現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

小山田浩子「穴」新潮2013年9月号

2017-12-09 08:24:32 | 参考文献
 2014年上期の芥川賞を受賞した作品です。
 夫の転勤で会社を辞めて、夫の実家の隣で専業主婦を始めた女性の話です。
 謎だらけの義理の家族や動物、そして風変わりな隣人たちに囲まれて、主人公の田舎暮らしは次第に現実と空想の世界の境界がはっきりしなくなります。
 小山田の執拗な描写が、この不可思議な世界をどこまでも追求していきます。
 この作品の持つ意味が何なのかは最後まで不分明なままですが、今まで味わったことのない読書体験が得られたことだけでは間違いありません。
 児童文学の世界でもかつては独自の作品世界を持つ作家がたくさんいましたが、今は没個性な物語も文体も型にはまった読みやすい作品を書く作家ばかりになってしまいました。
 その原因は、出版社側の書き手に対する要求によることが多いでしょう
 現在の児童文学作家は、文学的な冒険をするためには、一般文学に越境するしかありません。

新潮 2013年 09月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学とスマホ

2017-12-07 16:46:26 | 考察
 通信機器が急速に発達している現代では、今までによく使われた設定が通用しなくなっています。
 例えば、公衆電話や駅の伝言板などは、作品の小道具としてよく使われていましたが、携帯電話が普及した現代を舞台にした場合にはもう使えなくなっています。
 例えば、2016年の小学六年生の携帯の普及率は60%以上です。
 しかも、その大半がスマホです。
 特に、児童文学の主要な読者である女子は、携帯の普及率が高くスマホの割合も高いです。
 そのため、前述の小道具が使えなくなるだけでなく、従来よく見られた特定の分野の知識に詳しい登場人物(例えば電車の乗継ぎや時刻表に詳しい鉄道博士など)の活躍も困難になっています。
 なにしろ、最短や最安の乗継ぎなどは、スマホのアプリを使えばたちどころに分かってしまうのですから。
 スマホの登場は、みんながひと昔前のスーパーコンピューターをポケットに入れているようなものだと言われています。
 そんな時代に、特定分野の知識を持っているだけでは、キャラクターの魅力としては描けないのです
 仮に主人公自身はスマホを持っていないとしても、周りの誰も持っていないというのは現在では不自然でしょう。
 また、読者はかなりの確率でスマホを持っているので、スマホのない現代世界はなかなか理解しにくいかもしれません。
 そして、スマホの普及率は年々急速にアップしているのです。
 今に小学一年生でも、全員がスマホを持つ時代が来るでしょう。
 一般に児童文学の書き手はアナログ派で、コンピューター/ディジタル/ネット・リタレシーが低い人が多いので、その面では現実の子どもたちに追随できてないことが多いと思われます。

還暦川柳 60歳からの川柳~スマホ買いかわいい孫を師と仰ぐ~
クリエーター情報なし
宝島社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学における目に見えない存在

2017-12-06 08:45:51 | 考察
 自分にしか見えない存在があるというのは幼い子たちに共通の特質ですが、児童文学でもよく描かれています。
 有名な作品ではフィリパ・ピアスの「まぼろしの小さな犬」などがありますが、その「見えない存在」は物語の最後に姿を消すことが多いようです。
 それは、幼い日々との別離の象徴なのかもしれません。

存在、そして眼に見えないもの―浅香順一写真集
クリエーター情報なし
ムーンプレス
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モノローグと児童文学

2017-12-05 18:47:52 | 考察
 児童文学の世界でも、モノローグを中心に描かれた作品はあります。
 しかし、そういった作品は、単調で物語があまり動かないことが多いようです。
 また、作家の主張が生に出やすくて、作品が教訓くさくなる恐れもあります。
 やはり、児童文学は、アクションとダイアローグで描かれる文学なのかもしれません。

モノローグ
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学を書く動機

2017-12-05 18:47:04 | 考察
 児童文学の作家たちは、なぜ児童文学作品を書くのでしょうか?
 おそらく、皆それぞれの理由があって書いているのでしょう。
 でも、そこには一定のパターンがあるに違いないと思います。
 私自身のささやかな経験をもとに考えてみようと思います。
 初めて作品を書いたのは、大学の児童文学研究会の時ですが、これはサークルの企画でいやいや書かされたので、適当な童話を模倣して書きました。
 この従来の作品を模倣するというパターンは、初心者ではけっこう一般的なのではないかと思われます。
 次のパターンは、同人誌に参加するようになってすぐに始めたようですが、自分の子ども時代の記憶に触発されたものでした。
 おそらくこの時期の作品が、自分では一番できがよかったように思います。
 ケストナーを初めとして、多くの児童文学作家も、子ども時代の記憶をモチーフにしていることが多いと思います。
 私の場合の次のパターンは、少年野球のコーチをしていた時に出会った子どもたちに触発されて書いたものです。
 そして、その後、自分の子どもが生まれてからは、彼らやその友達を題材にするようになりました。
 子どもたちが大きくなってからは、世の中の子どもたちが直面している問題を調べて書くようになりました。
 もちろん、特に子どもたちを意識しないで、物語の面白さだけを意識して書いたこともあります。
 現在の児童文学作家の多くは、この「面白さ」を重要視しているように思われます。
 しかし、私の場合は、エンターテインメント作品を書こうというモチベーションはあまり強くありませんでした。
 その方向へ進むことを主に経済的なメリットの問題で取りやめたことは、別の記事に詳しく書きましたのでそちらを参照してください。


わたしが子どもだったころ (ケストナー少年文学全集 (7))
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊東潤「恨み鯨」巨鯨の海所収

2017-12-04 09:41:36 | 参考文献
 この作品でも鯨漁のシーンは迫力満点で、非常に読ませます。
 しかし、やはり人間のドラマが弱すぎます。
 母のために罪を犯した息子が、父や恩人の命を救うことでその罪を償い、その代わりに命を落とします。
 エンターテインメントの世界においても、もう語りつくされたパターンで、しかもこの作品はすぐにラストのおちがよめてしまいます。
 おそらく、作者はこういうパターンを踏襲することで、彼の主な読者層である年配の人たちにもわかりやすい物語を意図して書いているのでしょうが、新しい読者層はもうひとひねりないとひきつけられません。
 児童文学の世界でもあえてパターンを踏襲した描き方をする書き手もいますが、そういった作品は一時の消費財にはなり得ても、すぐに時代に淘汰されてしまいます。

巨鯨の海
クリエーター情報なし
光文社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三崎亜記「ナナツコク」チェーン・ピープル所収

2017-12-04 09:40:27 | 参考文献
 「ナナツコク」という架空の国の地図を、母親から娘へと代々語り継いでいると称する女性の話です。
 この短編集の中では一番出来が悪いです。
 致命的なのは、彼女が語るナナツコクに全く魅力がないことです。
 世の中に溢れている異世界ファンタジーからパクって来たような既視感があり、さらにそれらよりも陳腐な感じです。
 この連作短編集の作品にはもともと物語性はほとんどないのですから、作者が思いついたアイデアが陳腐だと作品の出来はこのように悲惨なものになるようです。

チェーン・ピープル
クリエーター情報なし
幻冬舎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いとうひろし「おさるのまいにち」

2017-12-03 09:36:27 | 作品論
 1991年初版の人気絵本シリーズの第一作です。
「ぼくは、おさるです。みなみのしまに、すんでいます。」
 この書き出しの文章は、<おさる>シリーズすべてで同じです。
 そう、<おさる>シリーズは、児童文学の王道、子どもたちの大好きな繰り返しの手法をとことん追求した作品なのです。
「あさ、おひさまがのぼるとまをさまし、」
「まず、おしっこをして、」
「ごはんをたべます。」
「それからけづくろいをして、」
「きのぼりをしたり、」
「かえるなげをしたり、」
「みずあびをしたりして、」
「よるになったらねむります」
 ここまでで実に16ページも、事件らしい事件は起こっていません。
 のんびりしたタッチの絵とともに、作品の中にはゆったりとした時間が流れます。
 読み聞かせをしている山本和浩は「人間シリーズ・この本だいすき…㉝」(「こどもの本」1993年5月号所収)において、このシリーズについて以下のように述べています。
「くりかえしが面白く、どんどんのめりこんでいきます。厚めの本なのに、あっという間に最後まで読みきってしまえるので、読み終わった後に「フー おもしろかった」とため息をつく子がいるほどです。」
 山本は厚めの本と言っていますが、なにしろ圧倒的に字が少ないし、取り立てて事件も起こらないので確かに「あっという間に」最後まで読みきれてしまうのでしょう。
 年々子どもたちの読書力が低下しているので、このシリーズのような簡単に読める本は受けがいいのでしょう。
 こんなに字数の少ない本でも、一冊は一冊です。
 子どもたちは、一冊の本を読了した満足感が得られるに違いありません。
 あるいは、読書の時間に先生に一冊読んだと、ノルマ達成を報告できるかもしれません。
 お話に戻ります。
 次は夜のシーンです。
 それをめくると、
「つぎのひも、やっぱりおひさまがのぼるとめをさまし」
と、最初のシーンに戻ってしまいます。
 児童文学研究者の石井直人は、「おさるののんき」(「子どもと読書」1994年10月号所収)という論文で、この繰り返しの魅力について以下のように述べています。
「さて、ここで笑うかどうかだ。わっはっはという爆笑ではなく、あははという軽い笑い。笑う笑わないで読者が二通りに別れるように思う。このくだりは、「私は朝起きて顔を洗って歯をみがきました」式のへたな文章の見本をわざとパロディにしているのだし、物語といえばきっと語るに足る特別な事件が書いてあるにちがいないという思い込みをわざと外している。外すことによって、この話はのんきに読めばいいんだよ、とメッセージしているようなものだ、このユーモアをわかるか、わからないかだ。」
 つまり、この本はすべての子どもたちに開かれているのではなく、いとうひろしの文や絵のユーモアを理解できる子どもたちだけの閉じられた世界だとしています。
 そして、そのことは、作者自身も容認していると思われます。
 お話は、後半のクライマックスである「ぼくら(おサルたちだけでなく読者の子どもたちも含みます)」が待ちに待った海亀のおじいさんの土産話は、ただたんに大きな船の船腹に海亀のおじいさんがおでこをぶつけただけでした。
 しかし、おさるたちは、「とくべつすごいはなし」だったので、「ぼーっとしてしまい、しばらくくちもきけませんでした」と、感動しています。
 この部分の作者のしかけについても、石井は前掲の論文で次のように指摘しています。
「いったいどこがすごいの? ここでも外されて、あははと笑ってしまう。」
 そして、石井は、論文をいかのように締めくくっています。
「<前略>「おさるのまいにち」は、「くりかえし」の弛緩である。もちろん、毎日は、緊張だけからきているのではない。弛緩は、不可欠なのだ。<中略>私は<おさる>シリーズは、いままでの児童文学と別の原理でできているのじゃないかと思う。」
 <おさる>シリーズは、幼稚園の子から大人まで幅広い読者を獲得しています。
 子どもたち以上に緊張した生活を強いられている大人たちにとっては、この「弛緩」の感覚がたまらなくホッとできるのかもしれません。
 また、深読みすれば、「生きる楽しみってどんなことか?」、「本当の自分って何か?」といった抽象的なことを考えるきっかけになることも、読者の幅を広げることに役立っていると思われます。

おさるのまいにち (どうわがいっぱい)
クリエーター情報なし
講談社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三崎亜記「チェーンピープル」チェーン・ピープル所収

2017-12-03 09:33:22 | 参考文献
 この連作短編集の表題作です。
 ファーストフード店やコンビニがチェーン店であるのと同様に、あらかじめ決められた性格や行動規範や仕草を演じて生活しているチェーン・ピープル(この作品でのブランド名は「平田昌三」です)について、ルポライターが取材していく形で書かれています。
 この作品でも、インタビュー以外はほとんどリアルタイムでのアクションや描写はなく、「平田昌三」のルール(総代会や総会、マニュアルなど)や歴史やトピックス(除名者、殺人を犯したメンバー、死など)を淡々と説明文で綴っています。
 そういう意味では、一番作者らしい作品なのかもしれません。
 通常の小説ではないので、普通の批評の仕方では的外れになってしまうかもしれません。
 例えば、大勢出てくる「平田昌三」の書き分けがうまくできていないのですが、「それはチェーン・ピープル」だからだ」と言い逃れされてしまいます。
 また、全体の流れが作者の思い通りに都合よく進んでいい意味での破たんがないのですが、「それはそういうねらいなのだ」と言われてしまうでしょう。
 まあ、こういった作品は、マニュアルを読むのに慣れている(あまり文学は読まない)現代の読者には読みやすいかもしれません。

チェーン・ピープル
クリエーター情報なし
幻冬舎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

児童文学に登場する双子

2017-12-02 08:57:39 | 考察
 児童文学にはよく双子が登場します。
 有名な作品では、ケストナーの「ふたりのロッテ」やカニグズバーグの「ベーグル・チームの作戦」などがあります。
 これらは、双子の特性である「よく似ている」ことを活かした「取り違え」が、物語の仕掛けとしてうまく利用されています。
 しかし、安易にこの特性を使っていて、肝心の物語の展開に十分に活かされていない場合も多いようです。
 また、最近は男女の双子が描かれている場合もありますが、それは男性と女性の違いを際立たせるために使われているようです。
 しかし、たいがいは、男の子らしさと女の子らしさ、あるいはその単純な裏返し(外交的な女の子と内向的な男の子)といった古いジェンダー観に縛られたものが多いようです。

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喝采

2017-12-02 08:56:27 | 演劇
 加藤健一事務所の第99回公演です。
 売れなくなって酒で身を持ち崩したかつての名俳優の主人公と、それを支え続ける妻の話です。
 主人公は、かつての彼の大ファンだった演出家のおかげで、主役に抜擢されます。
 しかし、自信を失っている彼は、また酒に逃げようとします。
 興業の失敗を恐れたプロデューサーはそんな彼を首にしようとしますが、妻と演出家はそれぞれの方法で彼を懸命に支えます。
 初めは激しく対立した二人でしたが、その過程で恋に落ちてしまいます。
 舞台は成功し、奇妙な三角関係も無事に解決して、ハッピーエンドを迎えます。
 主役の加藤健一をはじめとして、妻役の竹下景子、演出家役の山路和弘、プロデューサー役の大和田伸也などの芸達者たちが、丁々発止の芝居を展開します。
 もちろん加藤健一演ずるダメ男の主役も魅力的なのですが、なんといってもこの芝居では、しっかり者でけなげな妻が魅力的に描かれていて、演出家だけでなく脚本家なども含めてキャストのみんな、そして観客たちもが彼女に恋してしまいます。
 そんな魅力的な役を、竹下恵子が彼女に負けない魅力で、あるときは気丈に、またある時は可憐に演じています。
 そう、観客は竹下景子にも恋してしまったのかもしれません。
 竹下景子は私より一つ年上なのですが、若いときももちろん魅力的でしたが、六十歳はとうに超えてもこんなに魅力的なのは、同様にいつまでも可憐な魅力を保ち続けている八千草薫や吉永小百合のような魔法をみにつけているのかもしれません。
 そういう意味では、加藤健一も七十歳近いというのに、相変わらず軽妙で颯爽としていて、きっと彼も魔法使いなのでしょう。
 四十年ぐらい前に、雑誌ぴあの情報を頼りに、毎週のように都内のあちこちで小劇場の芝居を見ていたころ、加藤健一はつかこうへい事務所の芝居などで達者な演技を見せていました。
 その後、自分の劇団(加藤健一事務所)を立ち上げて以来、なかなか経済的には恵まれないであろうこういった芝居を今でも変わらずに続けていることは、本当に尊敬に値します。

 
舞台写真集 君たちがいて僕がいた 1980年 劇団つかこうへい事務所 三浦洋一 平田満 加藤健一 風間杜夫 かとうかずこ
クリエーター情報なし
つかこうへい事務所

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観念と児童文学

2017-12-01 09:47:52 | 考察
 文学の世界には、観念を中心に描いた作品も数多くあります。
 しかし、こういった主人公のモノローグを中心に書かれた観念小説は、児童文学の世界にはそぐわないことが多いと思われます。
 子どもの読者は、自分が生活している実体社会が描かれた作品は理解しやすいのですが、作者の観念を中心に描かれた作品はそういったものになじみがあまりないので、理解しにくいようです。

観念論の教室 (ちくま新書)
クリエーター情報なし
筑摩書房


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三崎亜記「似叙伝」チェーン・ピープル所収

2017-12-01 09:46:18 | 参考文献
 自叙伝ならぬ似叙伝を書くことを仕事にしている男の評伝です。
 似叙伝というのは、自叙伝とは違って、その人の人生の事実(文中にもありますが、これもあくまで本人の主観なのでどこまで事実かは怪しいものですが)を自分で書くのではなく、その人が望む以下のような人生についてゴーストライターが書くものです。
1.亡くなった家族が、今も生きているとした場合
2.自分が今と違う職業や、人生の選択をした場合
3.存在しなかった家族が、「いる」とした場合
 この似叙伝を利用してマスコミに自分を売り出した人物が出てきて、彼が失脚した時にゴーストライターの存在も暴露されて非難され数年後に亡くなります。
 悪者として世間に決めつけられたゴーストライターの真実の姿を、最後に妻が明かすというのがこの本の仕掛けです。
 明らかに、数年前に騒がれたマスコミの寵児だった作曲家にゴーストライターがいたことが発覚したスキャンダルのパロディです。
 キャラクターを入れ替える(ゴーストライターの方をふてぶてしい悪党キャラにして、寵児の方を気弱で真面目そうな世間の同情をかいそうなキャラにしています)ことで、最後のどんでん返しの効果をあげています。
 この作品でも、基本的には主に説明文でストーリーを進めていくのですが、リアルタイムのアクションを描いた部分も比較的多く、一般的な小説に近くなっています(その分、作者の個性が弱くなっているかもしれません)。
 
チェーン・ピープル
クリエーター情報なし
幻冬舎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする