ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

1/8日 猿渡川沿いを山望遠足 3の2:猿渡川の右岸を下流に向かって歩く。橋上からの山岳景観を楽しむ。

2022-01-13 04:58:04 | 草花
猿渡(さわたり)川の護岸堤防はコンクリートで固められていて、どちらかと言えば殺風景な印象を持たせられます。
昔ながらの河川という感じがしなくて、いかにも人工の「放水路」というような感じを抱かせます。
海にはだいぶ近づいていますので、潮の満ち干の通りに川の流れ方も向きが変わりますし、海の魚もやって来ます。
川のせせらぎが聞こえない代わりに水鳥が来ていて、それを眺める楽しみもあります。
小生の場合は山岳景観に特化してやって来ましたが、そんな水面にも目をやりながら下流に向かってそぞろ歩きをしています。

高須橋より荒川・赤石岳 ↓

高須橋の橋の上から期待を込めて、南アルプスの方角を覗きます。 荒川岳と赤石岳が白い峰を見せていました!

カシバードで確認 ↓

同じ画角でカシバードにより確認します。



もう一つ下流の神明橋から ↓

ここからは荒川岳のみが見えたように記憶しています。神明橋は江戸時代からお神明橋と呼ばれていたそうで、その由来は橋のたもとに神明社を祀ったことに拠るそうです。



オナガガモ ↓

今回、オナガガモが群れを作っている場面は見ませんでした。(上に写っているのはコガモです。)



名古屋鉄道の沢渡川橋梁 ↓

二両編成の電車が通るところを待ち受けていました。



沢渡川橋梁の手前から恵那山方面 ↓

団地の高楼から恵那山方面を写しませんでしたので、条件が悪いのですが、ここから恵那山にカメラを向けます。



巡見橋に到着 ↓

橋の柵にこんなものが付いていました。
おそらく橋の名前と関係することのようだと察しました。

まず、巡見使(じゅんけんし)とは:
江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使(諸大名などに将軍の意(上意)を伝えるために派遣した使者)のことです。(wikiより)

そして巡見橋の名前の由来:
江戸時代に架けられたこの橋は、幕府の巡見使の通行する道筋にあたり、
刈谷藩の役人がここで出迎えるのが例であった。その当時から巡見橋と呼ばれている。(この板に刻まれている文より)



次に下を流れる猿渡川の名前の由来 ↓

これも橋の手すりに組み込まれている鋳物製の板です。
猿渡川の名前の由来とは(wikiより引用):
弘法大師空海が帰京の際に現在の知立市付近を通りがかり、橋のない川に差し掛かると、その川のたもとで親猿と3匹の子猿に遭遇したそうです。
見たところ兄猿と弟猿2匹は仲が悪い様子で、どのようにして川を渡るのか見ていたところ、以下のようにして親猿は自分がいない場所で兄猿と弟猿を一緒にすることなく、巧みに3匹の子猿を対岸まで背負って渡した。

親猿は兄猿太郎を背負って対岸に着き、兄猿を置いてこちらに戻った。
親猿は弟猿次郎を背負って対岸に着き、兄猿太郎を背負ってこちらに戻った。
親猿は弟猿三郎を背負って対岸に着き、そのままこちらに戻った。
親猿は兄猿太郎を背負って対岸に着き、4匹の猿はすべて対岸に着いた。
空海は親猿の知恵に感心し、この川を猿渡川と名付けたそうです。

これはひとくくりにして「猿知恵」とは侮れません。



巡見橋から荒川岳 ↓


巡見橋から赤石岳 ↓

ここからも荒川岳と赤石岳が見えていました。

そして驚くべきことに・・・・・・

蛇峠山を挟んで間ノ岳と塩見岳が ↓

左側に白根三山の間ノ岳の雪嶺がほんの僅かだけ見えています。そして右側には塩見岳も・・・・。

カシバードで確認 ↓


もう一度、今度は双眼鏡を持ってここに確認に来ることにします。



巡見橋からも恵那山 ↓

恵那山を単独では捉えられませんが、これも山の眺めの一つということで受け止めておきましょう。





コメント (8)
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