SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

覚醒した犠牲者

2023-04-21 20:58:00 | Essay-コラム

歯の矯正器具を付けてフルートを吹くことに関し、寛容な先生と寛容でない先生がいると思う。


もちろん生徒の口の形や感受性によりけりだけども、たぶん私は実はまったく寛容じゃないほうだと思う。


別に矯正器具自体に反対、とかそういうんじゃない。私だって、このひどい歯並びを子供の時に治しておけば、長い目で見てフルートがもっと楽に吹けたのかもしれないし、美しい口もとになって、歯に問題の多い今とは違った人生を生きていたのかも知れない。私は今の私を受け入れているけれど、それはそれで違う人生だったのだろう。要するにそれは個人の選択の問題だし、どのみち現実とはパラドックスに満ちている。


しかし、矯正中(2-3年という長い期間になる)に、レッスンが妥協になってしまう事は、私にとっても生徒にとっても多大なストレスであることは確か。


異物のせいで自分ではコントロール出来ないことだから、おいそれとここをこうしなさい、とは言えなくなる。音程が悪くても、器具のせいで細かいコントロールが出来ないからという理由で直せないし、ニュアンスが出せなくても、リズムやアーティキュレーションがはっきり出来なくても、アンブシュアに柔軟性がないせいで息が足りなくても、3点支持の一点を失うわけだから姿勢が悪くなっても、表現が思うように出来ないから力んでなんとか表現しようとしてヴィヴラートが不自然になっても__残念なことに、音楽性がある子ほど犠牲になる__こうなってくるともう、がんじがらめで、双方どんなに着地点を探そうと頑張っても、霧の中を彷徨っているまま数年が過ぎてしまう。


何より感覚の麻痺に慣れること、これが一番恐ろしい。


「すぐ慣れるでしょ」という先生もいっぱいいらっしゃる事は事実。しかし悪い音程や自分の本来の音とは違う不自然な音に耳が慣れてしまったり、「コントロール出来ない事」に体が慣れてしまう、本当にそれで良いのだろうか?


器具を取り払ったあとも、新たに自分の音を取り戻す、自由な体本来の感覚を取り戻すのに時間がかかる。それはもう2度と取り返せないかも知れないし、新しく生まれ変わるかも知れないし、その辺は経験上生徒の数だけバリエーションがあり未知数で、何とも言えない。


だから私は「みんなやってる事でしょ」とか「慣れるから大丈夫」「気にしなくていい」また「やる気さえあれば乗り越えられる」とか単純に言いたくはないと思っている。


一つの感覚は全ての感覚に繋がっている。

管楽器で口の感覚を殺しおいて、でもヴィヴラートには関係ないでしょ?でも指は練習出来るでしょう?でも身体の重心ぐらいは感じられるでしょう?と言うのは、私は嘘だと思う。


感覚は全て繋がっている。

一つのバランスが崩れたら全部崩れる。



先程「音楽性のある子ほど犠牲になる」と書いたけれど、世紀の大即興家、ピアニストのキース・ジャレットが、その著書「インナー・ヴューズ」の中で全くそのようなことを書いている。


彼曰く「ひとつの感覚を殺したことの犠牲になる」、それこそその人が覚醒している証拠なのだ。


以下。読んでみてください。





カオスの中の真珠

2023-04-19 10:23:00 | Essay-コラム

昨年のマルティニーク島の偉大な伝統フルート奏者、マックス・シラさんに続き、今年の即興アトリエへの招待者は、フランスで飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されているアーチストでミュージシャンでもある、シャルリ・オブリーさん。


フランスはトゥールーズの美大を出てから数年間というもの、まだ若いというのに彼のアートは大成功を収め、ローマのヴィラメディチ召喚に抜擢されるなど、多忙を極めている。


こういう人もいるんだねー。

前世で修行を積んだんだろうか。


先日は授業の最初に彼のアートと音楽を紹介していただく時間をとって貰った。


なんとも、彼は並外れて視点が大きいのだ。


アートとテクノロジーの融合する巨大なビー玉回路装置、ローマの道端に落ちているごみを拾い集めて創ったアート、わざとギターのネックを折って、テープで貼り付け、ワイパー運動で音を出させて壊れても音を奏つづける装置、テーブルの下に磁石をくっつけてテーブル上でスプーンが踊って音を出す音楽装置、、、子供たちは彼の作品にすぐに釘付けになった。



子供たちに自分のアートを紹介するシャルリさん



このような人のエネルギーに触れると、すーっと頭の中のモヤモヤが晴れて意識がクリアーになる。




子供たちは、老人たちの描いた絵を見せると早速やる気満々で即興し始めた。



老人ホームの人たちにインスパイアされて絵を描くグループ

しかしそれは、ちょっとめちゃくちゃで、とにかく音を各自の欲求で吹き散らしている、そんな印象の即興だった。しかも一人かなりワガママな子がいて、その子がめちゃくちゃに弾き散らすと、他の子も音楽ではなくエゴで応酬してしまうのだ。


騒然とした30分経過、そんなカオスの応酬のなかで、3人だけ全く参加出来ないでただ、聴いている子たちがいた。私は他の子たちに完全なサイレンスの指示を出し、その3人の前に絵を提示した。


するとここでミラクルが起こったんである。


この3人の即興の素晴らしかったこと!

まるでカオスの海から掬われた真珠のようにピュアだった。



本当に音楽って面白い、、、

私にとっても、いつも完全に予想外の展開となる。


その後の大きい子達のグループでは、一つ一つの絵の前でどういう印象かディスカッションさせ、そのアイデアから即興させてみた。


先週エゴの衝突で大クラッシュしたばかりの思春期の難しいこのグループが、なんと次々と素晴らしい音楽を奏でた。



シャルリさんも


「本当にあなたのアトリエと仕事ができて嬉しい。僕のいうことはもしかしてナイーブかも知れない。でも本当に時々フィリップ・グラスの音楽みたいに聴こえたんだ」


と、感動していた。


人間って音楽って本当に分からないものだ。

人の音の裏側に迫るのは並大抵の仕事じゃない。おしゃれな部屋でお茶を飲みながら好みの音楽を聴いているのとは違う。格闘あり、失望あり、ストレスあり、エゴの海あり、でも美しい真珠をこうやって産みだせるのであれば、本当に即興を続けていて良かった、と心から思う。


ゴミから宝物を拾い出す。


これこそシャルリさんのアートの真髄ではないのか?


それは彼のアートや人となりに触れることで私たちが気づいたことなのではないかと思う。


彼は人工知能などの「表面や既成の概念から判断する」ことに対して危惧を抱いてる、とも話していて、それは驚くことに、先日書いたばかりのブログ、続・音の裏にある存在~試験シーズン と完全にリンクしている。


このプロジェクトは第2回目、そして音楽院の近くの運河に停泊する前衛ライブハウス船にて、実際の彼の作品を囲んで屋外で即興する、6月の最終コンサートまで続きます。


お楽しみに!


続・音の裏にある存在~試験シーズン

2023-04-18 12:59:00 | Essay-コラム

春は復活祭の卵の季節。今年も音楽院試験シーズンがスタートしました。


やっぱり毎回どんなに心の準備をしていても、どうしようもない審査員に出会う。


あー、いつもながらに思うけど、こういう人たちって、音の表面がいかに美しいか、(「美しい」という芸術的表現ならまだしも、標準に見合う綺麗さかっていうヤツ)そこしか聴かないで、その音の裏にある存在には全く興味がないみたいだし、しかも、君らシステムの定めた「第二過程」とか何とかいう、(そりゃあフランスで音楽教えてればそれが何かよーく知っとるわ。でも、一歩この国から出てみ?何やそれ?でしょうが!)自らが作り上げたシステムの標準に匹敵するか、それにしか頭にないらしい。


挙げ句の果てには「この子は音が良くないがジャズなら通る、ジャズ科に行くことを薦める」だって。笑っちゃうわ。じゃあジャズは悪い音で良いのか()これ以上の先入観があるかいな!あーたはジャズの何をどう知っとるのか、、、ま、知らんけど()


ジャンル間の壁をなくして音楽の理解を深いところで繋げようと、日々努めて教育しているにも関わらず、

やっぱりクラシックはこうでジャズはこうでとか、表面で決めつける。壁やらシステムやらが大好きな人がいるんだなー、という思いを新たにする試験シーズン。


逆にそういうのを超えている寛容な感性の審査員に助けられることだってある。


だからそれぞれの本性を暴露してしまう試験って、良いことだと思う。結局どのようにであれ評価することは人間の本能であって、同じ人間が「音楽院の民主化」とか「音楽を全ての人に」とか叫んでたのがいかに嘘だったか分かる瞬間でもある。


生徒たちだって、私だって、必死で頑張るから、これまでいかに自己の能力の氷山の一角しか使ってなかったか分かるし。


うちの娘なんかは、学校が終わったあと私の都合で試験に連れて行かれて仕方なく付き合わされ、そういうシステムってのが世間にはあるんだ、という勉強をさせて頂いている。


そう、世界はシステムと個の戦いだし、システムなければ個だってないのだ。(逆も真なり)大事なのはいかにそれを知り、サバイバル出来るかってこと。


ところで。いよいよアーチスト、シャルリ・オブリーさんとの「思い出のシンフォニー」プロジェクト(老人ホームで老人たちが自由に描いたグラフィック楽譜に対して即興する)が、即興アトリエで今晩スタートします。


音の裏にある存在は、みんなと同じかどうか、とか他人の基準でのきれいかきれいじゃないかで評価されません。既存システムに沿った評価での試験やコンクールは、そういうのが得意な人に任せておくとして、私のアトリエでは、個の音の内面に切り込みます。結果お楽しみに!