2013年12月21日に行われた日本児童文学学会の東京例会での、高橋律子(金沢21世紀美術館学芸員)による講演です。
竹久夢二に関することだけでなく、当時の少年少女の雑誌受容についても述べています。
高橋は美術史学会に属している美術史畑の人ですが、日本児童文学学会は児童文化もカバーしているので、彼女の著作に2011年度の学会の奨励賞をあげたこととの関連で今回の講演は行われました。
夢二は、「黒船屋」に代表されるような美人画が有名ですが、高橋自身は美人画よりデザインや子供の絵が好きだそうです。
夢二は、明治の終わりから大正時代において、たんなる画家ではなく今でいえばAKB並みの人気がある時代のアイコンだったそうです。
雑誌に夢二の絵を載せれば、その雑誌が爆発的に売れたそうです。
また、社会現象としての夢二式(単に夢二の絵の中の女性をさすだけでなく、それをまねた若い女性たちも含まれます)は一世を風靡しました。
今で言えば、アニメのキャラクターのコスプレーヤーのようなものでしょう。
いや、なにしろ「夢二式でない女学生は人間ではない」とまで言われたそうですから、それ以上の存在、コスプレーヤー兼読者モデルのような存在だったかもしれません。
夢二は、もともと詩人になりたかったのですが、雑誌に投稿した詩は入選しなかったので、入選した絵描きの方になったのだそうです。
全盛期には、四十冊ぐらいの雑誌に絵を描いていたほどの売れっ子です。
また、挿絵を集めた夢二画集がベストセラーになりました。
はたして夢二式の目は大きいのか?
今の基準(少女マンガの主人公やエクステンションやコンタクトを使った女の子たち)で見ると決して大きくはないのですが、それ以前の女性画の主流だった浮世絵では目が細かったので、相対的に大きく感じられただと思われます。
明治になって女性の美の価値観が変わってきて、それまで目が細いのが美人とされてきたのが、パッチリとした目の女性に変わったようです。
また、夢二式の特徴は目ばかりではありません。
髪型やお化粧、身のこなし、顔だち、夢二がデザインしていた港屋の襟、衣類にも夢二式はありました。
また数多くの夢二の恋人たち(数十人いたとも言われています)がみんな夢二式だったので、今でいえばモデルや女優などのファッションリーダーとしての役割をはたしていたのでしょう。
特に、写真が残っている夢二の恋人のお葉は、夢二式そのものです。
このように、絵そのものと現実の女性の両方に夢二式が存在しました。
夢二式はどうしてそんなに人気が出たのでしょうか?
そこには、当時の雑誌の受容との関係があったようです。
雑誌の力が、夢二の人気を生み出したのです。
当時、雑誌がマスメディアとして力を持ってきていました。
それまでは、本は絵双紙屋で売られていました。
それが消滅して、近代書店が現れました。
雑誌は、そういった書店で売られるだけでなく、通信販売でも日本中(海外の植民地へも)に流通し始めました。
また、太陽(大人用)と少年世界(子供用)が、今までの雑誌を束ねる形で総合雑誌として現れたことも部数拡大につながりました。
それまでの雑誌と、これらの総合雑誌とでは、部数の桁が違いました。
その雑誌の売り上げをのばすのが、挿絵や付録などのビジュアルだった。
また、この時期に石版印刷による多色刷りが可能になりました。
ちょうど日露戦争の時期で、その戦況を伝える写真図版の誕生とが同期して、爆発的に人気を集めていました。
また、夢二などの絵の人気には、美術趣味の流行がその背景にありました。
ちょうど今の映画やアニメのイメージに近く、絵を見るだけでなく、自分で描いたり、美術展の様子が語られたりしました。
当時美術館に行かれる人は限られていましたので、その背後には美術展の図編を楽しむ人たちが膨大にいました。
その一方で、芸術写真もはやっていました。
こうした活動を直接的に体験できない子どもたちが楽しむものとして、雑誌の存在は特に大きかったと思われます。
図版を切り抜いてスクラップブックをすることが、子どもたちにはやりました。
古本屋では、そうしたスクラップブックまでが流通していました。
図版の絵を紙を重ねて写すこともやっていて、写し絵と呼ばれていました。
特に夢二の絵は線が単純なのでまねしやすく、写し絵も楽でした。
夢二は、絵の専門教育を受けたのではなく、自分も雑誌を写して学んでいたので、デッサンを重ねるのではなく一発勝負の線で描いていたので、写しやすかったのだろうと思われます。
当時の雑誌の投稿欄にも、夢二式の絵がたくさん送られてきていました。
そして、そこから多くの芸術家(画家とは限りません)が育っていったようです。
こうして、夢二の精神性がいろいろな芸術家に受け継がれていきました。
当時は、肉筆の回覧雑誌が全盛(私が読んだ芥川賞作家の柏原兵三や漫画家の藤子不二雄の本によると戦後も行われていました)で、それには最後に読者の感想を書くページもありました。
スクラップブックと同様に回覧雑誌も、雑誌の再生産の場になっていました。
中には、回覧雑誌を出版社へ持ち込んで、作品が雑誌に採用されたものもありました。
今のコミケのような働きをしていたのかもしれません。
こうした文化が起こった背景には、日清、日露の戦勝により、日本が対外的にも隆盛して、国内にも裕福な家庭が増えた事があげられます。
ビジュアルが本の売り上げを左右し社会の風俗にも影響を与えたのは、美少女キャラクターのイラストを前面に出して売り上げを伸ばしているライトノベル、マンガ同人誌のコミックマーケット、アニメキャラクターのコスプレなどの現代の風俗と通じるところがあって興味深い発表でした。
なお、質疑の時間に「「夢二式」の人気はいつまで続いたか」と尋ねたところ、「関東大震災(大正十二年)と夢二のスキャンダルによって下火になり、昭和五十年ごろに再評価されるまでの五十年間は夢二は忘れられた画家だった」との答えでした。
また、「当時の新しいメディアだった映画への夢二や夢二式の影響は?」の質問には、「確認されていないが重要な視点だと思う」とのことでした。
映画が発明されたのは明治28年で、夢二が活躍していたころにはすでに日本でも爆発的に人気をはくしていましたが、日本では初めは女性役を男性の女形が演じていて、女優が誕生したのは大正7年になってからだったので、映画に夢二の影響がなかったのでしょう。
もし映画の初期から女優がいたら、夢二式の美人たちが映画界を席巻していたかもしれません。
高橋は美術史の専門家なので、いつもと違って児童文学からは直接的には離れましたが、現代の児童文学につながるいくつかの示唆が得られて有益でした。