「誕生」ではなく、「復権」なのはなぜでしょうか?
実は、戦前、戦中には、「少年倶楽部」とその姉妹雑誌や模倣雑誌による、巨大な(「少年倶楽部」だけで月刊で百万部と言われています。当時の日本の人口は約7000万人でしたし、その大半は貧しい農民で本などを買う余裕はありませんでした)エンターテインメント・ビジネスが成立していたのです。
しかし、戦後は、マンガ雑誌(初期には絵物語が中心でした)に取って代わられてしまいました。
つまり、児童文学のエンターテインメントには、そもそもかなりのビジネス・ポテンシャルがあったということになります。
そうした状況において、1978年に出版され始めた那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズをきっかけにして、児童文学界においてエンターテインメント・ビジネスが復権しました。
それまでの「ためになる」「何かを知ることができる」「感動できる」「刺激を受ける」といった主として知的好奇心を満足させる読書体験に、「楽しい」「気楽に読める」、「心地よい」そして時にはたんなる「ひまつぶし」といった娯楽的な読書体験が付け加わりました(それまでは、当時のマンガがその役割を果たしていました)。
その背景としては、80年代の出版バブルによる出版点数の増大と多様化があります。
このころの多様化の例としては、他に「タブーの崩壊」、「越境」などがあります。
(「タブーの崩壊」とは、それまで日本の児童文学でタブーとされてきた「死」、「離婚」、「性」、「家出」などの人生の負の部分を扱う作品が登場したことを指します。代表的な作品には、国松俊英「おかしな金曜日」や那須正幹「ぼくらは海へ」などがあります。
「越境」とは、心理描写などの小説的な技法が取り入れられた作品が登場して、児童文学と大人の文学の境目がはっきりしなくなったことを言います。代表的な作品には、江國香織「つめたいよるに」、森絵都「カラフル」などがあります。この現象は、児童文学の読者対象(特に女性)の年齢の上限を引き上げました。これはポスト「現代児童文学」の話と繋がります。)
また、マーケティング的な観点で言うと、団塊ジュニアという大きなマーケットが存在したこともその背景にあります。
(もうひとつのエンターテインメント・ビジネス誕生の消極的な理由に、児童文学ビジネスの固有な事情があります。
それは、子どもたちと本との間に存在する介在者(両親、教師、司書などの大人たち)です。子どもたちが自分自身で本を購入することはまれで、こうした介在者を通して本に触れることが多いのです(子どもたちの目の前の本棚に、どんな本が並んでいるかも含めて)。
そうした人たちが、子どもたちに本を手渡す時に、「マンガよりはまし。こんな(?!)本でも読めば字を覚えるなど勉強の足しになるかもしれないし、もっとましな(?!)本を読むきっかけになるかもしれない」と、当時(今でも?)は考えたので、子どもたちはマンガの代わりに手を出しやすかったのでしょう。また、授業などで読書のノルマがあった時に、字の少ない薄いエンターテインメント作品(後で述べますが、「ズッコケ三人組」シリーズはぜんぜん違います)でも、一冊は一冊と主張できます。)