1969年6月に出版された幼年童話の古典です。
私が読んだ本は1989年5月の87刷ですから、今ではゆうに100刷を超えていることでしょう。
また、「ウーフ」はシリーズ化されていて、いろいろと形を変えて多数出版されています。
他の記事で紹介したように、日本児童文学者協会では、1979年と1998年の二回、現代日本児童文学史上の重要な作品を100冊選んでいますが、その両方に選ばれている作品は35冊しかありません。
この「くまの子ウーフ」はその中の一冊ですから、児童文学の世界では評価が定まっている作品といってもいいと思います。
さらに2010年に出た「少年少女の名作案内 日本の文学 ファンタジー編」(その記事を参照してください)の50冊の中にも選ばれていますから、時代を超えた日本のファンタジーの定番と言ってもいいと思います。
動物ファンタジーとしては擬人化度が高く、ウーフは両親と一緒にまるで人間のように暮らしています。
しかし、毛皮とか、ハチミツ好きとか、クマならではの特性もうまく生かされています。
対象読者と同じかやや幼く設定されているウーフが、9編(「さかなには なぜ したがない」、「ウーフは おしっこでできているか?」、「いざというときって、どんなとき?」、「キツツキの見つけた たから」、「ちょうちょだけに なぜ なくの」、「たからが ふえると いそがしい」、「おっことさないもの なんだ?」、「? ? ?」、「くま一ぴきぶんは ねずみ百ぴきぶんか」)からなるオムニバス風の作品に中で、いろいろな発見をする様子には、読者は感情移入して読んでいけるでしょう。
でも、この本は単なるかわいいお話ではありません。
それぞれの話の肝の所には、「生きるとは?」、「自分とは?」、「他者とは?」、「死とは?」といった、作者の深遠な人生哲学の問いかけがあって、大人の読者も思わずうならせられてしまう奥深い内容になっています。
1998年発行の「児童文学の魅力 いま読む100冊―日本編」で、この本の作品論を書いている詩人の坂田寛夫によると、「北海道や樺太で育った神沢にとって、クマはいのちそのもの」とのことですから、それも当然のことかもしれません。
児童文学研究者で作家の村中季衣は、「あいまい化される「成長」と「私」の問題」(日本児童文学1997年11-12月号所収、その記事を参照してください)という論文の中で、擬人化された物語の中に「私」が消えずにいる例として、「くまの子ウーフ」の中から「ちょうちょだけに なぜ なくの」をあげて説明しています。
少し長いですが、この本の本質をよくとらえているので以下に引用します。
「青い羽から光が零れるような蝶にひかれて夢中で追いかけるウーフはあやまって蝶を潰してしまう。泣きながら蝶のお墓をつくったウーフに共感した友だちの(うさぎの)ミミがドロップをお供えする。
そこへきつねのツネタが(註:作品中でリアリストとしてキャラクター設定されています)やってきて「へんなウーフ、さかなも肉もぱくぱくたべるくせして、は、ちょうちょだけどうしてかわいそうなの。おかしいや。」という。
ウーフは答えることができずに「うー、うーっ。」という。
作者は、何も語らない。手を出さない。ウーフたちの論理とその葛藤を、じっと見つめている。
<中略>
神沢利子は大人である。そしてもちろんウーフではない。だからウーフにじっと寄り添ってみる。ウーフがどんな行動に出るのか、どこで悩むのか、じっと待つことができる。目を凝らすことができる。
<中略>
「私」がいる物語とは、つまるところ、他者の生命の連続性を見守ることのできる物語なのかもしれない。そこには必ず発見があり、喜びがあり、ひとりずつの、これまで大人たちが啓蒙的に使ってきたのとは違う意味の「成長」があると私は信じる。」
私もこの村中の意見に全く同感です。
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