May 28, 2018
先日の「耳なし芳一即興劇」、パリのマンダパ劇場という民族音楽を専門とする名だたる劇場で上演させていただくチャンスに恵まれまして、かつル・モンド誌に素晴らしい批評が載るという門出になりました!めでたい!!
次回はパリは5区のヴィエイユグリーユ劇場(この昔よくアタナスと出演していた小さな劇場はこの6月末での取り壊しを控え、最終の公演に参加させて頂きます!)で6月20日(水)17時、今年度最後の公演、どうぞお見逃しなく!!
それとはあまり関係無いんだけど、我が19区音楽院では来年度の準備期間に突入している。来年度の小学一年生向け企画を募集中とのことで、私は担当者に、今年小学4、5年向けにやって好評だった、ブルガリア音楽を提案してみた。
すると彼女の意見はこうである。
「え、ブルガリア音楽?それは子供には難しすぎるわよ。」
おいおい、じゃあブルガリアの子供はなんの音楽を聴いているんですかねえ??
この発言には2つの問題点がある。
いち。子供がどう思うか、お前が知ったわけ無いだろう。
に。この担当者が今年、私に勧めて来た企画「日本の音楽」なら子供向けであると考え、「ブルガリアの音楽」はダメだと考えるのは明らかな文化差別だ。
しかも、この二、のほうの問題点にはふたつの到底受け入れられない重大因子ある。
いち、全く知らないものに対し、勝手な先入観で平気にものを言っている。
に。自分の方に決める権利があり、音楽家は当然使われる立場にあると思っている。
時にはたった一言で、人の考え方って分かってしまうんですねえ。
私のブログを読んでいる人ならご存知のように、私は権力欲の行使について敏感である。
でもそれとは別に、今日はこの発言を氷山の一角とする西洋独特の驕りについて、お話したい。
左脳偏狭型のフランスの教育では、何歳の子供には何が難しい、と感性まで一括りにしがちである。
学校の教科にある程度年齢規準があって当然なのかも知れないが、しかしこれは芸術には全く当てはまらない。
どういう音楽が何歳に適する、と考えるのは大変危険だ。
同じ様に、政治を音楽に当てはめることも危険だ。男女平等、もちろんとても大事で、私だって一番に叫びたい事だ。しかし!!これを音楽に当てはめ「パリ市の音楽院で出す課題曲は50パーセントが女性作曲家でなければならない」と会議で言われた時は開いた口が塞がらなかった。芸術とは、ジェンダーでは無いはず。作品が良ければ女の曲であろうと男の曲あろうと何でもいいじゃなか。アメリカで黒人差別に対抗するアイコンとなり、白人をグループに入れたことで同じ黒人から批判されたマイルスデイヴィスはこう言っている。「俺のグループには演奏できる奴なら誰でも参加させる。肌が緑色であろうともな。」
いまパリの音楽院リフォームで叫ばれる、「全ての子供に音楽を」というスローガン。これをふりかざして、やる気も才能ないのに地域の子供であるというだけで席を優先し、(去年なんて私、ヴィオラを一年間やったけど先生が嫌なのでフルートに変えたい、と言って来た子を、優先順上取らざるを得なかった。もちろんそんな奢った考え方をする子は半年も持たずに辞めていった)何年も続けて来たやる気のある子を、試験の結果が悪いからと追放したり、外国から本物のやる気と才能を持って留学しに来た子をリストの後回しにしたり、もう民主化の名の下に音楽に介入しやりたい放題である。(あっそうだ、民主化の名の下に他国に介入し戦争を仕掛けているのも西洋の国々でしたね)
結局政治家の広く浅くの票集めにつきあわされイヤな思いをするのは、私達音楽家だけである。
何故こうなるのかというと、やはりそれは「感性」や「才能」を不確かなものとして信用せず、目に見える民主化などと言った「理論」を優先する、西洋社会の負の遺産なのだ。その考え方でいくと、子供とは「理論」が解せない不完全な存在となるので、芸術であろうとオトナが説明しないと分かりっこないのである。もちろん音楽では感覚より先に理論なので、楽器でなくソルフェージュから始めさせる。
そういう土壌に、植民地時代から培われた西洋随一主義の驕りが相まって、なかなか自分たちの価値観以外のものが理解できない(表面上はエキゾチックなものが好きなのだけどね)、前述の発言の様に、自分は他文化を上から目線で選抜したり意見する立場にあると思い込んでいるのである。もちろん例外の人だってたくさんいる。(この話をしたら、本物の芸術家である友人のフランス人指揮者は「子供は音楽だけで十分なんだ、説明なんか要らない」と言ってくれた。)
しかし論理と金と驕りに縛られた西洋は、後ずさり出来ないところまで麻痺してしまっている。