歯の矯正器具を付けてフルートを吹くことに関し、寛容な先生と寛容でない先生がいると思う。
もちろん生徒の口の形や感受性によりけりだけども、たぶん私は実はまったく寛容じゃないほうだと思う。
別に矯正器具自体に反対、とかそういうんじゃない。私だって、このひどい歯並びを子供の時に治しておけば、長い目で見てフルートがもっと楽に吹けたのかもしれないし、美しい口もとになって、歯に問題の多い今とは違った人生を生きていたのかも知れない。私は今の私を受け入れているけれど、それはそれで違う人生だったのだろう。要するにそれは個人の選択の問題だし、どのみち現実とはパラドックスに満ちている。
しかし、矯正中(2-3年という長い期間になる)に、レッスンが妥協になってしまう事は、私にとっても生徒にとっても多大なストレスであることは確か。
異物のせいで自分ではコントロール出来ないことだから、おいそれとここをこうしなさい、とは言えなくなる。音程が悪くても、器具のせいで細かいコントロールが出来ないからという理由で直せないし、ニュアンスが出せなくても、リズムやアーティキュレーションがはっきり出来なくても、アンブシュアに柔軟性がないせいで息が足りなくても、3点支持の一点を失うわけだから姿勢が悪くなっても、表現が思うように出来ないから力んでなんとか表現しようとしてヴィヴラートが不自然になっても__残念なことに、音楽性がある子ほど犠牲になる__こうなってくるともう、がんじがらめで、双方どんなに着地点を探そうと頑張っても、霧の中を彷徨っているまま数年が過ぎてしまう。
何より感覚の麻痺に慣れること、これが一番恐ろしい。
「すぐ慣れるでしょ」という先生もいっぱいいらっしゃる事は事実。しかし悪い音程や自分の本来の音とは違う不自然な音に耳が慣れてしまったり、「コントロール出来ない事」に体が慣れてしまう、本当にそれで良いのだろうか?
器具を取り払ったあとも、新たに自分の音を取り戻す、自由な体本来の感覚を取り戻すのに時間がかかる。それはもう2度と取り返せないかも知れないし、新しく生まれ変わるかも知れないし、その辺は経験上生徒の数だけバリエーションがあり未知数で、何とも言えない。
だから私は「みんなやってる事でしょ」とか「慣れるから大丈夫」「気にしなくていい」また「やる気さえあれば乗り越えられる」とか単純に言いたくはないと思っている。
一つの感覚は全ての感覚に繋がっている。
管楽器で口の感覚を殺しおいて、でもヴィヴラートには関係ないでしょ?でも指は練習出来るでしょう?でも身体の重心ぐらいは感じられるでしょう?と言うのは、私は嘘だと思う。
感覚は全て繋がっている。
一つのバランスが崩れたら全部崩れる。
先程「音楽性のある子ほど犠牲になる」と書いたけれど、世紀の大即興家、ピアニストのキース・ジャレットが、その著書「インナー・ヴューズ」の中で全くそのようなことを書いている。
彼曰く「ひとつの感覚を殺したことの犠牲になる」、それこそその人が覚醒している証拠なのだ。
以下。読んでみてください。