現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

「雨ニモマケズ」の謎

2021-01-24 11:38:22 | 作品

 ぼくが、まだ小学生の頃の話だから、もう二十年以上前のことになる。

 ガガンガガン、ガガンガガン、……。
 頭の上を電車が通る音がする。
(上り電車だ)
 シュンは、視線を改札口から奥にある階段へと移した。
 まず、集団の先頭を切って、シュンと同い年ぐらいの男の子がかけおりてきた。つづいて、制服やコートを着た高校生たちが、ガヤガヤおしゃべりしながらおりてくる。最後に、デパートの紙袋をさげたおばさんたちが、ゆっくりと歩いてきた。
降りてきたお客は、ぜんぶで十人ぐらいしかいなかった。駅の時計は、16時51分を示している。つとめ帰りの人たちがいないので、まだそれほど混み合っていなかった。
 改札口には、駅員が一人だけいる。最後の客が通り過ぎると、その駅員もいなくなった。
 四つ先のターミナル駅にある進学教室に、シュンが毎日通うになって、早くもひと月近くになる。
 いっしょにいっているケンタとの待ち合わせ時刻は、5時だった。ケンタは、いつもぎりぎりにやってきていた。いや、少し遅れてくることさえある。
 でも、シュンはいつも十五分前には到着していた。だれもいない家にいてもしかたがないし、たくさんの人たちがいきかう駅の構内は、気分がまぎれて好きだった。
 シュンが立っているのは、改札口の一番すみだった。
すぐそばには、携帯電話がない時代に、待ち合わせのために使われていた伝言用の古い黒板がおいてあった。深い緑色をしていてところどころそれがはげている。今日の日付だけがチョークでくっきりと書き込まれていた。その頃でも、伝言板のまわりだけは、人の流れからからも、時の流れからも取り残されたように、ひっそりしていた。まるでエアポケットか何かのようだ。
 降りてきた人たちの波がとぎれたとき、シュンはいつものように伝言板を読みはじめた。
『良平、遅刻するから先へ行くぞ。 剛』
『サヤちゃん、『コロラド』で待っています。 ヨーコ』
『レオのバカヤロー!』
『・・・・・・・・・』
 そんなに数は多くないが、まだ書き込みがされている。
伝言はみんな、思い思いに自分の言葉で書いてあった。シュンには、それだけではなんだかわからないものもある。きっと見る人が見れば意味がわかるのだろう。
 ガタンガタン、ガタンガタン、……。
 頭上では、下り電車が到着している。今度は上り電車と違って、大勢の人たちが改札口に押し寄せてくることだろう。

 下り電車から降りてきた人波が、ようやくとぎれた。
 シュンは、伝言板をもう一度はじめから順番に読んでいった。きちんと読みやすい字で書かれたものもあれば、力いっぱい書きなぐったものもある。
 一番最後まできたとき、
(おやっ?)
と、思った。
 そこには、ていねいな字でこう書かれていたからだ。
『雨ニモマケズ
 風ニモマケズ JU』
 どこかで、聞いたことがあるような気がする。
(なんだっただろう?)
シュンは、それが何かを思い出そうとしていた。
「おーす、シュンちゃん」
 いきなり声をかけられた。ふり返ると、ケンタがやってきていた。ジャンパーに手をつっこみ、急いでかけてきたのか、白い息をはいている。ケンタのほっぺたと半ズボンから出ている両足は、寒さで赤くなっていた。
二人は、すぐに今熱中している携帯ゲームの話をしながら、改札口の方へ歩きだした。

「2X+4Y=22。そして、X+Y=8」
 算数担当の門井先生が、黒板に書いた方程式について説明している。
 シュンは、今、方程式に夢中になっていた。
本当は、方程式は中学に入ってから習うのだが、この塾では受験対策として先月から教え始めている。
もともとシュンは算数が得意だったが、方程式の魅力にはすっかりまいってしまっていた。これを使えば、めんどうな旅人算も、時計算も、つるかめ算も一発なのだ。
(えーっと、Xイコール2マイナスY)
 だから、これを代入すると、……。
 シュンは、熱心にノートに計算していった。
「じゃあ、この問題は、 ……。吉村、おまえ、やってみろ」
 門井先生がシュンを指名した。
「はい。Xイコール5、Yイコール3です」
 シュンは、自信をもってこたえた。
「よし、いいぞ。 正解だ」
 門井先生が、笑顔でほめてくれた。
シュンはほこらしさで少し顔を赤くしながら、席にこしをおろした。

 翌日も、シュンはいつもの待ち合わせ場所に来ていた。やっぱりあの伝言板の前だ。
 今日も電車が着くたびに、たくさんの人たちが改札口を通りぬけていく。でも、その誰一人として、知っている人はいない。
 いつのまにか、シュンはまた伝言板をながめはじめていた。
「えっ?」
 シュンはびっくりしてしまった。一番最後に、こう書いてあったからだ。
『雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ JU』
 シュンは、いそいで昨日の文句をうかべてみた。
『雨ニモマケズ 
風ニモマケズ JU』
 たしかこうだった。
(今日のは、昨日の続きなんだ)
 有名な詩だったような気がする。
でも、誰の作品なのかまではわからなかった。
 ケンタがやってくるまでのあいだ、シュンはその文章をながめ続けていた。

 その晩、塾から帰ってからの遅い夕食の時だった。めずらしく帰りが早かったとうさんも、シュンといっしょに食べていた。
 おなかの虫がようやくひといきついたところで、シュンはとうさんに話しかけた。
「ねえ、おとうさん」
「うーん」
 生返事のとうさんは、ビールを片手にテレビのニュースを見ている。そこでは、レポーターがどこかの国の戦争のことを話していた。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズって、なんだっけ?」
「えっ、なんだい?」
 とうさんが、ようやくテレビから目を離して聞きかえした。やっぱり、ちゃんと聞いていなかったんだ。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズだよ」
「ああ、なんだ。宮沢賢治じゃないか」
 とうさんは、すぐに答えてくれた。
「宮沢賢治?」
 その人なら、シュンも聞いたことがある。たしか国語の教科書にも、『セロひきのゴーシュ』という童話がのっていた。授業の時に、たくさんの童話や詩をのこして、若くして亡くなったと教わった。

「あった、あった」
 シュンがお風呂上りにバラエティ番組を見ていると、とうさんが一冊の古い文庫本を持ってきた。
『宮沢賢治詩集』
 表紙にそう書かれている。本はほこりだらけで、ページは黄色くなりかかっている。ずいぶん長い間、読まれていなかったようだ。
 とうさんは手でほこりをはらうと、本をめくりはじめた。
「これだ、これ」
 とうさんがさし出したページに、その詩、『雨ニモマケズ』はのっていた。
『雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 ……』
 おとうさんが、声に出して読んでくれた。
 シュンにもわかるような、やさしいことばで書かれた詩だった。繰り返しに不思議なリズムがあって、シュンはしだいにその詩の世界に引き込まれていった。

 翌日、シュンは学校の図書館で何冊か本を借りて、宮沢賢治の他の作品も読んでみた。「春と修羅」のような詩集。「注文の多い料理店」のような童話集。
特に、「なめとこ山の熊」、「けんじゅう公園林」といった童話に強くひかれた。それらの作品には、世間一般の常識から考えると、なんにも役にたたないような主人公たちが出てくる。解説を読むと、賢治はかれらをデクノボーと呼んで愛していたようだ。
 いつのまにか、シュンの中にも、賢治の描くデクノボーへのあこがれが強まっているのに気がついた。
世間での評価からはまったく無縁だが、まわりの人や動物たちからは深く愛されている純粋な人たち。
 今まで、シュンは、大人になったら、弁護士か、医者になろうと思っていた。それには、とうさんの考えが影響していたかもしれない。
「ただの勤め人はつまらないぞお」
 それが、サラリーマンのとうさんの口癖だった。
 でも、弁護士や医者になるには、司法試験や医師国家試験に受かる必要があった。
そのためには、東大のようないい大学に進んでおくと有利だ。いい大学に進むためには、有名な私立の中高一貫校に受からなければならない。さらに、有名な私立の中高一貫校に受かるためには、塾でいっしょけんめいに勉強する必要がある。
今までは、ばくぜんとそんなふうに思っていた。

 その日、シュンはいつもよりも少し早く駅に行くことにした。先まわりしておいて、JUの正体を突き止めたかったからだ。昨日もおとといも、JUの書き込みは伝言板のいちばん最後だった。もしかすると、シュンが来る直前に書いていたのかもしれない。
 駅の構内は、いつものように大勢の人たちで混み合っていた。
(やったあ!)
 シュンは思わず小さくガッツポーズをしていた。期待どおりに、JUの伝言がまだ書かれていなかったからだ。
 シュンは、キオスクの横に場所を移した。そこから、掲示板を見張ろうというのだ。
(どんな人かなあ?) 
 JUの字は、きちょうめんでていねいだった。その感じからすると、若い女の人のようだ。高校生か、大学生か、あるいは若いおかあさんかもしれない。
 シュンは、そういった人たちが通りかかるたびに、期待をこめて見つめていた。
 でも、なかなか伝言板の前に人は立ち止まらない。
やっと伝言板の前に女の人が立った。
(JUか?)
 シュンはキオスクのものかげから、じっとようすをうかがった。
 思ったより、年を取った人だ。シュンのおかあさんぐらいの年令かもしれない。なんだか少しがっかりしたような気分だった。
 女の人は、何かを伝言版に書き込んでいる。
 書き終わった女の人が立ち去ったとき、シュンはそっと伝言版に近づいた。
 そこに書かれていたのは、
『礼子さん、遅くなるので先に行っています。 芳江』
 JUではなかったのだ。なんだか、ホッとしたような気分だった。

 ケンタとの待ち合わせ時間が、だんだん近づいてきた。
(JUは、今日は来ないのかなあ)
と、シュンは思い始めていた。
 と、そのとき、掲示板の前に、シュンと同じぐらいの女の子が立った。私立の子なのだろうか、紺の制服を着ている。赤いランドセルを背負っているから、学校の帰りらしい。
(まさかなあ。この子はJUじゃないだろう)
と、シュンは思った。
きっと何か他の伝言を書くのだろう。
 女の子は、わりとすぐに何かを書き終わった。満足そうな表情を浮かべてそれをしばらくながめると、やがて立ち去って行った。ふっくらしたほほと、ピョコピョコはねまわるようなポニーテールが、シュンの印象に残った。
 女の子がいなくなるのを待ちきれないようにして、シュンは伝言板にかけよった。
 そこに書かれていたのは、
『慾ハナク
 決シテイカラズ
 イツモシズカニワラッテヰル JU』
 意外にも、JUはシュンと同じ小学生の女の子だったのだ。

翌日、シュンは昨日よりもさらに早く伝言板の所へ行った。予想どおりに、JUは今日もまだ伝言を書いていない。
 シュンは少しためらっていたが、やがてチョークを手にした。
『一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ SY』
 シュンは手についたチョークの粉をはたきながら、すばやくキオスクの横へ移動した。
 しばらくして、JUが現れた。今日も、紺の制服に赤いランドセルだ。
 JUは前に立ち止まって、じっと伝言版をみつめていた。書こうと思っていたことがすでに書かれているのを見て、びっくりしているようだった。あわてたように、あたりを見まわしている。
 でも、やがてチョークを手に取ると何かを書き出した。
 書き終わっても、JUはしばらくあたりをキョロキョロとさがしていた。誰かを探している大きな黒い瞳。一瞬、目が合いそうになって、シュンはあわててキオスクの陰に隠れた。
 やがてJUは、何度も振りかえりながら立ち去っていった。
 JUの姿が見えなくなると、シュンは急いで伝言板にかけよった。
『アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ JU』
 急いで、かばんからあの宮沢賢治詩集を取り出した。
(合っている!)
 正確に詩の続きが書かれていた。どうやら、JUはこの詩を完全に暗記しているらしい。

『問1 今、時計の針は七時をさしています。次に長い針と短い針が重なるのはいつでしょうか?』
 門井先生が、黒板に大きく問題を書いた。時計算だ。
 でも、方程式を使えば、かんたんにとけてしまう。
(えーっと、長い針のスピードをXとすると、……)
 シュンは、答案用紙にスラスラと計算式を書いていった。
 答は、……。
 その瞬間、シュンの頭の中にJUの姿が浮かんだ。伝言板の前に立ちすくんでいる。JUはどんな思いで、宮沢賢治の詩を伝言板に書いているのだろう。
 今日、学校の図書館で、シュンは宮沢賢治について調べていた。
 37年間の短い生涯の間に、賢治は驚くほどたくさんのことに挑戦している。
詩人、童話作家、教師、農業技師、宗教家、……。
 身を削るようにしていろいろなことにチャレンジした賢治に、シュンは強くひかれていた。シュンにとって、初めての憧れの人といってもいいかもしれない。
 『雨ニモマケズ』は、賢治が死の床で手帳に書きつけたものだった。デクノボーにあこがれながらもデクノボーになりきれずに死んでいった賢治。そんな思いが、『雨ニモマケズ』には書かれていたのだろう。
(JUにも、賢治やデクノボーへの憧れがあるのだろうか?)
 シュンは、それを聞いてみたい気がした。
「吉村、どうした?」
 門井先生が、不思議そうな顔をしてみていた。
「あっ、いいえ。何でもありません」
 シュンは、あわてて問題の世界へ戻っていった。

 翌日も、シュンは早めに駅に着くと、すぐに伝言板に続きを書いた。
『ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ SY』
 そして、いつものキオスクの横から伝言板の方を見ていた。
 やがてJUがやってきた。
伝言板にすでに詩の続きが書かれていても、今日は特に驚いた風もなく、すぐに伝言板に何かを書いている。 
書き終わると、あの黒い大きな瞳でまたあたりをみまわした
 でも、やがて満足そうな表情を浮かべて去っていった。
 シュンは完全にJUがいなくなったことを確認してから、急いで伝言板に近づいた。
 そこには、
『野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ JU』
と、書かれていた。
 やっぱり今日も、正しく詩の続きが書かれていたのだ。やっぱりJUは完全に暗記している。
シュンも、JUと同じく満足そうな笑みを浮かべた。
 ケンタがやってくるまでには、しばらく時間があった。その間、シュンは宮沢賢治とJUのことを考えていた。

その後も、二人は交互に「雨ニモ負ケズ」を書いていった。
 翌日、シュンが書いたのは、
『東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ SY』
 すると、JUは少しもためらわずにすらすらと続きを書いた。
『西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ JU』
 その次の日に、シュンがそれに続けて、
『南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ SY』
と、書くと、JUは、
『北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ JU』
と、続けた。
そして、その翌日は、
『ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ SY』
『ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ JU』
 交互に「雨ニモマケズ」を伝言版に書いていくのは、完全に二人だけの秘密の習慣になっていた。

 二人が交互に書き始めてから六日目。
とうとう最後の日が来てしまった。今日のシュンの分で、「雨ニモマケズ」はすべて書き終わってしまうのだ。
 この日、シュンはかばんには塾のテキストを入れずに駅に向かった。塾はさぼるつもりだった。こんなことは通い始めてから初めてのことだ。
 シュンは、今日こそJUと話してみたかった。宮沢賢治のこと。なぜ伝言板に「雨ニモマケズ」を書いていたのか。そして、もちろんJU自身のことも聞きたかった。
 いや、 それだけでなく、もっとたくさんのことを、この未知の少女と話し合ってみたかった。それはシュンにとっては、塾へいくことなんかより、ずっとずっと大事なことのように思えたのだ。
 駅に着くと、いつものようにたくさんの人たちが行き交っていた。その中には、誰一人として知っている人はいない。でも、今日は、その一人一人が見知らぬ人のようには思えなかった。ふとしたきっかけで、JUの時と同じように心をかよい合わせることができるかもしれない。そう思うと、通り過ぎていく人々が、まったくの他人のようには感じられなかった。そして、そう考えただけで、心の中がほんわかとあたたまってくるのだった。
 シュンは伝言板の前に立つと、いつもよりも力をこめてていねいに最後の部分を書いた。
『サウイフモノニ
ワタシハナリタイ SY』
 書き終わっても、シュンはしばらくそれを見つめていた。やりとげた満足感にまじって、なんだか終わってしまうのがおしいような複雑な気分だった。
 やがて、シュンはキオスクの横のいつもの場所に移った。そして、静かにJUがやってくるのを待った。
 前を通り過ぎる人たちをながめながら、ぼんやりと考え始めていた。
(ぼくがみんなのためにできることって、なんなのだろう?)
 勉強して私立中学に合格する。さらに勉強して、有名な大学に進む。もっと勉強して、司法試験か、医師国家試験に合格する。いつものように、そんなことが頭に浮かんだ。
そのあとは?
 シュンには、それからどうしたらいいのか、ぜんぜんわからなかった。
でも、なぜかもっと大事な事があるような気がしてならなかった。
しばらくすると、いつものようにJUがやってきた。詩が書き終わってしまったことを確認している。そして、今日は何も書かずにいつまでもそこに立ち止まっていた。いつかのように、誰かをさがすようにキョロキョロしている。あの大きな黒い瞳で。
 やがて、シュンは思い切ってキオスクの横を離れると、少しずつ、でも確実にJUに近づいていった。

      

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野崎 孝「新潮文庫版「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―」あとがき」

2021-01-22 15:12:32 | 参考文献

 1963年に出版されたサリンジャーの最後の単行本の翻訳(1980年出版)の「あとがき」です。
 訳者は、サリンジャーの本では日本で一番売れている(私の持っている本は1974年5月25日発行の第28刷です)と思われる白水社版「ライ麦畑でつかまえて」(1964年第一刷発行)の翻訳者で、サリンジャーが特に日本でこれほど有名になったことへの最大の功労者です。
 この文庫本では共訳の形になっていますが、「あとがき」にはサリンジャーへの変わらぬ愛情が感じられて好感を持ちました。
 「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」で、サリンジャーのいわゆるグラス家サーガの構想が固まり、「長兄シーモァ」の自殺の謎を核にして、次兄バディ=サリンジャーが語っていくというスタイルが確立したとする訳者の見解には、うなずける点が多いと思われます。
 また、一般的には失敗作ないしはサリンジャー文学の行き詰まりと考えられている「シーモア―序章―」に対しても、「立ちはだかる障壁を突破して新しい方法を実現しようとする大胆な実験」と好意的にとらえている点にも共感させられました。
 惜しむらくは、サリンジャーの最後の発表作品である「ハプワース16,一九二四」に関する訳者の評価が書かれていなかったのが残念です。

 

 

 

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プリティ・ウーマン

2021-01-19 17:35:03 | テレビドラマ

 1990年公開のアメリカ映画で、リバイバル・ヒットしたロイ・オービソンの主題歌とともに日本でも大ヒットしました。
 ロサンゼンルスのコールガールが億万長者に見初められるシンデレラ・ストーリーですが、彼女の純真さに億万長者の方も精神的に救われる話にして、うまくバランスを取っています。
 ジュリア・ロバーツの魅力を全開させるための映画と言っても過言でなく、こうしたマイ・フェア・レディ的なストーリー(「マイ・フェア・レディ」主演のオードリー・ヘップバーンにはこの種の作品が多く、「ローマの休日」(この場合は逆方向ですが)、「麗しのサブリナ」(その記事を参照してください)、「パリの恋人」などがそうです)は、一人の女優の魅力を多面的にファッショナブルに表現するのに適しているようです。
 ジュリア・ロバーツが、コールガールのセクシーなファッションから、エレガントなカクテル・ドレス、スポ−ティなファッション、フォーマルなイブニング・ドレスなど、まるでファッション・ショーのように様々な衣装を楽しませてくれます。
 身長175センチのモデル体型なので、どのような服を着ても最高に似合うので、女性ファンだけでなく男性ファンも魅了されます。
 ただし、時々挿入されるラブシーンには、ボディダブル(替え玉)が使われたそうです。
 それにしても、ラストで白馬の騎士よろしく彼女にプロポーズをしに行くリチャード・ギアを見ると、彼の出世作の「愛と青春の旅立ち」(1982年)の有名なラスト・シーン(空軍パイロットの学校を卒業直後に、彼を諦めていた女性に、彼女の勤め先の工場で軍服姿のままプロポーズして、抱き上げてそのまま工場を出ていきます)を思い出さざるを得ません。
 そう言えば、その映画の主題歌も大ヒットして、アカデミー歌曲賞を受賞しています。
 これらの作品のような男女の役割を固定化(男性が主で女性が従)した映画は、ジェンダーフリーな現在はもちろん、1950年代から1960年代の女性の自立が叫ばれていた当時のアメリカでは難しかったと思われますが、当時(1980年代)は日本がバブルだった時期で逆にアメリカ経済は不調でジェンダー観の揺り戻しがあったようです(景気とジェンダー観の変化の関係については、関連する記事を参照してください)。


 

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江國香織「子供たちの晩餐」温かなお皿所収

2021-01-18 21:14:07 | 作品論

 1993年6月初版の短編集の中の一編です。
 ママとパパが外出するので、四人の子供たちだけで夕食をすることになります。
 いつでも用意周到なママは、もちろん夕食を用意しています。
 チキンソテーとつけあわせのにんじんとほうれん草(子どもそれぞれに合わせて量が調整してあります)、サラダとレモンジュース、パンとりんごで、今日も栄養のバランスは完璧です。
 しかし、六時になると、四人は庭に穴を掘り用意してあった夕食を埋めます。
 そして、小遣いを出し合って準備しておいた「晩餐」をします。
 彼らが禁止されていてそれゆえ憧れていた食べ物、カップラーメン、派手なオレンジ色のソーセージ、ふわふわのミルクせんべいと梅ジャム、コンビニエンスストアの正三角形の大きなおむすび、生クリームがいっぱいの百円で売っているジャンボシュークリーム、それに飲み物は水に溶かす粉末ジュースです。
 これらを、好きな場所で、好きなだけ食べたり飲んだりして満足感を感じたのです。
 児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、内容についてはそれについての記事を参照してください)において、この作品を山中恒の「ぼくがぼくであること」と並べて、「グレードやスタイルがちがうけれども、読者にとっては、「離婚児童文学(注:石井は岩瀬成子「朝はだんだん見えてくる」、末吉暁子「星に帰った少女」、今江祥智「優しさごっこ」、ワジム・フロロフ「愛について」を例に挙げています)」と同じようにはたらくにちがいない。」と述べています。
 おそらく石井は、管理主義の両親への子どもたちの反乱としてこの作品を捉えているのでしょうが、そんなごたいそうなものではありません。
 現代児童文学史において重要な位置を占めている山中恒の「ぼくがぼくであること」とこの作品を並べているのは、買いかぶりが過ぎます。
 だいいち、ここで子供たちが食べている物は、1993年当時でも普通の子供たちの常食ばかりなので、これに憧れる子どもたちというのはかなり特殊な環境で育っているとしか言いようがなく、普通の生活をしている読者たちにはまるでピンときません。
 あるいは、江國香織自身がこれらの食べ物が禁止されるほどのお嬢様育ち(もしかすると石井直人も同じようなお坊ちゃま育ち)なのかもしれませんが、一般の読者たちにとってはとても子どもたちの行動にシンパシーが持てないので、他の「離婚児童文学」のような働きは期待できません。
 この作品に対する妥当な評価は、才気あふれる作者のちょっとした思い付きによる小品といったところだと思います。

温かなお皿 (メルヘン共和国)
クリエーター情報なし
理論社
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ボブ・グリーン「男のなかの男」チーズバーガーズ所収

2021-01-18 16:55:57 | 参考文献

 55歳の配管工の男を取り上げたコラムです。
 彼は、家庭の事情で教育を受けられなかったために、読み書きがまったくできません。
 それでも、配管工の仕事を見よう見まねで覚え、結婚もし子どもも孫もいます。
 しかし、文字が読めないために職を失ったのをきっかけに、一念発起してボランティアの先生について読み書きの勉強を始めます。
 私はこのブログで主に本について書いていますが、彼のことを思うと、本が読めるということ、それからそういう環境を与えてくれた両親への感謝の思いを新たにします。
 また、現代の日本にも、彼のように家庭の事情で教育を受けられない子どもたちがたくさんいることも、思い返さざるを得ません。
 ボブ・グリーンは、後にはかなり変わってしまいましたが、元々は彼のような普段はスポットライトが当たることのない市井の人々を取り上げた優れたコラムをたくさん書いています。

チーズバーガーズ―The Best of Bob Greene
クリエーター情報なし
文藝春秋
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万城目学「趙雲西航」悟浄出立所収

2021-01-18 16:54:22 | 参考文献

 これまた中国の古典で、日本でも人気のある三国志を舞台にしています。
 そして、ここでも、主役の劉備でも、一番人気の関羽でも、千年に一度の大才といわれる諸葛亮孔明でもなく、趙雲子竜にフォーカスをあてています。
 趙雲と言えば、天下無双の槍の名手で、男の中の男という言葉がふさわしい武人ですが、そこに生きることや故郷への哀愁を与えたことが、この作品のミソでしょう。
 でも、作中には三国志マニアではないと何だかわからないエピソードが満載なので、すべてにピンとくる読者は限られる(特に女性には難しいでしょう)かもしれません。
 もっとも、現在は、三国志はコーエーのテレビゲームやパソコンゲームなどで若い世代に人気があるので、案外大丈夫かもしれません。
 私が三国志に夢中だったのは、小学生から高校生にかけて吉川英治の「三国志」(その記事を参照してください)を何十回も読みふけっていたころ(なぜか定期試験の前になると読みたくなります)と、子どもたちとコーエーのゲームをやっていたころです。
 電子書籍になったので久しぶりに読んでみました(その記事を参照してください)が、相変わらず面白く昔ほどではありませんがかなり夢中になれました。

悟浄出立
クリエーター情報なし
新潮社

 

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ボブ・グリーン「アメリカン・ヒーロー」

2021-01-18 16:49:01 | 参考文献

 1990年出版のいわゆる「ボブ・グリーン」ものの一冊です。

 あとがきにも書かれているように、このころのボブ・グリーンは、日本ではアメリカ国内よりも有名(CMにも出ていました)なぐらいで、それこそ雨後のタケノコのように彼のコラムを訳した本が出版されていました。

 この本も元になる自選集がある訳でなく、毎日書かれている彼の夥しいコラムの中から日本人にもわかるようなものを選んで訳して、「週刊プレイボーイ」に連載された後に本にしたのですから、「チーズバーガーズ」(その記事を参照してください)のような粒よりのコラムばかりではなく玉石混交です。

 また、作者自身も年齢を重ねるうちに、かつての若者らしい批判精神は次第に薄れて、かなり保守的な内容の物が多くなってきています。

 

 

 

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海よりもまだ深く

2021-01-18 15:02:02 | 映画

 2016年公開の日本映画です。

 離婚した男女とその一人息子を、月一度の面会交流の日を中心にして、描いています。

 夫が育った古い団地に一人で住む夫の母親を絡めて、修復できない二人の関係を際立たせています。

 小説家くずれで、探偵事務所に勤めている(本人はいまだに取材のためと証しています)駄目人間(平気で依頼主を裏切ったり、金持ちの高校生の弱みを握って脅したりして、違法な小銭を稼いでいますし、同僚に借金して競輪をしたりしています)を阿部寛が熱演しています。

 彼は、長身でイケメンなのですが、このようなやや病的なところのある人間(例えば、「テルマエ・ロマエ」(その記事を参照してください)や「結婚できない男」(その記事を参照してください)など)を演じると、不思議とはまります。

 樹木希林や小林聡美やリリー・フランキーなどの芸達者は役者が多数出演していて、作品のリアリティを保証しています。

 ただし、前半にダメ男ぶりを描きすぎたために、後半の家族ドラマや、樹木希林のいかにもそれらしい台詞にも、素直に感動できませんでした。

 

 

 

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田野倉くんて、誰?

2021-01-16 10:44:20 | 作品

  新聞部の編集会議の時だった。
「何か、もっとおもしろい企画はありませんか?」
 今月から部長になったぼくは、部員のみんなにたずねた。
 でも、みんなは黙っている。
 今までにみんなからあがった企画は、校外活動の報告、学校の美化週間のキャンペーン、生徒会選挙の結果、部活の対外試合の成績、……。
まったく平凡な物ばかりだった。せっかくやるのだったら、ぼくはもっと斬新な企画に挑戦したかった。
「なんか、面白くないんだよね。もっといいアイデアない?」
 ぼくは、みんなの顔を見まわしながらいった。
「うーん、そんなに凝らなくてもいいんじゃない」
 そういって反対したのは、三年二組の石岡さんだ。まったくやる気がなさそうだ。
 でも、他の部員たちも、それに賛成するようにうなずいている。みんな消去法で新聞部員になったようで、まるで情熱が感じられない。
 うちの学校では、原則として帰宅部は認められていなかった。運動部はきついから嫌。吹奏楽部や美術部も練習が面倒そう。そういった特にやりたい事がない人たちが、一番「ぬるそうなクラブ」に思えたのか、新聞部に集まったみたいなのだ。


 こういってはなんだが、ぼくだけはみんなと違っていた。実はぼくが将来なりたいものは、新聞記者だったのだ。だから、一年のときからずっと新聞部に入っていた。
でも、これまでの新聞部生活は、不本意なものだった。
先々代、先代の部長はまるでやる気がなかった。顧問の先生も、事なかれ主義だった。紙面は、学校生活における定例的なイベントの報告や学校側からの伝達事項だけで、いつもうめられていた。これでは、まるで学校の御用新聞だ。新聞の使命はどこにいったのだ!(ちょっと大げさかな)
ぼくはもっと派手な記事を書いて、みんなの注目をあびたかった。
編集会議で、ぼくは様々な提案を行った。
学校生活における不満の生徒アンケート調査。生徒たちによる先生たちの逆通信簿作成。通学区域の穴場情報マップ作製。……。
しかし、それらはことごとく先輩たちに却下された。前例がないとか、過激すぎるとかが、拒否された理由だった。
ぼくは、新聞部の現状に激しく絶望していた。
でも、
(今に見ていろ、俺たちの代になったら徹底的に改革してやる)
と、ひそかに闘志を燃やしていた。
七月になって、三年生部員が引退したとき、ぼくは部長に立候補した。
対立候補はいなかった。新聞部には、そんなにやる気のある部員は他にいなかったのだ。
例年は、互いに押し付けあってから、やっと部長、副部長が決まる。ひどい時は、くじ引きで決める時もあったのだそうだ。
こうして、ぼくははれて新聞部の新しい部長になった。

OK3.田野倉くん
「もお、もっとやる気を出そうよ」
 ぼくがもう少しでキレかかったとき、
「あのう、……」
 席の隅のほうから、おずおずと手が上がった。一年生の女の子だ。
「えーっと、麻生さんだっけ。何かあるの?」
 ぼくが怒りを押さえ込みながら聞くと、
「あの、うちのクラスに、まだ一度も登校したことのない生徒がいるんですけど、その理由を調べたら記事にならないかと思って、……」
と、麻生さんはおそるおそる話していた。
 それが「田野倉くん」だという。新年度が始まってもう一ヶ月がたとうとしているのに、まだ一度も登校していないという。
「でも、病気とか、怪我なんかじゃないの?」
と、ぼくがたずねると、
「いいえ、そうじゃないって話なんですけれど」
と、麻生さんが答えた。
「それじゃあ、登校拒否ってわけ?」
 ぼくは、急に興味をそそられてたずねた。
「それが、よくわからないんです。先生もはっきり説明してくれないし、……」
 麻生さんは、少し困ったような表情をしていた。
「いいねえ、それいこう」
 ぼくは飛びついた。他に反対する者もいなかったので、今度の特集は「田野倉くん」でいくことになった。


 それからみんなで話し合った結果、インタビュー形式で、田野倉くんの人間像を浮かび上がらせることになった。
インタビュー先は、クラスメート、担任、校長、教頭、同じ小学校の友だち、田野倉くんの両親。
それに、できたら本人。
もし、本人の言い分が聞けたら、大スクープだ。
部長のぼくから、顧問の先生の了解を得ることになった。
先生には、当然のように反対された。
例によって、前例がないだとか、内容が過激だという理由だ。それに、個人情報の保護という壁があった。
確かに、この記事には、田野倉くんの個人情報が載る可能性は大だった。
しかし、ぼくはあくまでも田野倉くんの立場に立つつもりでいた。そして、この記事が、田野倉が学校へ来るきっかけになればいいと思っていたのだ。それが、どんなに思い上がった考えだったかは、後で思い知らされることになる。
しかし、この時は、それも含めてすべてがぼく自身しか知らない事だった。
そこで、
「わかりました。それでは、他の企画を考えます」
と、顧問の先生に言って、ぼくは引き下がった。
 でも、それは表面的なことだった。学校側には秘密で取材を進めることにしたのだ。
そうすると、なんだかドキドキして、みんなもかえってやる気が起きてきた。
全員で分担して、取材することになった。
まず、真っ先に、提案者の麻生さんに、さりげなく担任の先生に様子を聞いてもらうことにした。
担任の話だと、田野倉くんはやはり登校拒否になっているようだった。
でも、原因は不明だという。
その原因を探るために、みんなの活動が始まった。
しかし、インタビューをすすめていくと、田野倉くんの多面的な人間像が浮かび上がってきた。
みんな、
(彼はこうだ)
って、決め付けるけれど、それぞれが違っていた。
(田野倉くんて、誰?)
 大きな謎が残った。

       

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ボヘミアン・ラプソディ

2021-01-15 18:00:36 | 映画

 イギリスの伝説的なロックバンド(ヴォーカルのフレディ・マーキュリーが、1991年にAIDSで死んだ(そのころは治療法が確立されていなかったので不治の病でした)ことも含めて)のクイーンの、結成された1970年前後から20世紀最大のチャリティ・コンサートであるライヴ・エイド(1985年7月13日)までを、フレディ・マーキュリーを中心に描いた音楽伝記映画です。
 個性の塊のような(途中からは自らゲイの典型を演じている感じもありました)フレディ・マーキュリーだけでなく、ギターのブライアン・メイ(かっこいいロック・ギタリストの典型(今は亡き多田かおるの少女マンガ「愛してナイト」に出てくるギタリストは彼にそっくりでした))、ドラマーのロジャー・テイラー(アイドル的なルックスで女の子にめちゃくちゃもてるロックスターの典型(「ブレイク・フリー」という曲のミュージックビデオは、四人が女装して出演したことで当時賛否両論を巻き起こしましたが、もちろん発案者のロジャーが圧倒的に美しく、特にクローズアップされた彼のミニスカートのヒップは女性も顔負けで、我が家では今でも「ロジャーのお尻」と語り草になっています)、ベースのジョン・ディーコン(渋いベーシストの典型)も、それらしい俳優が演じていて、それぞれやや誇張されているものの、オールド・ファンのイメージを大きく崩さなかったのは、なかなかの配役だと思いました。
 ストーリーは、15年以上の期間をすごく駆け足で振り返っていますし、メンバーだけでなく、スタッフや、フレディの家族や、恋人(男性だけでなく女性も)や、LGBTの人たちに配慮したため、無難な内容になっていますが、全編にクイーンの有名なヒットソング(「キラー・クイーン」、「ボヘミアン・ラプソディ」、「レディオ・ガ・ガ」、「伝説のチャンピオン」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」など)がまんべんなく散りばめられていて、音楽映画としてはまったく申し分ありません。
 しかし、この映画の一番収穫は、クイーンが、フレディだけでなく、ブライアン、ロジャー、ジョンも含めた四人がそろって、初めてロックバンドとして完成していることが、再認識できたことでしょう。
 強烈な個性と劇的な最期のために、クイーンといえばフレディ・マーキュリーがクローズアップされがちですが(この映画も基本的にはそうです)、彼らが日本で知られるようになった1970年代の初めごろは、どちらかというと、クラシック音楽の素養もあるインテリ(ブライアンは天文学、ロジャーは歯科医、ジョンは電気工学を専攻)・ロックバンドで、ピンク・フロイドやエマーソン・レイク・アンド・パーマーのようなプログレッシブ・ロックに、美しいメロディ・ラインやハーモニーを加えた最先端のバンドとして紹介されていたことを、改めて思い出しました。

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)
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Universal Music =music=
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選挙

2021-01-14 14:59:51 | 作品

「それでは、これから後期の学級委員選挙を行います」
 前期の委員長である高橋が、教壇の上からみんなに言った。その横には、副委員長の村瀬と川口さんも並んでいる。今回の選挙は、この三人以外から選ぶのがルールになっていた。
「立候補者はいませんか?」
 お互いに顔を見合わせるだけで、誰も立候補するものがいない。
 受験も間近な中学三年の十月。こんな時期に、雑用ばかり押しつけられる学級委員に、わざわざ立候補するなんて物好きな奴なんているはすもない。
 これが、生徒会の委員だったら話が違う。受験の時の学校推薦ねらいの候補者が、けっこういるのだ。
 でも、学級委員なんて、中途半端で受験にはまったく役立たない。もちろん、隆治も学級委員なんかにはなりたくなかった。
「じゃあ、誰か、推薦する人は?」
 これにもみんなから応答がない。どうせ推薦しても辞退されてしまうから、やるだけ無駄なのだ。
「それじゃ、自由投票ということでいいですね」
 高橋が、みんなに確認するように言った。
「賛成!」
「意義なし」
 クラスの後ろの方から声があがった。
(おやっ?)
 なんだか、その感じが少し不自然な気がした。隆治には、声の調子が妙に積極的なように聞こえたのだ。
 でも、高橋は何事もなかったように、自由投票にしてしまった。

 トントン。
 後ろの席の田沢が、隆治の背中をそっとつついた。
 振り向くと、こまかくたたんだ紙を渡された。
 隆治が机の中でそっと開いてみると、
(山田和真に投票せよ)
 そう小さく書かれていた。
(誰の字だろう)
 隆治は、そっとクラスの後ろの方をうかがった。
 最後方に座っている自信満々の顔。
(あいつだ)
 こんな指令をみんなに出せるのは一人しかいない。
 瀬口だ。
 彼は、実質的なクラスのボスだった。でも、自分では、表立った動きをするわけではない。ただ、クラスの中でも乱暴な斉藤や田丸などの面々を手下にしている瀬口は、この三年二組を完全に牛耳っていた。
 今回の指令にも、きっとみんなは従うことだろう。
(どうしようか?)
 隆治は、しばらく迷っていた。
 簡単に瀬口の指令に従うのも悔しい気がするし、かといって面と向かって、例えば逆に(瀬口)などと書くのは、やっぱりはばかられた。まさか筆跡でばれるわけでもないだろうが。まあ、一番無難なのは関係ない第三者の名前を書くことだろう。
 でも、隆治は迷った末に、最後には(山田)と小さく書いて、投票用紙を二つ折りにした。

 けっきょく、たいした競争者もなく、山田が委員長に選ばれた。
 ところが、どういう訳か、隆治も副委員長に選ばれてしまった。
 もしかすると、これも瀬口の指令のせいかもしれない。もちろん、隆治には知られないようにして。
「それじゃあ、当選した人たち、前に出てあいさつしてください」
 高橋に言われて、女子の副委員長の水沼さんも含めて、三人が教壇に並んだ。
 まず山田があいさつを始めた。生真面目に、委員長になっての意気込みなどを話している。瀬口の陰謀も知らずに、山田は選ばれたのを喜んでいるみたいだった。
(あーあ)
 それに引き換え、隆治の方はすっかりしらけてしまっていた。あいさつの順番がきた時も、ペコリと頭を下げただけだった。

「学級副委員長になっちゃったんだ」
 夕食の時に、隆治はなにげなくおかあさんに話をした。正直言うと、そこには少しは自慢っぽい気持ちもまざっていたかもしれない。
「えっ、なんで?」
 おかあさんの顔がくもった。
「いや、自由投票になったら、なんとなく票が入っちゃって」
 わざとおどけたように、隆治は答えた。
「馬鹿ねえ。受験が近いっていうのに、学級委員なんか押し付けられちゃって」
 おかあさんは、かなり本気で隆治のことをなじりはじめた。ある程度予想していたとはいえ、まったく冷たい反応だった。
「学級委員程度じゃあ、推薦にだって使えないっていうじゃない。生徒会の役員ってならまだしも」
 おかあさんは、うんざりしたように顔をしかめた。
(血は争えないなあ)
 受験の学校推薦に関して、おかあさんが自分と同じようなことを考えているのが、隆治はなんだか無性におかしかった。
「ちゃんと塾には通えるんでしょうね。やっと成績が上向いてきたというのに、……」
 おかあさんは自分のことばに激したのか、だんだん興奮した口調になってきた。
「ごちそうさま」
 隆治は、いきなり食卓から立ち上がった。
「あら、まだ食べてる途中じゃない」
 そう言うおかあさんを後に残して、隆治は自分の部屋のある二階へ上がっていった。

 翌朝、教室に行くと、山田が近づいてきた。
「いやあ、まいったよ」
 山田は、ニヤニヤ笑いながら言った。
「なんだい?」
 隆治がたずねると、
「家で学級委員になったこと言ったらさあ。かあさんが大喜びしちゃって」
 山田はうれしそうに話していた。
「へーっ」
 隆治は、自分との違いにびっくりしてしまった。
「なんと、お赤飯まで炊いてくれたんだ」
「えっ!」
 驚きを通り越して、隆治は軽いショックを受けていた。まるで昭和時代のようなリアクションだ。ここにも血が争えない親子がいるようだ。
「吉野はどうだった?」
 山田に聞かれて、隆治はうろたえながら口ごもった。
「べつに、……」
「お互いにがんばらなくっちゃなあ」
 そう言いながら自分の席へ戻っていく山田を、隆治は呆然として見送った。

(やっぱり)
 隆治の予感通りに、その日から瀬口たちの嫌がらせが始まったのだ。
 山田のやることに、ことごとく影にまわってじゃまするのだ。
 例えば、山田が先生からの連絡事項伝えると、その反対のことをやったりする。
 そのくせ、山田が発言すると、
「そのとおり。委員長の言うとおり」
などと、大声で合唱したりする。
 面と向かって、山田の言うことに反対したりしないのだ。だから、山田もなかなか厳しく注意したりできなかった。
 もちろん、瀬口は表面に出なかった。新井とか、坂口といった連中がやっているのだった。
 でも、かげで瀬口が指令しているのは、見え見えだった。みんな、瀬口のグループのメンバーだったからだ。
 初めは、山田は嫌がらせをされていることに気がつかなかった。偶然が重なっているのだろうと、思っていたのかもしれない。
 しかし、そのうちに、それが山田に対する悪意に満ちた嫌がらせだということに気がついた。山田は、新井とか坂口に、直接注意をしていた。
しだいに、山田も、すべて瀬口が仕組んでやらせていることに気がつく。
 山田は、真っ向から瀬口と対決しようとした。そのために、クラスのみんなに協力を求めた。
 しかし、だれも協力しない。瀬口たちの暴力を恐れていたのだ。いつか見た古い西部劇で、保安官が住民の協力を得られずに孤立したように、山田もクラスで浮いた存在になってしまった。
 瀬口が直接手を出すわけではない。ただ、クラスでも腕力のある奴らは、みんな瀬口に手なずけられていた。
 山田はそれにもめげずに、一人で瀬口たちに対決していく。
 ただ、副委員長の隆治だけには、協力を求めてきた。
「二人で民主的なクラスを取り戻そう」
 山田は、そんな時代遅れの学園ドラマみたいなせりふをはいていた。
「別に、たいしたことないんじゃないか?」
 隆治はそう言って、山田を見捨ててしまった。たしかに、おそらく隆治が協力すれば、かなり話は違ってきていただろう。二人で注意すれば、瀬口の嫌がらせも、そんなにはおおっぴらにはできなくなったかもしれない。先生たちも、山田の話にもっと耳を傾けてくれただろう
 でも、そんなことにはかまっていられない。隆治は副委員長として、与えられた最低限のことだけをやっているだけだった。
 受験勉強も、だんだん忙しくなっていった。隆治は山田のことは忘れて、自分のことだけに集中しようとしていた。
 山田は、とうとう思い余って先生に相談してみた。
 でも、先生も山田の話に取り合おうとしなかった。瀬口の巧妙な根回しのおかげで、みんなが口裏を合わせたからだ。
 こうして、山田は瀬口のねらいどおりに、クラスの中で孤立してしまった。クラス中がそのことを知っていたが、誰も自分で行動を起こそうとしなかった。
 それでも、山田は、一人でクラスをまとめようとがんばっていた。いろいろな活動を提案して、クラスを活発にしようとしたのだ。
 でも、瀬口たちの山田への嫌がらせは、だんだんエスカレートしていく。

 ある日、山田をシカトするようにとの指令がくる。
 しかし、シカトは、はじめは瀬口のグループだけしか徹底しなかった。みんなは、山田に悪意を持っているわけではなかったからだ。
 瀬口は、グループの連中を使って、「山田シカト」を徹底させるように締め付けを続ける。
 そのおかげで、山田をシカトする者がだんだん増えてくる。隆治さえも、瀬口たちを恐れて山田を避けるようになってしまった。
 とうとう最後には、クラスの誰もが、山田と口をきかなくなってしまう。山田が何か話しかけても、みんなクルリと背を向けてしまう。
 しだいに山田が近づいていくだけで、みんなが離れていくようになってしまった。
 先生たちがいる所では、みんなは普通にふるまっている。学級会の時なども、山田の司会でスムーズに進行していく。一見、なんの問題もないクラスのように見えた。
 でも、生徒だけになると、みんなが山田を完全に無視するようになっていたのだ。そして、先生たちは、このことに少しも気がつかなかった。
 山田は、学校に来て一日中、誰とも話しができない。こんな時、他の子だったら、別のクラスに休み時間などの逃げ場を求めたかもしれない。
 でも、山田は、この苦しい状況から逃げようとしなかった。休み時間には、誰とも遊んだり、話したりせずにじっと本を読んだりしてすごしていた。隆治は、そんな山田の姿を遠くから見つめているだけだった。
 ある日、山田が学校に来なくなってしまう。
 数日後に、その理由がわかった。家で自殺をはかったのだという。カッターナイフで、手首を切ったというのだ。
 さいわい、発見が早かったので命には別状なかった。山田は救急車で運ばれ、そのまま入院した。そのため、山田の自殺未遂はおおやけになり、警察から学校に連絡が入った。
 責任を追及された学校側では、なんとか原因を究明しようとする。
 それに対して、瀬口はクラスみんなにかん口令をしく。
「みんなだって、同罪なんだからな」
 隆治は、瀬口の言うことはあたっていると思った。瀬口たちだけではない。隆治も含めてクラスの全員が山田を追い詰めたのだ。
 学校側の調査に対して、口を開く者はいなかった。けっきょく、原因はうやむやになってしまった。
 しばらくして、退院した山田が登校してきた。ただ、別人のように無口になってしまった。うわさでは、うつ病でまだ通院しているとのことだった。
 あいかわらず、誰も山田と話をしようとしない。シカトが続いていたのではなく、罪の意識を感じていて、どのように山田と接すればいいのかわからなかったのだ。
 ある日、とうとう思い切って、隆治は山田に声をかけた。せめて自分だけは、できるだけ山田に協力しようと思ったのだ。
 しかし、山田は、担任に頼んで、学級委員長をやめることになった。そして、繰り上がりで隆治が学級委員長になることになったのだ。そして、今度は隆治が、瀬口の新しい攻撃の対象になってしまった。

   

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宮澤清六「兄のトランク」兄のトランク所収

2021-01-12 18:27:39 | 参考文献

 賢治の八歳年下の弟である清六氏が、1987年に出版したエッセイ集の表題作です。
 このエッセイ集は、清六氏が賢治の全集の月報や研究誌などに発表した賢治についての文章を集めたもので、発表時期は1939年から1984年まで長期にわたっています。
 賢治にいちばん近い肉親ならではの貴重な証言が数多く含まれていて、賢治の研究者やファンにとっては重要な本です。
 このエッセイでは、大正十年七月に賢治が神田で買ったという茶色のズックを張った巨大なトランクの思い出について書かれています。
 その年、二十六歳だった賢治は、正月から七か月間上京しています。
 その間に、賢治の童話の原型のほとんどすべてが書かれたといわれています。
 賢治の有名な伝説である「一か月に三千枚の原稿を書いた」という時期も、その間に含まれています。
 賢治は、この大トランクに膨大な原稿をつめて、花巻へ戻ったのです。
 1974年の3月14日に、賢治の生家で、私は大学の宮沢賢治研究会の仲間と一緒に、清六氏から賢治のお話をうかがいました。
 なぜそんな正確な日にちを覚えているかというと、その時に清六氏から賢治が生前唯一出版した童話集である「注文の多い料理店」を復刻した文庫本を署名入りでいただいたからです。
 宮沢賢治研究会の代表をしていた先輩は、どういうつてか当時の賢治研究の第一人者である続橋達雄先生に清六氏を紹介していただき、さらには続橋先生にも事前にお話をうかがってから、みんなで花巻旅行を行ったのです。
 賢治の生家だけでなく、賢治のお墓、宮沢賢治記念館、イギリス海岸、羅須地人協会、花巻温泉郷、花巻ユースホステル(全国の賢治ファンが泊まっていました)などをめぐる濃密な賢治の旅でした。
 私はスキー用具をかついでいって、帰りにみんなと別れて、なぜか同行していた高校時代の友人(宮沢賢治研究会のメンバーではなかった)と、鉛温泉スキー場でスキーまで楽しみました。
 その旅行の前に、代表だった先輩は、「清六氏にあったら賢治先生と言うように」とかたくメンバーに言い含めていましたが、当日はその先輩が真っ先に興奮してしまって、「賢治」、「賢治」と呼び捨てを連発してひやひやしたことが懐かしく思い出されます。
 清六氏は、37歳で夭逝した賢治とは対照的に、2001年に97歳の天寿をまっとうされました。
 その長い生涯を、賢治の遺稿を守り(空襲で生家も焼けましたが、遺稿は清六氏のおかげで焼失を免れました)、世の中に出すことに尽力されました。
 清六氏がいなければ、今のような形で賢治作品が世の中に広まることはなかったでしょう。

兄のトランク (ちくま文庫)
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筑摩書房
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アグネス・ザッパー「愛の一家」

2021-01-12 15:14:38 | 作品論

 1907年にドイツで書かれた児童文学の古典のひとつです。
 2011年に出た完訳版で、約五十年ぶりに読んでみました。
 私が1960年代の初めにこの本を読んだのは、姉たちのために毎月家で購入していた講談社版の少年少女世界文学全集のある巻に収められていたからです。
 おそらく抄訳だったのでしょうが、今回読んでみて知らないエピソードが出てこなかったので、かなり良心的なものだったのでしょう。
 そういえば、同じ全集に入っていたケストナーの「飛ぶ教室」「点子ちゃんとアントン」「エーミールと軽業師(ケストナー少年文学全集では「エーミールと三人のふたご」というタイトルになっています)」の巻(幸運にもまるまる一巻がすべてケストナー作品でした)は私の子ども時代の最愛の本でしたが、大学生になって真っ先に大学生協でケストナー少年文学全集を買ってそれらの作品を完訳を読み直しても、ほとんど違和感がありませんでした。
 さて、このお話は、貧しい(といっても、昔のことですからお手伝いさんはいるのですが)音楽教師のペフリング一家の七人兄弟(男四人、女三人)が、ほがらかで頼りになるおとうさんとやさしくて信仰心に富んだおかあさんの愛情に育まれて成長していく姿を描いています。
 第一次世界大戦前の古き良き時代のドイツの庶民の暮らしが、長い冬の風物を背景に丹念に描かれています。
 私が初めて読んだ時でも、書かれてから五十年以上たっていましたが、あまり違和感なく読めたのはそのころの日本の一般的な家庭と共通点があったからでしょう。
 当時の日本の家庭を描いた作品としては、庄野潤三の家庭小説(「絵合わせ」(その記事を参照してください)「明夫と良二」「夕べの雲」など)がありますが、この「愛の一家」もどこか庄野作品と共通するものがあるように思われます。
 社会が複雑化した現代の日本では、この作品のような「おとうさんらしいおとうさん」や「おかあさんらしいおかあさん」や「子どもらしい子ども」を求めるのは困難かもしれませんが、東日本大震災や福島第一原発事故やコロナなどを経て、家族の大切さが見直されている時期にこういった作品を読んでみるのも、たんなるノスタルジーを超えた意味があるのではないでしょうか。

愛の一家 (福音館文庫 物語)
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福音館書店
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高岡 健「はしがき うつ病論の現在と双極Ⅱ型―働くことの卑怯なとき」うつ病論 双極Ⅱ型とその周辺所収

2021-01-12 09:59:54 | 参考文献

 2009年2月に発行された「うつ病論 双極Ⅱ型とその周辺」のはしがきです。
 現在のうつ病が「双極Ⅱ型」(軽躁とうつを反復する気分障害)が主流になっていることと、「この障害の発症が単なる自己責任ではなく、組織や共同体と個の生き方の間で発生する、公害である」ことを明記しています。
 そして、1992年のバブル崩壊や2008年のリーマンショックなどによる新自由主義経済の崩壊との関係についても触れています。
 児童文学者として特に興味を引いたのは、宮沢賢治の「もうはたらくな」という詩の以下のような一節を引いていることです。
「もう働くな、レーキを投げろ」、「働くことの卑怯なときが、工場ばかりにあるのではない」
 そうです。
 「双極Ⅱ型」を初めとする「うつ病」は、個人やその家庭といった狭い領域に責任があるのではなく、それらと組織(学校や会社など)や共同社会(国や地方自治体)との関係性において発生するのです。
 別の記事(内海 健「うつ病新時代 双極Ⅱ型障害という病」)でも書きましたが、今の子どもたちや若い世代を取り巻くいろいろな問題(いじめ、セクハラやパワハラなどのハラスメント、ネグレクト、虐待、ひきこもり、登校拒否、拒食、過食、自傷、自殺、薬物依存、犯罪など)も、この障害と同様に、自己責任(被害者および加害者)が問われることが多いのですが、実際は社会全体の問題として捉えなければなりません。
 そして、賢治が80年以上も前に書いたように、児童文学者は本来そういった視点を持っていたはずです。
 しかし、最近では、個人の自己責任ばかりに言及して、売れさえすれば体制や社会におもねった作品でも評価されているのを見ると、児童文学の世界も明らかに「逆コース」を歩んでいるようで、おおいな危機感を持っています。

うつ病論―双極2型障害とその周辺 (メンタルヘルス・ライブラリー)
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浅野弘毅「あとがき」うつ病論 双極Ⅱ型障害とその周辺所収

2021-01-12 09:57:26 | 参考文献

 うつ病の背景となる社会の変化とそれに伴ううつ病の変化について概観し、最後に参考文献をリストアップしています。
 著者の社会認識の古さや、歴史認識のずれ、そして現代の社会に対する認識の欠如に驚かされます。
 著者は1946年生まれなので、2009年の出版当時はまだ62、3歳だったわけで、そんなに老け込む年ではなかったはずなので、勉強不足としか言いようがありません。
 まず、現代を高度消費社会と捉えているのが古すぎます。
 同じ精神科医の大平健が「豊かさの精神病理」を出版したのは1990年で、筆者がここに書いていようなことは大平が描写した1980年代のバブル時期の感覚です。
 また、能力主義の労務管理システムが、あたかも1980年代にはとりいれられたように書かれていますが、実際に日本に導入されたのはバブル崩壊後の1990年代です。
 私は外資系のグローバル企業に勤めていたので、一般の日本企業よりはかなり早かったのですが、それでも1990年に入ってから導入が始まり、完全能力型のグローバル化(それでもローカルルールで若干の年功序列が残っていました)が完了したのは2000年代に入ってからでした。
 この本は現在問題になっている双極Ⅱ型障害を中心に書かれているはずなのですが、この「あとがき」の文章で書かれているうつ病と社会現象とのかかわりは旧来のメランコリー単極うつ病が中心になっていて、双極Ⅱ型障害の時代背景になっているバブル崩壊やこの本が出る直前のリーマンショックなどについてほとんど考慮されていません。
 「あとがき」に限らず、この本を通して読んで感じたのは、タイトルには今注目されている双極Ⅱ型障害を掲げているものの、個々の論文は必ずしもそれに関連しているものばかりではなく、かなり古い「うつ病」観を持った著者(特に年配の人たち)も多いようです。
 特に、「はしがき」で掲げられた、双極Ⅱ型障害は社会のひずみによる「公害」だという認識が、著者の間で共有されていなかったのには、「羊頭を掲げて狗肉を売る」ようで、がっかりさせられました。

うつ病論―双極2型障害とその周辺 (メンタルヘルス・ライブラリー)
クリエーター情報なし
批評社
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