1991年初版の人気絵本シリーズの第一作です。
「ぼくは、おさるです。みなみのしまに、すんでいます。」
この書き出しの文章は、<おさる>シリーズすべてで同じです。
そう、<おさる>シリーズは、児童文学の王道、子どもたちの大好きな繰り返しの手法をとことん追求した作品なのです。
「あさ、おひさまがのぼるとまをさまし、」
「まず、おしっこをして、」
「ごはんをたべます。」
「それからけづくろいをして、」
「きのぼりをしたり、」
「かえるなげをしたり、」
「みずあびをしたりして、」
「よるになったらねむります」
ここまでで実に16ページも、事件らしい事件は起こっていません。
のんびりしたタッチの絵とともに、作品の中にはゆったりとした時間が流れます。
読み聞かせをしている山本和浩は「人間シリーズ・この本だいすき…㉝」(「こどもの本」1993年5月号所収)において、このシリーズについて以下のように述べています。
「くりかえしが面白く、どんどんのめりこんでいきます。厚めの本なのに、あっという間に最後まで読みきってしまえるので、読み終わった後に「フー おもしろかった」とため息をつく子がいるほどです。」
山本は厚めの本と言っていますが、なにしろ圧倒的に字が少ないし、取り立てて事件も起こらないので確かに「あっという間に」最後まで読みきれてしまうのでしょう。
年々子どもたちの読書力が低下しているので、このシリーズのような簡単に読める本は受けがいいのでしょう。
こんなに字数の少ない本でも、一冊は一冊です。
子どもたちは、一冊の本を読了した満足感が得られるに違いありません。
あるいは、読書の時間に先生に一冊読んだと、ノルマ達成を報告できるかもしれません。
お話に戻ります。
次は夜のシーンです。
それをめくると、
「つぎのひも、やっぱりおひさまがのぼるとめをさまし」
と、最初のシーンに戻ってしまいます。
児童文学研究者の石井直人は、「おさるののんき」(「子どもと読書」1994年10月号所収)という論文で、この繰り返しの魅力について以下のように述べています。
「さて、ここで笑うかどうかだ。わっはっはという爆笑ではなく、あははという軽い笑い。笑う笑わないで読者が二通りに別れるように思う。このくだりは、「私は朝起きて顔を洗って歯をみがきました」式のへたな文章の見本をわざとパロディにしているのだし、物語といえばきっと語るに足る特別な事件が書いてあるにちがいないという思い込みをわざと外している。外すことによって、この話はのんきに読めばいいんだよ、とメッセージしているようなものだ、このユーモアをわかるか、わからないかだ。」
つまり、この本はすべての子どもたちに開かれているのではなく、いとうひろしの文や絵のユーモアを理解できる子どもたちだけの閉じられた世界だとしています。
そして、そのことは、作者自身も容認していると思われます。
お話は、後半のクライマックスである「ぼくら(おサルたちだけでなく読者の子どもたちも含みます)」が待ちに待った海亀のおじいさんの土産話は、ただたんに大きな船の船腹に海亀のおじいさんがおでこをぶつけただけでした。
しかし、おさるたちは、「とくべつすごいはなし」だったので、「ぼーっとしてしまい、しばらくくちもきけませんでした」と、感動しています。
この部分の作者のしかけについても、石井は前掲の論文で次のように指摘しています。
「いったいどこがすごいの? ここでも外されて、あははと笑ってしまう。」
そして、石井は、論文をいかのように締めくくっています。
「<前略>「おさるのまいにち」は、「くりかえし」の弛緩である。もちろん、毎日は、緊張だけからきているのではない。弛緩は、不可欠なのだ。<中略>私は<おさる>シリーズは、いままでの児童文学と別の原理でできているのじゃないかと思う。」
<おさる>シリーズは、幼稚園の子から大人まで幅広い読者を獲得しています。
子どもたち以上に緊張した生活を強いられている大人たちにとっては、この「弛緩」の感覚がたまらなくホッとできるのかもしれません。
また、深読みすれば、「生きる楽しみってどんなことか?」、「本当の自分って何か?」といった抽象的なことを考えるきっかけになることも、読者の幅を広げることに役立っていると思われます。