勧告をしにやって来る。
まあこれは本来的にコナミのものなのだからしかたがない。

こういう版権にうるさいのはときメモに限ることではない。
たとえば “デジタルコロコロコミック” などといった “デジタル” という名称を追加しただけの他社の版権に抵触しそうな名称をつぎつぎにおさえるといったような、パテントトロール(※2)的なイヤらしい商売を展開していた時期もある。
(今もそうなのかどうかまでは知らん)

べつにこれは違法ではないのかもしれないが、法の網をついたグレーゾーン的な商売をやる会社は社会からイヤな目で見られてもしかたあるまい。
現に、パテントトロールというのはパテントマフィアと表記されることもあるくらいなのだ。

対してバンナム。

会社の全商品がそうなのかどうかは知らんが、少なくともアイマスに関しては版権に対してかなり寛容である。
というか、個人blogでスクリーンショットを勝手にはっても、ニコニコなどでオリジナルの画像を使った2次創作を作ってアップしても、まず文句を言うことはない。
(さすがに公式のDVDをまるごとアップすると削除されるようだが(笑))

これはコナミの出方をよく観察した末の結論かもしれない。

コナミの場合、手当たり次第に個人blogをいじめたため、口コミの宣伝が全く展開されなかった。
したがって、あれだけときメモ1で遊んだわたしでさえ、ときメモのネトゲが出たのを終了するまで知らなかったくらいなのだ。
おかげで、ときめきメモリアルONLINEはユーザーが集まらずビジネスとしては失敗に終わったといわれている。
(うがった見かたでは、ときメモONLINEはコンテンツがほとんど無かったため、個人blog経由でそれがバレるのを防止しようとしたのではないかという意見もあるが…)

バンナムは違う。
同じ徹は踏まなかった。
ユーザーが勝手に宣伝するのを許容した。
おかげでニコニコでアイマスの動画を見たわたしもハマってしまった。
バンナムのやりかたはハルヒやラキスタのやりかたに近いものを感じる。

コナミの方針はユーザーとしては「しかたがない」的なものだ。
バンナムの良きにはからえ的な方針はユーザーからしたら大変印象が良い。

ユーザーが喜んで搾取されるためには、会社の印象というものは極めて重要なのだから。



【※1 アイマス師匠の熱い記事】

キミはメロディ
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/e/75e67d928a1140ff4c32debe71639d97

> この衣装は電撃魔王で決まったときから一目ぼれで2ヶ月待ち焦がれていたんです。
> DLCになったら絶対あずささんに着せよう!絶対似合うはず!と。



【※2 パテントトロール】

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB

> パテント・トロール(patent troll)とは定義が困難であるが、自らが保有する特許権を侵害している疑いのある者(主にハイテク大企業)を見つけ出し、それらの者に特許権を行使して巨額の賠償金やライセンス料を得ようとするが自らは当該特許に基づく製品を製造したりサービスを提供してしない者を指す英語の蔑称である。

GONZO株主優待が来た!

2009-10-16 00:00:37 | オタネタ全般
GONZO株主優待の第2弾たるDVDがやって来た。(※1)
2008年4Qの決算短信(※2)みて覚悟したけど、ほんと届いてよかったわ。

そういえば2009年1Qの決算短信いまだに出てない。
上場廃止になったからってぇことで発表する気もないようだ。
監査法人に払う金ケチって監査無しでもいいから発表してほしいにゃあ。

そういえばついでに、比較対照銘柄だったIGポート(証券コード:3791)のパフォーマンスも最近よろしくない。
当面つぶれそうな感じは全くしないけど、イマイチ儲けがでていない。
こっちも株主優待つけば株買ってみようかとも思うとこなんだが・・・。

来年もDVDちゃんと届きますように。



【※1 GONZO株主優待】
GONZO株主優待情報
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090728

【※2 2008年4Qの決算短信】
GONZOは滅びぬ、何度でもよみがえるさ!(その4)
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090604

俺の魂を熱くさせるノベマス

2009-10-16 00:00:27 | オタネタ全般
斑鳩 Ch@pter00
http://www.nicovideo.jp/mylist/11973784

先日↑これを見つけてしまい、寝る間も惜しんで一挙に見てしまった。
実におもしろかった。

おもしろいノベマスも確かに数多くある。
アイマスクエスト, くされ戦記, フヒ歩…
これらはみな最高におもしろかった。

しかし、いまだかつてこれほどまでに我々の魂を熱くさせるノベマスはあったであろうか。
漢の心の奥底に眠る熱くたぎる魂を鷲掴みにする動画、それが『斑鳩 Ch@pter00』なのである。



まず元ネタとなった斑鳩のことから語ろう。
(もう1方の元ネタたるアイドルマスターを熱く語るのはアイマス師匠(※1)のサイトにでもまかせましょ)

斑鳩は”いかるが”と読む。
法隆寺の近くにそういう地名があるが、それと関係あるのかどうかは知らん。

斑鳩は縦スクロールシューティングである。
ただし普通のシューティングとは違う大きな特徴がある。

斑鳩の敵弾には白と黒の2種類の属性がある。
自機にも白と黒の属性があり、それを臨機応変に切り替えることができる。

自機と違う属性の弾にあたるとミスになる。
同じ属性の弾には当たっても平気、というよりむしろワザと当たってエネルギーを回収する。

これがゲームのキモになる。
絶対に避けられないかのような弾幕に対し、自機の属性を切り替えつつ違う属性の弾に当たらないように避ける。

その姿は実に美しい。
こんなに華麗な弾幕、こんなに可憐な弾避けはいまだかつて見た事がない。
それは最後のほうのステージの戦いを見なければ決して分からないだろう。



だがわたしはこの斑鳩が苦手だ。

斑鳩のようなパターンを検討し戦略をたて冷静に判断するシューティングが苦手である。
たとえばグラディウスもそうだ。

それよりもむしろ、ハイテンションになり極限まで集中し、自分の訓練と反射神経だけを武器に戦うシューティングのほうが得意である。
たとえば怒首領蜂などの東亜系がそうだ。

そもそもわたしの反射神経は人並み以下なので、弾速を勘案して自分の反射神経分だけ先を見ていて、実は自機はほとんど見ていない。
そういうプレイスタイルをとっていると、斑鳩においての極限状態下では今の自機の属性がいったいどっちなのかを一瞬見失うこともある。
シューティングにおける一瞬は命取りだ。
そういう意味でも斑鳩は苦手だ。

しかし斑鳩は美しい。
その美しさには心惹かれるものがある。
悲壮感ただようBGMや挿入テロップやグラフィックがなおのことそれを引き立てる。

わたしは苦手なのを承知で戦いつづけた。
まあなんとかEASYで最終面の最後のほうまで行ったこともある。
そして4~5面あたりの弾避けは実に美しく、常にその姿に酔いしれ続けた。

だが、とうとうEASYすらクリアすることができなかった。
近くのゲーセンで斑鳩が撤去されて以来、もう長いことやっていない。



さて、ノベマスのほうの斑鳩 Ch@pter00。

これは斑鳩のゲームを開始する直前までのお話にあたる。
アイマスのキャラを用いてそれを二次創作している。

メインヒロインは春香。
主人公は千早。(注:千早はヒロインではない)

斑鳩の悲壮感ただよう世界観、弾避けの核心たる熱くたぎる魂、良くできたシューティングだけが持つ繊細さ。
それらをビジュアルノベルで表そうとしたのがこのノベマス。
そして千早の持つ孤高の存在的な雰囲気がまたそれに否応無くマッチする。

このノベマスはオープニングもまた素晴らしい。
OPには千早のarcadiaとinfernoが使われている。

これは良くできている。
自己の求める理想郷(arcadia)のために命を決して地獄(inferno)に足を踏み入れる。
このOPを見てからというものの、arcadiaとinfernoがますます好きになってしまった。
プレイ画面を絶妙に組み合わせたこのOPを見ていると、ゲーセンで飛鉄塊(機体の総称)にのり鳳来(敵)と戦ったあのかつての日々を思い出すのである。

このOP、このノベマスこそが、心底わたしの魂を熱くさせるといっても過言ではないであろう!



斑鳩をやったことがないと、この冒頭の世界観についていけないかもしれない。
アイマスと斑鳩の両方を知らないとおもしろくないかもしれない。

しかし冒頭からクライマックス全快でやってのける。
1話だけ見てみてノリについていけないようだったらそれ以上は見ないほうが正解かもしれない。

斑鳩を全く知らない人は以下のスーパープレイ動画を見てからノベマスを見よう。
あなたにとっての未知の何かがそこにあると願って。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm4092425
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4092511
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4092565
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4092616
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4092655
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8163383



【※1 アイマス師匠】
徒花な日々
http://blog.goo.ne.jp/styui-gdb/

我毎日観賞千早

2009-10-15 00:00:00 | 描いてみた(他)


ためしに千早を描いてみた。
Visioで(笑)。
しっかしまだまだ先は長いなあ、これは。



最近は毎日毎晩かかさず1回は千早の顔を見てる気がする。
千早のかわいいダンスを見てると、ほんと癒されるし心暖まる。

話はかわるが、人間は魅力的な異性を見ると脳内からある種のホルモンが分泌されるのだとか。
そして、絵に描いた人物でもそのホルモンがジャブジャブ分泌される人と、そんなんじゃあまったく分泌されない人との2種類に分かれるのだとか。

全く分泌されない人から我々を見れば、現物が手に入らんからという理由でガマンしてこっち側に居るようにしか見えないだろう。
そしてジャブジャブ分泌される我々からヤツらを見れば、こんなにいいモノがあるというのに、なんでわざわざ現物に手をつける意味があるのかね…としか思わない。

このホルモン説は本当なのかどうかは知らんが、お互いを理解できないという現状からすればこれは正しい気がする。
まあ、絵に描いた人物でないとホルモンが分泌さないわたしみたいな人はそうそういないかもしれんがね(笑)。

仮に今わたしに彼女がいたとして、そいつが
「あたしかその娘かどっちかにしてちょうだい!」
とか言ったとしても、1秒も悩まずに
「だったらおまえいらね」
と即決する自信がある。

今はそれくらいずっと千早を眺めていたい。
いつか飽きるときがくるまで。

ギャルゲーおっぱい統計解析

2009-10-14 00:00:59 | オタネタ全般
かつて、人はみな平等であった。
いや、平等というより画一的であった。
新入社員は軽自動車、先輩はカローラ、課長はマークII、部長はクラウン、かつてはそんな無個性な時代だった。

しかし!

今は違う。
人の好みの多様化が許容される時代になった。
予め決められたものではなく、自己の中にある絶対的な価値基準を問う時代となった。
新入社員は軽自動車からはじめる必要もないし、部長は無理してクラウンを買う必要もなくなった。
よき時代になったものである。

ここでは別にマイカーの話をしたいわけではない。

わたしはおっぱいの好みの話をしたいのだ!
この前のアレ(※1)といい、またアホさ際立つ話題だと自分でもアタマ痛いやら呆れるやら(笑)。



さて、おっぱいの好みというと何だろうか?

そりゃあもちろん巨乳派か貧乳派かの派閥争いになる。

かつて派閥争いはあったのか?

巨乳派や貧乳派という派閥争いはかつては存在しなかった。
・・・ような気がする。

では、かつてはどうだったのか?

他の工業製品同様、画一的な価値基準によって商品が提供されていた。
最大公約数的な内容、すなわちどのヒロインでもややデカいおっぱいが標準装備される傾向が強かった。
・・・ような気がする。

この「ような気がする」は本当に正しいのか?

それを検証した結果を以下に記そう。





1994年~2005年発売のギャルゲー7タイトルについて調査を行った。
統計解析をする元データは、主人公と同学年または高校生のヒロインのバストサイズである。
詳しくは上の画像をクリックしてほしい。

年上/年下的なあつかいだと余分に増量/減量されていて統計的な意味をなさない可能性があったので、全ヒロインではなく対称人物に制限をかけてある。
なので、一般にいうところのロリキャラは統計から排除されていると思って見てほしい。
またエロゲーではオトナの事情で全員18歳以上の成人であるという公式見解になっているケースも多いが、それはオトナの事情を汲んであげて補正をかけることにする。
ToHeartのマルチとセリオはどう分類していいものやら困るものがあるので、この2名(というか2体というか)は統計から除外した。
わたしがプレイしたことのないタイトルも含まれるので、どっか間違いが混入しているかもしれないと予めいいわけしておく。

じつはこれ、統計解析の結果が信頼に足ると言えるほどサンプル数が無い。
しかし、わたしがサンプルをかき集めるのにいいかげん飽きてきたのでこれくらいで先に進む。




上のグラフは横軸をタイトル発売年にとったバストサイズの平均値をもとめたもの。
下のグラフは横軸同じでバストサイズの標準偏差をもとめたもの。

これから次のことがわかる。

バストサイズの平均値は減少傾向にある。
バストサイズのバラツキは増加傾向にある。

これの解釈はこうだ。

・かつてのほうがおっぱいは少々デカめのものがついていた。

・現代は平均的にはおっぱいは小さくなる傾向にあるものの、サイズのバラツキが大きいため、巨乳ヒロインは今まで通り一定数いるままに、貧乳ヒロインの比率が大きく増加している。

・また『どのヒロインでもややデカいおっぱいが標準装備される傾向が強かった』とした先の仮説も正しい。



これで解ったろう。

現代は貧乳ヒロインの需要が高まっているのだ。
とりあえずヒロインはややデカいおっぱいにしておけば無難であると考えられていた古き時代は過ぎ去ろうとしている。
貧乳派にとって何と過ごしやすい時代となったものか。

貧乳派のわたしとしては価値観の多様性バンザイといって締めくくりたい。



【※1 この前のアレ】

あずさと千早のおっぱいを科学する
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20090924

アイマスやるのがツライ…

2009-10-13 00:00:18 | オタネタ全般
2009.10.05にチラッと記事に書いたゲーセンにアイマスの筐体があるのを見つけたので、最近たまにやってみている。
アーケード版はアーケード版でなかなか味があって実に楽しい。

ところが!

アーケード版のアイマスはけっこうやるのを辛く感じてしまう。
おかげでだんだんやらなくなりつつある始末だ。
(これは別に金銭の問題ではない。)

とりあえず初めてアーケード版をプレイしたときのことから順に語ろう。



わたしはゲーセンにはシューティングをする事だけしか用事がない。
なので、大型筐体やクレーンゲームやメダルゲームのコーナーはガン無視で完全スルーを決め込んでいる。
しかし、あるときたまたま近くのゲーセンでアイマス筐体を見つけてしまった。
それが運のつきだった。

どーやってプレイするんだかも良くわからんまま、勢いでコインを投入する。
コインを1枚投入したあとになって、初回プレイは1枚では足りないことに気付く。
ちょいとあせったが何とかゲーム開始。
(プロデューサーカードを新規作成する分が料金上乗せになる換算)

アイドルは千早、曲は蒼い鳥を1秒も悩まずに選択する。
というか、最初から悩む気はさらさらなく、悩むよりもどこにあるのか探すほうが時間かかったくらいだった。

ニコマスばかり見ていると、千早はツンツンしていて孤高の我が道を行く的な雰囲気のものが多い気がする。
もしくは貧乳のいじられキャラ。

ところが公式版はそうではない。
公式版の千早はとっても純真で、とっても健気で、おまけにとっても気難しい。
アーケード版特有の顔グラフィックが特にその傾向を助長している気もする。
これはニコマスばかり見ているとそういう面をついつい忘れてしまいそうになるところだ。
いかん、いかん・・・

さてゲーム本編スタート。
会話やらレッスンやらをこなしていく。

ん~~~、テンションのゲージが上がらないこと甚だしいなぁ。
いやまあ、これは分かってて選択したんではあるが…。
わかっちゃいるけど止められないとは、まさにこの事をさすに違いない!

プレイを重ねていく。

わたしがヘタクソなせいで、おかげで千早は気落ちしまくる。
ささいなことですぐに千早を傷つけてしまう。

わたしはそんな千早を見るのがたまらなく辛い。
千早を傷つけてしまった自分のことがどうしようもなくイヤになる。

いくらなんでも、たかがゲームに極端すぎやしないか?

自分でもそう思う。
しかし、このわたしのプレイスタイルは二次元を愛するが故に絶対に譲れないものである。

ゲーセンでコインを投入する。
全神経を集中させ、全身全霊をもってアイマス世界に傾注する。

シューティングでは、たかがコイン1枚のために死に物狂いで弾幕を避ける。
それと同じく、心底本気で自分の精神をアイマス世界に同調させる。

その瞬間にはわたしの精神はリアルワールドには無い。
その時だけはディスプレーの向こう側にわたしは住んでいるのだ!

だから楽しい。
アーケード版のアイマスは実に楽しい。

半ば精神を肉体から開放させ、そして精神のみ空想世界の住人となることで、たかがゲームであっても対等に千早と会話を楽しむことができる。

心ここにあらず。
まさにそれが正しい。
心そこにあるからこそ、その瞬間だけはたかがゲームの域を遥かに超えた何かを得ることができるというものだ。

しかし!

その反面、実に辛い。
わたしと千早のたった2人しかいないその世界において、魂の片割れである千早を傷つけてしまった事がたまらなく辛い。
これが千早を傷つけてしまった自分のことがどうしようもなくイヤになる所以である。

この感触は家で寝転んでギャルゲーをするのでは絶対に味わえない。

DS版のアイマスだったら、たとえ大失敗しても
「あ~あ、しゃあない、またやり直せばいっか・・・」
くらいにしか思わない。
だからそこまで入魂できない。

ところがゲーセンではやり直しがきかない。
さっき出てきた会話はもう2度とお目にかかることもなく自らの生涯を終えることになるかもしれないのだ。

そう思うとやりきれない。
現実世界のようにテンションが回復するまで存分に話し合うことすらできない。
我々はほんの限られたコミュニケーションによって一喜一憂して生きていくしかないのだ。

おかげでゲーセンでアイマスをプレイすればするほどダメージを食うようになってしまった。
おかげでだんだんやらなくなりつつある。



これがテンション管理の超ラクチンなやよいだったらまだ話は別だったかもしれない。
だがわたしは千早と時を過ごすと決めたのだ。

そうはいっても、決めたはいいが、過ごす時間がどんどん少なくなっている。
ううむ、いかんともしがたいな、これは・・・。

10年後にはテレビは存在していない?

2009-10-12 00:05:56 | 経済/経済/社会
若手社員が次々と辞めていくテレビ業界 「彼らは10年後にはテレビは存在していないと考えている」
http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-11947.html
http://npn.co.jp/article/detail/44283433/

(前略)

加えてテレビ界に起こっているのが人材流出という危機的状況だ。なんと入社して5年目までの局員が次から次へと転職してしまうのだ。「彼らは10年後にはテレビは存在していないと考えています。給料の激減も影響している。実はテレビ局の基本給はメーカー並み。残業代に支えられてきた。好きでないとテレビは作れない。しかも、テレビ屋はつぶしが聞かない代表的な業種。仕事を覚えたばかりの人間の流出に局も頭を抱えている」(制作関係者) テレビ界に未来はあるのか…。

(引用おわり)



なかなか興味深い記事をみつけた。
既にTV局は魅力的な職場ではなくなっているようだ。

かつて10年前はTV局は人気のある職場だった。
わたしは例外的にアニメ番組だけ好きだが、キホン的にTV番組は好きではない。
なのでTV局に就職したいとは全く思わなかったが、まわりにはTV局に就職したいなどと言っていたヤツらはけっこういた。

わたしは今は技術屋であるが、かつては工学部系の学科の大学生だった。
今は知らんがそのころは工学部でもTV局に就職したいというヤツらは一定数いるものだった。

たいがい工学部の学生は製造業など技術系の会社に就職し、研究/開発/設計/SEなどを希望するのがふつうである。
ところがどっこい、TV局に就職したいというヤツらは一般の工学部の学生とは少しズレていた。
たいていそういうヤツらは工学部の学生のくせに技術にはまったく興味がないヤツらだった。
(例外的に給料がいいからという理由でTV局がいいという普通のヤツもいるにはいたが・・・)

技術屋は酒の席でもテクノロジーの話で盛り上がってこそ技術屋だ。
だがヤツらは
「せっかくプライベートなんだから、そんな勉強みたいな話はするなよ!」
とイヤがるような有様だった。
わたしにしてみれば、ヤツらがなんで工学部に来たのかフシギでしかたがない。

そんなヤツらは研究/開発/設計/SEとして働くなんてまっぴらゴメンだというのも当然だろう。

わたしは別に彼らのことを優秀か優秀でないかということを決め付けたいわけではない。
しかし、技術系の人材としてそんな人材ばかりとるような会社(いわゆるTV局)に未来はあるのだろうかという気は少し感じていた。

技術面から言っても、NHKだけは別格だが、あとの民放は語りたくないような程度のものでしかない。
番組の程度から言っても、最近はかなりアレなのは周知のとおりである。

そして今。
TV局は職場としての魅力を失いつつある。
わたしは趣味で株をちょいとだけやっているが、新聞と地上波TV局だけは絶対買いたくない。

ここで書いたことは全体のうちでのほんの僅かな一部分でしかないが、あるいみ必然を感じてしまうのはわたしだけではないだろう。

國府田マリ子のおっかけをやって10余年が経過した

2009-10-11 00:01:07 | オタネタ全般
某所で漢のコピペを見つけたので転載したい。


> 國府田マリ子のおっかけをやって10余年が経過した
http://ex17.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1168982252/

1 :閉鎖まであと 6日と 14時間:2007/01/17(水) 06:17:32.61 ID:R7sJBQwH0
当時大学3年生だったオレはGS美神のおキヌちゃんをやってたマリ姉に出会い、
即効でファンになった。元々合コンや女の子とは縁のない生活だったが、
それからはマリ姉の為だけに生きてきたようなモンだ。
毎日マリ姉の歌を聴き、毎週ラジオも聴き、もちろんハガキも出しまくって
月3回必ず応援の手紙と詩を送った。イベントも全部行った。
全国ツアーで一緒に全国制覇したのも二度や三度じゃない。
ファンやって二年目、握手会で俺の名前を覚えてくれてた時には
嬉しくて本気で涙が出た。人生で最高の喜びだと有頂天になって、帰り道一人で吼えてた。
地元の役場の事務に就職した後も、それだけが楽しみで生きてきた。
他の事は考えようとしなかった。結婚も、彼女も、友達も、そんなのは関係ない、いらないと思ってた。
そして去年の9月。
信じられないものを目にした。「國府田マリ子結婚!!」
目を疑った。絶対ありえない、絶対ありえない。死んでもありえない。
・・・なんであんな男が。ふざけんな。どこがいいんだ。
マリ姉と釣り合わない、失礼だ。ふざけんな。ふざけんな。一週間仕事を休んだ。
失意の内に半年が経った。もうラジオも聴いてない。会員番号2ケタ前半のファンクラブも辞めた。
最近になってようやく、俺も自分の幸せを掴もう…そう思えるようになってきた。
だけど俺には何も残ってなかった。20代という多感な時期に何もしなかったんだ。当たり前だ。
マトモに他人と喋ったのはいつだっただろう。女の子とおしゃべりをしたのはいつだっただろう。
恋について、結婚について、そして人生について最後に考えたのはいつだったんだろう。
趣味も、特技も、人間性も、協調性も。何もありゃしない。
残ったのはブサイクで汚い30代の中身スッカラカンな男。それだけ。
こんなのが今更どうやって幸せ掴めってんだ。声優のおっかけは何も生み出さなかった。
それに今まで気づかなかった俺は最高にバカだ。
そして朝っぱらからこんなグチをネットでしかこぼせない俺は最高に惨めだ。
是非俺を笑ってくれ。蔑んでくれ。そして自分の人生をもう一度考えるキッカケにしてくれ…



(引用おわり)

当人が言うように、確かにふつうならば笑われそうだし蔑まされそうだ。

しかし!

そこは当blog、教団「二次元愛」を掲げる我輩のblogではそうはいかない。
せめてうちくらいは肯定的に解釈してやりたいと思う。



先のコピペを読んだとき、わたしがどう思ったか解るだろうか?

正直な話、わたしはちょっぴりうやらましいとさえ感じた。
わたしが何かモノを好きになることはしょっちゅうあるが、彼ほど人生を投げ打ってまで好きになったことは未だかつてないからだ。

ついでに言っておくが・・・
わたしの感覚では、アイドルや声優とはアニメのキャラクターと同様の「モノ」に近い性質のものであり、「人」のほうに近いとは言い難いと感じている。
わたしが人生を投げ打ってしまうほどに「人」を好きになるなんて目下のところありえそうにないので、そっちの可能性は検討辞退する。

そしてわたしは問いたい。
かつてあなたは1人の異性を好きになって、そして10年もの間それだけを楽しみに生きていた事があるだろうか?

まずありえないだろう。
結局は短期にくっついただの別れただのを繰り返し、上書き保存なり別名で保存なりをした今となっては頭の片隅にさえ存在しないかつての恋の話。
せいぜいそんなところだろう。

しかし彼は違う!

10年もの長きにわたり何の見返りも求めない愛を貫き通した。
握手会で名前を覚えていていれくれたという、たったそれだけの見返りで有頂天になるほど喜べる。
これさえあれば他の一切を必要ないと断言できた彼こそが真の漢であると、わたしはそう断言したい。

これを見て2つほど思い出したものがある。

その1つは「すべてを捨てて戦う男」というデビルマンの歌詞。
もう1つはうる覚えなのだが、女の子とデートするよりボクシングするほうが楽しいんだと断言したあしたのジョーのセリフ。
わたしは彼の行動はこれに通ずるものがあると感じたのだ。

彼は年老いたのち、若かりし頃の懐かしき日々を思い直してこう思うだろう。
「俺の20代は國府田マリ子と共にあった・・・」
と。
年老いてなお輝きを増す自分だけの大切な思い出、彼は既にそれを手に入れているのだ。

それに対して世間の一般人。
こいつらは彼と同じくらい強烈な自分だけの思い出があるだろうか。
何となく大学を卒業して何となく就職して何となく恋愛して、いつの間にか30代になっていた。そして
「俺の20代って何してたんだっけ・・・」
とでも思うのがせいぜいではなかろうか。

これをちょっぴりうらやましいと言わず何と言おう!

イエスキリストの寓話に
「いままで罪を犯したことのない者だけがこの女に石を投げても良い」
というものがある。
それと同じように、彼のことを蔑んでもよい者は彼以上に20代を全力で生きてきた類稀な人たちだけだと思うのだ。



これだけ持ち上げておいて何だが、実は彼には1つだけ敗因がある。
それは、2次元ではなく2.5次元である声優を愛したということだ。

2.5次元は2次元よりも3次元に近い。
だから2次元よりも実体化が進んでいるという良い面もあるが、残念なことに3次元の愚かなところも色濃く受け継いでいる。

ここで他人の趣味をとやかく言うつもりはない。
だが、彼があらかじめ我々と同等の2次元を愛する高みへと到達してさえいれば、彼の言うところの惨めさを感じることもなかったであろう。
わたしに言わせれば、この側面だけは当時大学生だった彼はまだまだアマチャンで修練が足らん男だったということだ。

声優とはいかなる概念のモノかという事に関しては以前考察したことがあるので、興味があったら以下を参照いただきたい。

> 2.5次元世界の住人たち
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/e/7f5d0d453a33ba6e3af043bc7d85cf20

彼はいま30代を半ば過ぎたところだろう。
いま何をしているのか知らんが、20代のときと同じく30代を全力で嬉々として生きていることを祈りたい。



あと、最近これに新たなコピペが追加されたようだ。
これが当人によるものかどうかは不明なのだが、一応それも転載したい。



6 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[]:2009/07/09(木) 00:17:08.40 ID:3+f+/7Ty0

その後俺は真剣に人生と向き合っていた。
一時の熱狂に身を任せてもろくな事にはならない。それが心の随に刻み込まれた。
冷静に、ひたすら冷静に、自分の人生の糧となるようなものを探したい。
もう空虚な毎日の中でただ時間が過ぎゆく事だけを考えて生きるのはごめんだ。
そんな俺に転機が訪れたのはあれから4年経ってからの話だ。
一人の女性と出会った。これが一目惚れってやつかな。もう彼女の事以外なにも考えられなくなった。
今後の俺の人生は全て彼女の為に使うと決めた。
今度こそ俺の人生は素晴しい輝きに満ちあふれたものになるだろう。
彼女はそう俺に確信させてくれたんだ。二度と同じ過ちは繰返さない。
愛してるよ、クギミー。



(原文はここで終わる)

註:
クギミーとは最近はやりの釘宮理恵という声優のこと。

改造人間(美容整形)に思うこと

2009-10-10 00:00:09 | 経済/経済/社会
改造人間とは何だろうか?

改造人間とは、運動や訓練といった地味で一般的な方法を踏襲することなく、施術によって肉体の機能強化をしたり、本来人間の持っていない付加機能を追加したりした人間のことを指す。

改造人間というと仮面ライダーの怪人みたいなイメージがある。
なんだか世界征服をもくろむ悪の秘密結社でも出てきそうな感がある。
そんなのが現実にいるようにはちょっと思えない。

しかし!

世の中には改造人間が少なからず存在する。
あなたが気付かないだけで、すでに改造人間はあなたのすぐ傍に潜んでいるかもしれないのだ。

さて、改造人間のなかで一番多く生息しているものは何だろうか?

それは、美容整形によって見てくれを改造した人たちのことを指す。

世の中に一般に発見しやすい改造人間たち、いったいどんなのがあるだろうか。
今日はそいつをちょいと書いてみたい。



お手軽なプチ改造をほどこした改造人間は、注意してみてみれば意外にたくさんいることにすぐに気付く。

コンビニなどのそこいらの店の売り子のねえちゃんを注意深く観察してみよう。
ときおり、人体の構造上ありえないようなつり眉毛の人間がいる。

そいつらの眉毛をじっと見てみよう。
実はもう1組うっすらと眉毛があるのをすぐに見つけられるはずだ。

こうなったらもう滑稽にしか見えなくなる。
まるで、アシュラマンが腕が6つ、アシュラマンの師匠のサムソンが腕が4つあるかのように、4つの眉毛を誇るねえちゃんはまるで悪魔超人のコスプレでもしているんじゃないかとでも思えるほど滑稽だ。

犬の顔にマジックで眉毛書いたほうがまだマシなんじゃなかろうか・・・。



次に、もうちょっと改造らしい改造を施した改造人間を。

外人のねえちゃんのグラビアとかで多分たくさん生息していると思う。

ねえちゃんのおっぱいをよく観察してみよう。
そこにはカンペキに2種類に分類できる異なったおっぱいが存在していることに気付く。

もちろん巨乳と貧乳の分類ではない。
外人のねえちゃんのグラビアには全員巨乳しか出てこない。
その分類とは、タユンとしたおっぱいか、ポコンとしたおっぱいかの分類である。

人体の構造上はタユンとしたおっぱいが正しい。
では、ポコンとしたおっぱいは何だろうか?

これは明白だ。
改造人間だからだ。

このヘンテコなおっぱいはなぜ発生するのかはよくわからない。
造詣のセンスのないヘタクソな整形外科医の改造だとそうなるのだろうか・・・?
それとも、AA72がF91になるくらいムリな改造を施すとそうなるのだろうか・・・?

わたしにはこの改造は理解できない。
まあいずれにしても、貧乳派のわたたしとしては、貧乳を巨乳に改造するなど何ともったいない事をするのかと嘆き申し上げたいくらいである。

諸君、日本人でもポコンとした巨乳おっぱいを見つけたなら、それは確実に改造人間であると見破れなければ後で後悔することになると、予めそう忠告しておこう。



最後に、フルカスタマイズに近いほどの大改造を施した改造人間を紹介したい。

昨今は韓流がブームなんだか名なのか知らんが、ソレ系の韓流美人モノがけっこうあっちこっちにある。
キャバクラなりヘルスなりにしても、かなりソレ系は多い。

その広告を注意して観察してみよう。
いくつか比較検討してみるとすぐに気付くことがあるはずだ。

それは・・・
韓流美人はどいつもこいつも全く同じ顔をしていることだ!

> ★<丶`∀´> ウリナラの最新美容整形事情を紹介するニダ!
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/817813c626f3fababd01805459c79c7a

おとなりの韓国では、日本では考えられないほど整形が盛んに行われている。
だいいち当時現職だった前大統領でさえ整形したくらいだし、いまの韓国の芸能人の女で整形していないヤツはたった1人しかいないというのは半ば常識なのだから、若いねえちゃんが改造人間に手を染めないわけがない。

そしていったん大規模な改造に手を染めてしまうと、もう改造人間に対する抵抗力が全くなくなり次から次へと改造していくようになる。
結果的に原型をとどめないようなフルカスタマイズの改造人間が出来上がる。

ついでにわたしから言わせれば、韓国の整形事情は美的感覚が極めて貧困である。
「こういった顔が典型的な美人だ!」
というような韓国人共通のテンプレートみたいなのがあり、改造するものは全員が全員それを目指して改造していく。
結果的に原型をとどめないようなフルカスタマイズの改造人間にすると、ほとんどのヤツらは同じ顔で区別もつかないようなのが出来上がる。

これは恐らく文化の違いによるものも大きいだろう。
韓国人はすぐに結果が出るものにしか興味がない。
だからカネさえ出せば簡単に美人になれるような改造人間(美容整形)に走る。
そして行き着く先は、しかも没個性で画一的な改造だ。

まあ、ツラが良いだけでひっかかるような男も男である。
そしてツラが良いだけでひっかかるような男で満足するような女も女である。
そういう内輪でバカなことを繰り返し続けているからこそ、韓国は日本にいつまでたっても追いつけないとコンプレックスを抱いたまま今に至るのだ。



むかし知り合いの女に
「だれか女紹介してくれ」
と半分冗談で聞いてみたことがある。

そしたら
「すっごい美人のいい人があまってるけど?」
とかえされた。
逆に聞いたこっちがビックリした。

よくよく聞いてみるとだね、
「しょっちゅう整形しているからすっごい美人だし、豊胸手術しているからすっごいスタイルもいいんだよ。けどね、その人は見た目だけで中身がなんにも無いから、だれかと付き合ってもすぐにフラれちゃうんだ・・・」
ってぇ事なわけよ。

いるかそんな女!!
ようするにフルカスタムなんてそんなもんだということだな。

ハリボテでガンダムに見せかけたところで所詮ジムはジム。
同じ連邦軍の白いモビルスーツでも、ガンダムとジムとでは機動性能も被弾耐性も天と地ほど違うのだ。



あなたも気をつけよう。
美人ではあるが没個性なツラの韓国美人を見たとき、それは原型もとどめないほどのフルカスタムの改造人間であることを忘れてはならないのだ。
それでもいいから注意して楽しむというのであれば別にこれ以上忠告はしないがね・・・。

「変態という名の紳士」たちの人口密度

2009-10-09 00:00:20 | オタネタ全般
かつて45歳くらいの会社の課長が言った。
「最近は変なヤツが入ってこない」
と。

これは何かというと、
「最近の若者はみんなおしなべて良い子なんだけど、一癖も二癖もありそうな尖がった能力を秘めていそうな若者が入社してこなくなった」
という意味だそうな。

かくいうわたしは100歩譲っても間違いなく変なヤツの部類に入る。
あまり自覚は無かったのだが、会社の寮に住んでいたときには
「休みの日に部屋からドリルの音がした」
とか、
「自前のオシロスコープを持っているらしい」
とか、
「部屋に行ってみたら真空管が転がっていた」
とか、
「駐車場で車を解体しはじめていた」
とか、
数々の伝説を誇るベストオブ変なヤツとされていたらしい。
ちなみにコレすべて思い当たるフシがある。
先の課長に言わせれば、どうやらそういう波乱万丈ありそうな部下をかかえたいそうな。



さて、課長いわく近頃の若者はどうだろう。
課長に言わせれば、わたしより入社年度の若い後輩たちには、そういう変なヤツというか、愛すべき馬鹿的なヤツらがいないように見えるらしい。

会社はおいといて、さて世間を見渡してみよう。
ニコニコには愛すべき馬鹿的なヤツらはほとんど無尽蔵に跋扈している。
ニコニコを見るかぎりにおいては、日本はそうカンタンに世界に遅れを取るとは思い難いのも事実だ。

課長の判断とニコニコの有志諸君の多さでは明らかに矛盾が生じている。
どちらかが間違っているのは確実だ。



これはどちらが正しいのか?

わたしはこの問題を解くための1つの仮説を持っている。
思春期に既にPCとネットが普及していたかどうかに係ってくるのではなかろうかと思うのだ。

ネットの普及前、我々は自前の変態っぷりを遺憾なく発露するのは容易ではなかった。
(変態っぷりを発露している時点で既に遺憾なのかもしれないが、まあそれはおいといて・・・)

すなわち、自前の変態っぷりを普段から発露させているのがデファクトスタンダードで、そのセンサーに引っかかった身近にいるヤツらとコミュニティーを形成するのが普通だった。

ところが現在はそうではないかもしれない。
PCとネットが普及したことで変化が起きた。
ニコニコなどのネット上で変態っぷりを発露させることができるようになった。
そうなることで普段から日常生活において変態っぷりを発露させる必要がなくなった。
つまり会社などではおとなしく過ごすことになってしまったわけだ。
そして必然的に会社の上司視点からは変態という名の紳士には見えなくなる。

わたしの仮説が正しいならば・・・
羊の皮をかぶった狼のごとく隠れ紳士がそこら中に潜んでいて、日夜活動しているに違いないと、そう思うわけだ。



わたしはこの件に関しては「近頃の若者は・・・」などと言う気はない。
しかし、自分の流派をひた隠しにするのはもったいない。

北斗の拳でも戦うときは自分の流派を名乗るではないか。
あれと同じように、もっと身近に変態っぷりを発露させてほしいと思うのだ。

そうでなければ、中学校野球部の秘密兵器クンのように、兵器の性能を1度も発揮することもなくヒミツのまま卒業してしまう可能性を否定できない。
逆に、変態っぷりを発露させている凄腕の紳士が身近にいたとすれば、その変態っぷりに敬意を評しつつも自らもさらに切磋琢磨し、さらなるイタい変態へと登りつめるきっかけにもなるわけである。

わたしも身近にいる変態という名の紳士諸君にかなり影響されたクチだ。
だからわかる。
身近にいる変態は重要な強敵(友)だ。
でなければここまで悟りを開くことはなかったであろう(笑)。



これは自分だけの問題ではなく、社会全体の損失でもあると思うのだ。

電磁界解析ツールの意外に重宝する使いかた

2009-10-08 00:00:22 | 科学
電磁界解析シミュレータというものがある。
2次元平面とか3次元構造のものの電波伝搬をシミュレーションするソフトである。

今までなら、部分部分に区切って等価回路に書き直して解析するとか、ためしに試作してみるとかするしかなかったところだが、こいつを使えば3次元でお絵かきした構造そのままでシミュレーションすることができる。
何が何とも言えないようなヘンテコな形のものでも解析できるし、慣れてくれば試作しなくてもシミュレーションでどうにでも解析できるしで、じつに便利なツールである。

しかし!

こいつには、当初は思いもよらなかった意外に重宝する使いかたがある。

それは
「電磁界解析したらこんな電界分布になりました。だからここが原因です!」
とカンタンに相手を黙らす口実をでっち上げることができることである。



たとえば。
どこかのだれかが回路で動作不良を発生させたとしよう。

もしその問題が大きい場合、担当者一味やら他部署の有識者やら偉い人やらが集まって対策会議をすることになる。
大概は、担当者一味なら何が問題なのかは理解しているし、他部署でも有識者ならちょいと話を聞けばすぐに問題を理解できる場合がほとんどである。

ところがどっこい、偉い人はそうでもない。
その部署のトップの管理職の人が、かならずしも問題を発生させている原因の分野に明るいとは限らない。

偉い人は詳細な実験データや解析結果を要求する。
しかし、それを専門にやっている実担当者レベルでは、原因ははっきりしている事を知っていて、実験しても自明な結果が出るだけなのを知っている場合は多い。

生産縮小傾向の鮮明な非主流製品であればとりあえず的な対処両方さえ解っていれば十分な場合も多く、時間を使うほうがもったいない場合も往々にしてよくある。
それに、わざわざ時間をつぶしてアタリマエなことを実験しなければならないのは非常にかったるいし、モチベーションは少しも上がりもしない。

ところが偉い人に
「そんなのアタリマエですから実験するのもめんどくさいし、別にコレでいいじゃないですか・・・」
と言っても
「なんでそれがアタリマエだと言い切れるんだ! 数字で説明しろ!」
と、それはそれで別の意味でめんどくさいことになるケースもある。

場合によっては相手は上司の上司だとかいう事もありうるわけで、ムカついたからといって実験レポートの結果報告に
「アタリマエのことをしてアタリマエな結果が得られただけで、本実験で特に新しくわかった事があるわけでもない」
とか書けるはずもなく、かといって
「実験した結果、○○のとき△△となる新たな事実がわかった」
とか書くと、逆に自分がそんな事も知らん程度のレベルの低い技術屋だと思われかねないから書くわけにもいかず、そういう意味でも色々とかったるいわけである。

やれやれ、困ったもんだ。
従来はそれで渋々シゴトをこなすしかなかったわけだ。

ところが!

実はそういう時にこそ、電磁界解析シミュレータの真価を発揮するときなのだ!



その手順はこうだ。

・とりあえず問題となった部分の設計情報をコピペして3次元のお絵かきをする。
  ↓
・それを電磁界解析シミュレータにほおりこむ。
  ↓
・どっか適当な周波数での共振分布とか信号伝播とか、なんかそれっぽい解析をさせる。
  ↓
・解析が終わったら、赤~黄~緑~青のグラデーションのかかったカッコいい解析結果の絵を表示させる。
  ↓
・それを偉い人の前にもってって、
 「シミュレーションした結果、このようにここの電界が強く立っていまして・・・」
 というような説明をする。



ここまですると、たいがいの専門家でない人は黙る。
グラデーションのかかったカッコいい解析結果を出されると、やったことのない人から見れば何だか知らんがすごいことをやってきたかのように見えるようなのだ。
(専門知識のある偉い人の場合はツッコミを入れるかもしれないが、そもそもそういう人はアタリマエな結果が出るような実験をしろとゴリ押しするようなことはまず無い。意味を理解できる人同士ならば話せば解るのだ。)

こういうシミュレーションを2時間くらいでパッとやって持っていけば、そりゃあもう課長クラスの人たちは大喜びだ。
なんせ、何日も部下の工数をかけてどーでもいいような実験をさせる事もなく、口先三寸で誤魔化してすませる材料ができたからだ。
そしてそれをレポートに貼り付け、偉い人の前でさもマジメに検証してきたかのように報告するわけである。

実はこいつはヤミツキになってしまう。
そんなのを1度でも渡してしまったら
「このボードでこの辺に○GHzくらいで変な共振が出るんだけど、それっぽいような電磁界シミュレーションしてくれない?」
とか、いろんな部署からよく頼みに来るようになる。
そうやってポイポイ結果を渡してやり、そしてわたしはみんなのムダな実験時間の削減に大いに貢献しているのだ。

電磁界解析シミュレータとは、カンタンに偉い人を黙らすこともできる、なんとも便利な重宝するツールでもあるのである。



追伸:

いちおう念のために言っておくけど・・・
電磁界解析シミュレータはホンモノの研究開発に使っている時間のほうが圧倒的に長いわけで、そういうアホらしいことをするためだけに用意しているわけでないからね(笑)。

シューティング と 孤独なる戦い

2009-10-07 00:02:14 | シューティング
シューティングとは孤独と戦うものでもある。
ゲームにおける数あるジャンルのうちで最も孤独なる戦いを強いられるものの1つである。

例えばロープレ。
主人公は頼れる仲間とともに巨悪と戦いに挑む。
決して主人公は孤独ではない。

例えば格闘。
主人公は世界最強の座を賭けて相手に挑む。
主人公は1人で戦うのではあるが、フィールドでは決して1人だけではない。

例えば恋愛シミュレーション。
これは孤独と戦うものとは正反対に位置するものであることは明白だ。

シューティングだけは違う。
シューティングだけはこれらのモノとは根本的に違う性質を備えている。

シューティングの背景は千差万別だ。

ある者は決して帰ることのできない深宇宙へと地球最後の希望の星としてたった1人で戦いに赴く者であるかもしれない。
ある者は祖国を焼かれたたった1人の生き残りとして敵に復讐を誓った者であるかもしれない。
ある者は敵の文明に地球を破壊され偶然たった1人生き残ってしまった死に場所を失った者であるかもしれない。

たよれるのは自分だけ。
そこに居るものも自分だけ。
たった1人で、百倍する、いや万倍する武力を誇る敵軍へ絶望的な戦いを挑む。

それがシューティングというものだ。



これをして
「たかがゲーム…」
そう割り切るものもいるかもしれない。

しかし!

「たかがゲーム…」
そう割り切るものは、絶望的な戦力さを誇る敵軍を前にして、決してそれに対峙し続けていることすらできはしない。

ゲーセンでコインを投入する。
筐体よりクレジットを認識した旨の効果音が響く。
1Pのスタートボタンを押し、自ら望んで戦いの幕をあける。

そこから先は、たかがゲームと割り切ることのできない者たちだけが集うことを許された戦場だ。
たかがコイン1枚。
しかしそれに命を賭けて戦う。

人類の脳の処理能力を遥かに凌駕するように思える狂気の弾幕が降り注ぐ。
脳のてっぺんから指の先まで全神経を集中させ、死に物狂いで弾幕を避ける。

死に物狂いにならない者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
たかがゲームとあざ笑う者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
所詮コイン1枚などと安く見る者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
そして、たかがゲームたかがコイン1枚に命を賭けて死に物狂いで避けようとする者だけが、狂気の弾幕を全て避けきり、その向こう側にある神の領域のほんのひとかけらを目にすることができるのだ。

ここでいう神の領域とは、宗教的な意味での極楽浄土を意味するものではない。
自己の能力の限界を試され、それにほんの僅かの差でそれを上回り、人類の能力の限界をも超えた何かがさらにその先にあることを意味している。

「たかがゲーム…」
そう割り切ることのできないものだけが、唯一その領域の鱗片をわずかに垣間見る事ができるのだ。

自分が肌で感じたその領域の鱗片、それは決して他の人と感情を共有することなどできはしない。
孤独に屈せず、狂気の弾幕に何度も何度も撃墜されつつも悔し涙をふいてまた1人戦場にに赴き、そしてようやく1人でだけ手に入れることができるものだ。
シューティングは孤独な戦いである。
いったいどこのだれとその領域に踏み込んだ感動を分かち合えるだろうか!?



実際、ゲーセンで自分が弾を避けるのと、家でポテチでも食いながらYouTubeだかニコニコだかのスーパープレイの弾幕避けを見るのとでは、それは天と地ほどの違いがある。

この違いはたとえば・・・
自分が戦国時代に生まれ、足軽として合戦に参戦し、敵兵に殺されかけながら死に物狂いで敵兵を殺すその熱病と恐怖。
そしてそれをエアコンの効いた自宅でポテチでも食いながら大河ドラマで見る人。
これはそれくらいモノが違う。

戦場で死に物狂いにならない者は生き残れない。
ようはシューティングとはそういうものだ。



昨今ではシューティングをやろうという者がめっきり減った。

たかがゲームに死に物狂いになる意味もない。
そして死に物狂いにならないと得られないその先にある何か、たかがゲームと言っているうちは決してそれが存在することにすら気付くことができない。
これは絶対に人と分かち合うことはできない孤独に戦った者だけが得られる代物だ。
だからシューティングのおもしろさは人には理解されない。

それはとっても悲しいことだと思う今日このごろである。

「愛こそ全て」な風潮に物申す

2009-10-06 00:00:35 | オタネタ全般
世の中には「愛こそ全て」的なストーリーは腐るほどある。
腐るほどあるにもかかわらずいつになっても陳腐化しないのは、あるいみ不思議でならないような気もしてくる。
そもそも恋愛モノのストーリーならば「愛こそ全て」が至上命題になるのも当然なわけで、人類が恋愛に飽きないかぎり未来永劫ありつづける気もする。

べつにここではそれを非難したいわけではない。
わたしも特に嫌いなわけではない。

しかし!

恋愛モノでもないくせして、
最初のほうは恋愛モノとは全く無関係なストーリーだったくせして、
最後のほうになって突然「愛こそ全て」になるものがある。

わたしは
「それはどうよ?」
と言いたいわけだ。
わたしの頭のなかで、とってもたくさんの疑問符が噴水のごとく湧き上がるように発生してしまうのだ。

これが特に目に付くのがSF作品。
最初のほうはガチなハードSFだったのに、最後のほうだけなぜか
「男と女の愛が地球(または人類)を救ったのです!」
みたいなストーリーになるのは特に疑問符がつく。

たとえばプラネテスとか。
たとえばガンダムダブルオーとか。

これら作品はSFとして大変おもしろい。
わたしとしても観賞推奨にしたい。
しかし、最後の最後のごく一部分だけちょっと疑問。



たとえばガンダムダブルオーの話をしよう。

まず最初の頃。
戦争根絶のためにあえて戦争に介入するという、矛盾しているのをわかってて矛盾した行動をとる主人公一味の葛藤が描かれる。

ここでは視聴者に
「なぜそこで撃てる!?」
と唸らせ考えさせる戦闘描写がかなり多い。
この辺は実によくできているなと見ていて感動した。

対して最後の頃。
登場する主人公一味の各々の最愛の人が敵陣にいて自分たちを攻撃しに来ることになり、どうやったって矛盾した行動になる主人公一味の葛藤が描かれる。

さっきと対応させるとすると
「なぜそこで撃てない!?」
いうような戦闘描写ばかりだった。
最初の頃のアレがかなり衝撃的かつ感動的だったのに比べたら、わたし的にはかなりシラけてしまうシーンだった。

自分が恋人だと思っていた女が実は敵のスパイで、いま武装してやって来て自分を殺そうとしていたとしたら、あなただったらどうするか?

考えてもみたまえ。
わたしだったら
「なんだスパイだったのかよ」
と3秒くらい落胆して、そのあと1秒も悩まずに引き金を引く。
それがフツーだろう、たぶん。

わたしだったら彼らみたいに
「俺だ! わからないのか? 戻ってこいよ!?」
みたいな取り乱しかたはまずしない。

ストーリーとしては、結果的に撃たなくて正解だったというシナリオに落ち着いている。
そうすると、ますます
「なぜそこで撃てない!?」
に対する説明を要求したくなるものだ。
少なくともわたしはアニメの描写では納得しない。

そして極めつけはグラハムだ。
グラハムは恋や愛などガン無視し、最初から最後まで自己の理想に殉じていた恐らく唯一の登場人物だ。
そのグラハムの最後がアレというのも、「愛こそ全て」的展開を正当化して補完するのに1役かっている。
グラハムの最後はアレであって欲しくはなかった。
わたしはグラハムが恋や愛を知らぬ残念な人あつかいされているように見えかねないあの結論にガマンならんのである。



この問題は、恐らくわたしが現物のねえちゃんに恋をしたことがないという、人生の致命的な経験不足によるものの可能性が高い。
これは普通の人だったら理解できるのだろうか。

少なくともハードSF作品では、特定の個人の主人公というものはいるものの、総体としては「人類」や「種」や「地球」というものが主人公相当として描かれることも多い。
ガンダムダブルオーもプラネテスもそうである。
だからこそ、恋とか愛とかいうインチキ臭い曖昧模糊とした結論に持っていくのではなく、テクノロジーとか進化とか理想とか正義とか、そういった崇高な使命の上に成り立っていて欲しい。
だからこそハードSFがハードSFたりうるのだとも言える。
でなければハードSFを冠するに値する結論ではない。

あの問題を理解できないわたしはそう思う。

わたしの意見に賛同できない人、反論大歓迎だ!