「児童文学とは、「児童」と「文学」という二つの中心を持った楕円形をしている」(石井直人)
この意見に、異存のある人はおそらくいないでしょう。
ただし、作家や作品によって、どのくらい「児童」よりなのか、あるいは「文学」よりなのかは違いがあります。
合評会などにおいても、その発言が「児童」よりなのか、「文学」よりなのかを考慮して聞くと分かりやすいでしょう。
(ちなみに、私は、書くときは相対的に「児童」よりで、読む時は「文学」よりです。)
ただし、ここでいう「児童」についてはいろいろな解釈があります。
「8歳から80歳までの子どものための本」(エーリヒ・ケストナー)
( つまり、「子ども」の心を持っていれば、年齢は問わないわけですね。)
「少年少女時期の終わりごろから、アドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式」(宮沢賢治)
( こちらは、小学校高学年から20歳ぐらいまでに絞っていますね。)
その一方で、
「「児童」ないし「子ども」は、近代(フランス革命以降、日本では明治維新以降)になって発見された一つの概念にすぎない」(柄谷行人やアリエス)
との主張もあります。
( ここまでくると、何が何だかわからないですね。)
それに対して、エンターテインメントでは、一般に対象となる「子ども」をもっと絞り込んで書かれていることが多いです。
そういった意味では、エンターテインメントは、「児童」よりの児童文学なのです。
一方で、児童文学が「「児童」と「文学」という二つの中心を持った楕円形をしている」とすれば、「文学」だけを中心にした円形の純粋な文章芸術ないしは自己表現ではないので、すべての児童文学は(程度の違いはあるとしても)一種のエンターテインメントであるという見方もできます。
(もっとも、「児童」を「読者」に置き換えれば、ほとんどの「文学」が楕円形をしているとも言えます。)