1962年に書かれた「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)の読者論です(「フラニー」は1955年に、「ズーイ」は1957年に、ともに「ニューヨーカー」誌に発表されたのですが、1961年に一冊の本にまとめられています)。
「片手の鳴る音」というのは、サリンジャーの1953年に出版された唯一の自選短編集「九つの物語」(その記事を参照してください)の以下の巻頭言によるものです。
「両手を叩いて鳴る音はわかる。
しかし、片手を叩いて鳴る音はなにか?
― 禅の公案の一つ」
著者は、「フラニー」を「完璧な出来栄えである」とする一方で、「ズーイ」を「ほとんど完全な失敗作」として、この論文のほとんどを使ってこき下ろしています。
いろいろな例をあげて批判していますが、要は、サリンジャーは「とんまな」「田吾作」(著者の言葉です)である一般読者を本当は軽蔑しているのに、彼らをキリストと考えて演技する「神の女優」になることを納得させることで、ズーイが神経衰弱に陥っているフラニーを救済するという「手品」(これも著者の言葉です)を使っているとしています。
つまり、サリンジャーは本当は教養主義者のくせに、あたかも一般読者(観衆)側に立っているかのように見せかけているが、レトリックが完璧なので読者はまんまと欺かれているとしています。
また、これらの作品を本当に理解するためには教養が必要なのに、その教養を否定するような書き方をしているのは二重構造だとしています。
そのため、「ズーイ」では、「聖性などひとかけらも持ち合わせない太っちょのオバサマ(註:「ズーイ」の中で一般の観衆を代表していて、彼らすべてがキリストなのだとズーイ(サリンジャー)は主張して、フラニーも納得して精神的窮地から救済されます)が頑として手をかしてくれないので、芸術家の片手が音もなく空を打つのだ」とタイトルにかけてカッコよく締めくくっています。
著者は、「教養」という同じ言葉を、かなり狭い意味で使っています。
すでに評価が確立した「哲学書」や「宗教書」や「古典(文学も含みます)」も、その時代に流行しているの「芸術(文学も含めて)」や「学問」や「思想」も、その時代に必要とされる「知識」や「常識」も、それぞれある意味では「教養」です。
便宜的に、「真の教養」、「流行の教養」、「生活の教養」と名付けておきます。
著者は、フラニーのボーイフレンドのアイヴィー・リーグの大学生を「教養のない学生」と決めつけています。
ここで著者が使っている「教養」の意味は、あきらかに「真の教養」のことです。
なぜなら、このボーイフレンドを初めとしたフラニーのまわりの人たちは、「流行の教養」をひけらかせるフォニー(インチキ野郎)ばかりで、兄のシーモァやバディから「真の教養」の薫陶を受けていたフラニーには耐えられなくなっていたからです。
著者は、「ズーイ」を理解するためには「教養」が必要だとしています。
しかし、ここで求められる「教養」は、限られた者(グラス家兄妹のような「神童」か、著者のような人たち)たちだけが理解できる「真の教養」ではなく、「生活の教養」で十分です(「真の教養」や「流行の教養」に関しても、用語が分かればもっと楽しいかもしれませんが)。
著者もサリンジャーも、彼ら自身が求めているのは「真の教養」です。
しかし、決定的に違うのは、著者が「真の教養」を持たない者を本当に軽蔑しているのに対して、サリンジャーは「流行の教養」に振り回されている人間は軽蔑していますが、「生活の教養」しか持たない人までも軽蔑している訳ではなく、そうしたすべての人たちがキリストだと言っているのです。
サリンジャーは宗教者ではなく、あくまでも文学者です。
本を読まない(あるいは芝居を見ない)読者(観衆)までキリストだとは言っていません。
文学者なり演技者は、その読者なり観衆なりに、理解してもらえるように最大限の努力をせよと言っているのです。
それは、内心軽蔑しているのに、レトリックで読者を欺いていることでは決してありません。
「片手の鳴る音」というのは、サリンジャーの1953年に出版された唯一の自選短編集「九つの物語」(その記事を参照してください)の以下の巻頭言によるものです。
「両手を叩いて鳴る音はわかる。
しかし、片手を叩いて鳴る音はなにか?
― 禅の公案の一つ」
著者は、「フラニー」を「完璧な出来栄えである」とする一方で、「ズーイ」を「ほとんど完全な失敗作」として、この論文のほとんどを使ってこき下ろしています。
いろいろな例をあげて批判していますが、要は、サリンジャーは「とんまな」「田吾作」(著者の言葉です)である一般読者を本当は軽蔑しているのに、彼らをキリストと考えて演技する「神の女優」になることを納得させることで、ズーイが神経衰弱に陥っているフラニーを救済するという「手品」(これも著者の言葉です)を使っているとしています。
つまり、サリンジャーは本当は教養主義者のくせに、あたかも一般読者(観衆)側に立っているかのように見せかけているが、レトリックが完璧なので読者はまんまと欺かれているとしています。
また、これらの作品を本当に理解するためには教養が必要なのに、その教養を否定するような書き方をしているのは二重構造だとしています。
そのため、「ズーイ」では、「聖性などひとかけらも持ち合わせない太っちょのオバサマ(註:「ズーイ」の中で一般の観衆を代表していて、彼らすべてがキリストなのだとズーイ(サリンジャー)は主張して、フラニーも納得して精神的窮地から救済されます)が頑として手をかしてくれないので、芸術家の片手が音もなく空を打つのだ」とタイトルにかけてカッコよく締めくくっています。
著者は、「教養」という同じ言葉を、かなり狭い意味で使っています。
すでに評価が確立した「哲学書」や「宗教書」や「古典(文学も含みます)」も、その時代に流行しているの「芸術(文学も含めて)」や「学問」や「思想」も、その時代に必要とされる「知識」や「常識」も、それぞれある意味では「教養」です。
便宜的に、「真の教養」、「流行の教養」、「生活の教養」と名付けておきます。
著者は、フラニーのボーイフレンドのアイヴィー・リーグの大学生を「教養のない学生」と決めつけています。
ここで著者が使っている「教養」の意味は、あきらかに「真の教養」のことです。
なぜなら、このボーイフレンドを初めとしたフラニーのまわりの人たちは、「流行の教養」をひけらかせるフォニー(インチキ野郎)ばかりで、兄のシーモァやバディから「真の教養」の薫陶を受けていたフラニーには耐えられなくなっていたからです。
著者は、「ズーイ」を理解するためには「教養」が必要だとしています。
しかし、ここで求められる「教養」は、限られた者(グラス家兄妹のような「神童」か、著者のような人たち)たちだけが理解できる「真の教養」ではなく、「生活の教養」で十分です(「真の教養」や「流行の教養」に関しても、用語が分かればもっと楽しいかもしれませんが)。
著者もサリンジャーも、彼ら自身が求めているのは「真の教養」です。
しかし、決定的に違うのは、著者が「真の教養」を持たない者を本当に軽蔑しているのに対して、サリンジャーは「流行の教養」に振り回されている人間は軽蔑していますが、「生活の教養」しか持たない人までも軽蔑している訳ではなく、そうしたすべての人たちがキリストだと言っているのです。
サリンジャーは宗教者ではなく、あくまでも文学者です。
本を読まない(あるいは芝居を見ない)読者(観衆)までキリストだとは言っていません。
文学者なり演技者は、その読者なり観衆なりに、理解してもらえるように最大限の努力をせよと言っているのです。
それは、内心軽蔑しているのに、レトリックで読者を欺いていることでは決してありません。