私は何の花の香りが好きって言ったらクチナシの花の香りが好きだ。
あの甘くて芳醇な香りがするといろいろなことを思い出す。
実家の庭にはクチナシの花があった。庭と言っても、ワンルームマンションのキッチンほどの大きさしかなく、裏の建物「ドライアイスさん」の土地だった。ドライアイスさんという呼び名は通称で、その昔、そこでドライアイスの製造をやっていたそうだ。とっくに倒産してしまったらしく、営業しているドライアイスさんを私は見たことがない。ショウウィンドウには干からびたみの虫がなぜだかぶら下がっていた。
話しが逸れた。
クチナシの香りは、毎年ウチの居間に夏を運んできた。わが家の夏とは、野球のナイター中継を見ながら、枝豆でビールを飲む父の姿だった。
今でもその甘い香りがすると決まって、その風景を思い出す。もう父も居ないし、庭は駐車場に変わったし、見ることは出来ないのに。香りの記憶とは不思議なものだ。
ちょうど今回の公演の顔合わせの日の早朝に、父が亡くなった。
東京に来て以来、ほとんど実家へ帰っていなかった気遣いからか、家族から「もう間に合わないので、すぐに帰って来なくてもいいよ」と言われた。
「なんだその気遣い…」と思いながら、すぐに京都へ帰った。私だって早く父に会いたかったし、そんな気持ちのまま日常生活を送れと言うのは酷な話だ。そういうちょっとズレた心遣いが、ウチの家族らしいと思ったし、事態をよりリアルに感じさせた。
…なんだか、やっぱりうまく書けないけれど。
近い将来、そういう日が来ることを想像して耐えられず、私は去年「エピローグに栞を」という物語を書いた。長年実家に戻っていなかった娘と、その父親が和解する話。父に向けての贖罪のつもりで書いたのに、その頃にはもう身体も弱っていた父に、見て貰うことは叶わなかった。あれからちょうど1年。まだもう少し時間はあると思っていた。
京都に着いてからはずっと、父の隣で「纏わるひとびと」を書いていた。
今回の物語も、父と娘の物語でもある。ここに出てくる父親と、私の父は似ても似付かないけれど、数ヶ月前、無防備にそういうプロットを書いたことが悔やまれた。
所用を済ませ、東京へ戻ったその足で稽古場へ行く。
永島さんはこういうときに何て声をかけていいか分からないといった様子で、傍へ寄ってきてはただただウンウンと頷き、大田さんはおもむろにお香典をくれた。不器用過ぎる二人の様子がなんとも面白かった。
ただ、それだけの話だけど。
少し前まではいろいろ考えるヒマもなく台本を書いていたので、やっと今、駅までの行く道にあったクチナシの花のことを思い出している。
そういう意味で「纏わるひとびと」は思い出深い作品となった。人の死と、人々の優しさを、私に感じさせてくれる。
そろそろ、夜が明けてきた。