旧制豊山中学校は明治36(1903)年に宗教法人真言宗豊山派が護国寺に設置しました。
特に宗派の子弟の養成を主として建てられたそうです。
旧制とは現在の学校教育法が制定される前の制度に基づく学校制度で、旧制中学の修業年限は尋常小学校卒業後の5年間でした。
その前身は、明治5(1872)年に護国寺に設けられた「宗学林」です。
下の写真は当時の護国寺境内図で、豊山大学、豊山中学の校舎、音羽幼稚園、寄宿舎が記載されています。
学校にある旧制豊山中学の模型図です。
旧制豊山中学時代の校歌です。
日本大学に移行するまでの50年間には多くの有識者を輩出し、著名人としては『堕落論』を著した作家の坂口安吾氏やピアニストの園田高弘氏、画家の後藤純男氏がいます。
昭和15年当時の校舎全景です。
プールは大正元年頃にできたので、すでにプールも写っています。
水深が3m以上4m近くもあったようで、当時学生だった方の話によると飛び込み台もあったようです。
その頃の校舎の入り口です。
私が個人的に所有している豊山中学校規則抄です。
国語や英語に多くの時間が使われているのがわかります。
授業料は毎月支払う仕組み(1・2年生は2円50銭、3年生は3円)だったようで、8月は徴収なしでした。
登校以外の外出の時も必ず制服・制帽を着用という面白い規則もあったようです。
次の写真は私の所有している小学生全集の『修養絵本』に記載されていた豊山中等予備校(夜間学校)の生徒募集です。
夜間学校は日大豊山高校になってからも定時制高校として引き継がれました。
次の写真は卒業生で作られていた校友会の雑誌です。
今でいうところのOB会報でしょうか。
内容は卒業生から集められた講演や論説、長詩、短歌、俳句、漢詩などです。
これを読んでいると当時の日本人がいかに高い国語力を有していたか、ということがわかります。
私たちの祖先は、明らかに今の私達よりも高い教養を身につけていました。
そして修学旅行は伊豆や鹿島、足利方面へ行っていたようで、当時の学生の勇ましい姿の写真が残されています。
卒業生の進学先としては東京帝国大学(現在の東京大学)へ入学する学生も多数いたようです。
当時は進級することも大変厳しかったようで、雑録には落第した学生の思いも綴られていました。
こんな文章をかける人でも落第をするのか、というのが私の感想です。
「遊堕にはあらで、大奮闘のはて、この次第、私も誠に堪えがたく候」
戦争を経て、多くの変革の中で宗教法人から学校法人となり豊山学園(中学校、高等学校全日制、高等学校定時制)は日本大学の付属校へと新たな一歩を踏み出しました。
竹村知洋