1974年に発行された「講座日本児童文学3 日本児童文学の特色」に掲載された論文で、戦前の代表的な児童文学雑誌である「赤い鳥」と、これまた代表的な大衆児童文学雑誌「少年倶楽部」、そして、戦争直後の児童文学のベストセラー「ノンちゃん雲に乗る(石井桃子作)」を検証して、そこに描かれた人間像(特に子ども像)を分析しています。
「赤い鳥」が一人のトム(マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」などの主人公)もエーミール(エーリヒ・ケストナーの「エーミールと探偵たち」などの主人公)も生み出さなかったと批判されるのは有名な話ですが、戦前戦中の子どもたちを熱狂させた(最高発行部数100万部以上を誇っていましたから、当時の子どもたちにとっては一時期の少年ジャンプ(最高発行部数う600万部以上を記録しています)のようなものでしょう)「少年倶楽部」もまた、一人のトムもエーミールも、さらには女の子にも公平に言えばナンシー(アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」などの主人公)も、生み出さなかったと結論付けています。
そして、その原因としては、「赤い鳥」も「少年倶楽部」も同じような根(教育勅語など)を持っていて、子どもたちが一人の人権を持った人間として描かれずに、当時の大人たちに都合のいい模範的な大人になるための模範的な子どもたち或いはそれの裏返しとしてしか描かれなかったとしています。
そしてノンちゃんも同様に、戦争直後の大人にとっての模範的な大人になるための模範的な子どもにすぎないと批判しています。
しかし、これらを批判して1950年代に出発した「現代児童文学」も、その終焉後の現時点で眺めてみると、一人のトムもエーミールもナンシーも生み出さなかったのではないでしょうか。
そして、その理由もまた、真の意味で子どもの人権の立場に立たずに、この時期(1950年代から1990年代まで)の大人(主として政治的に革新側の)にとって都合のいい模範的な子どもやその裏返ししか描けなかったのではないでしょうか。
現状を正直に言えば、「現代児童文学」を包括的に研究している人は誰もいません。
そういった意味でも、「現代児童文学」の成果と限界について、断続的にでも考察していくことは意義のあることだと考えています。
他の記事でも述べたように、社会主義的リズムに基づく児童文学ないし、その理想とする子ども像が書かれた児童文学作品はほとんど出版されなくなりました。
それは、共産主義や社会主義による国家像や人間像が、ソ連の崩壊や中国の非民主主義などにより、もはや理想化することができなくなったからです。
しかし、その反動で、再び戦前のように「教育勅語」を正当化しようとする動きもあります。
児童文学者としては、そうした「教育勅語」が理想としたような子ども像が、再び児童文学作品に現れないように注視し続ける必要があります。
「教育勅語」を正当化しようとする人たちは、常套句のようにして、「「親孝行」などの今でも大切なことも書かれている」と主張します。
しかし、盲目的な「親孝行」などよりも、間違っていれば「精神的な親殺し」をするような人物像こそ、子どもたちや若い世代人たちに求められるものなのではないでしょうか。
「赤い鳥」が一人のトム(マーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」などの主人公)もエーミール(エーリヒ・ケストナーの「エーミールと探偵たち」などの主人公)も生み出さなかったと批判されるのは有名な話ですが、戦前戦中の子どもたちを熱狂させた(最高発行部数100万部以上を誇っていましたから、当時の子どもたちにとっては一時期の少年ジャンプ(最高発行部数う600万部以上を記録しています)のようなものでしょう)「少年倶楽部」もまた、一人のトムもエーミールも、さらには女の子にも公平に言えばナンシー(アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」などの主人公)も、生み出さなかったと結論付けています。
そして、その原因としては、「赤い鳥」も「少年倶楽部」も同じような根(教育勅語など)を持っていて、子どもたちが一人の人権を持った人間として描かれずに、当時の大人たちに都合のいい模範的な大人になるための模範的な子どもたち或いはそれの裏返しとしてしか描かれなかったとしています。
そしてノンちゃんも同様に、戦争直後の大人にとっての模範的な大人になるための模範的な子どもにすぎないと批判しています。
しかし、これらを批判して1950年代に出発した「現代児童文学」も、その終焉後の現時点で眺めてみると、一人のトムもエーミールもナンシーも生み出さなかったのではないでしょうか。
そして、その理由もまた、真の意味で子どもの人権の立場に立たずに、この時期(1950年代から1990年代まで)の大人(主として政治的に革新側の)にとって都合のいい模範的な子どもやその裏返ししか描けなかったのではないでしょうか。
現状を正直に言えば、「現代児童文学」を包括的に研究している人は誰もいません。
そういった意味でも、「現代児童文学」の成果と限界について、断続的にでも考察していくことは意義のあることだと考えています。
他の記事でも述べたように、社会主義的リズムに基づく児童文学ないし、その理想とする子ども像が書かれた児童文学作品はほとんど出版されなくなりました。
それは、共産主義や社会主義による国家像や人間像が、ソ連の崩壊や中国の非民主主義などにより、もはや理想化することができなくなったからです。
しかし、その反動で、再び戦前のように「教育勅語」を正当化しようとする動きもあります。
児童文学者としては、そうした「教育勅語」が理想としたような子ども像が、再び児童文学作品に現れないように注視し続ける必要があります。
「教育勅語」を正当化しようとする人たちは、常套句のようにして、「「親孝行」などの今でも大切なことも書かれている」と主張します。
しかし、盲目的な「親孝行」などよりも、間違っていれば「精神的な親殺し」をするような人物像こそ、子どもたちや若い世代人たちに求められるものなのではないでしょうか。
講座日本児童文学〈3〉日本児童文学の特色 (1974年) | |
クリエーター情報なし | |
明治書院 |