SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

人生のパズルを読み解く

2022-04-17 09:37:00 | Essay-コラム

子供が描くキュビズムって、実は世界の真実かも知れない...


最近、人生の半分を生きてきて思うのだけれど、(まあ半分かも本当のところは分からんけど、便宜上人生とは、自分の運命とか使命みたいなものをどんどん掘り当てていって形にしているんだろうな、と思う。


だから自分の「理想」だとか「こうなりたい」とか言うイデオロギー的な表層意識は、もちろん運命の道標とはなる時もあるけれど、命取りになることだってある。要するに、「自分」が「運命」に対して間違った判断を下すことがあり得るから。


だから前回のブログに書いたように、「自分」と「他人」、また「悪」と「善」のように一次元的な見方は危険だと思う。


物事は実際には次元を超えて複雑に絡み合っているから。(河瀬直美監督が東大の入学祝辞で言っていたことだと思う。)


人生の大失敗、と思えるとき、「最低!なんでいつも失敗ばかり」と思っていても、後で「あー、あれはこっちに側に行くな、と運命に言われていたんだな」と。自分のエゴがどんなにそっちに行きたい、と思っても、最大限努力してダメな時はやはり、そっちに行くのは自分の使命ではなかったようである。


私の場合、運命とエゴとの乖離が、若い時大変に苦しかったことだったと思われる。


でもまあ、苦しめば苦しむほど、後で歳をとって腑に落ちる、というか、まあダテに苦しんだ訳ではなかったんだ、ちゃんと運命は私を導いてくれていたんだ、と思う。


近所に住むソフロロジー(フランスの呼吸療法)の専門家のまなみーさんとその話をしていてた時教えてくれただけれど、私が感じておることには、ちゃんとセオリー化、メソード化された言葉があるのだと言う。


それは「明在理解」と「暗在理解」。


私は最初、なんだか訳は分からないけど、ものすごくブルガリアのカヴァルフルートの出すリズムに惹かれて、その後でインド語ではその感覚を表わす「ラヤ」(脈動するリズムという言葉があると知った。「なんかいいな」と暗在理解で思っていたことを言語化することで明在理解に至った訳ある。


そう言えば、パリ音の即興科の卒試の時も、審査委員長だった当時の学長に「君の言わんとしていることは、武満徹が本に書いているよ。読んだことはあるかね?」と言われた。はい、読んでません!(笑)それは武満徹さんの考えていることの、私の暗在理解だったと思われる。


インプロヴィゼーション(即興)に関しても、西洋では暗在、又は明在のどっちかに偏った曖昧な理解になりがちなのだけど、北インド音楽では「インプロヴィゼーションとは「構築」を意味し、それは、完全なる開かれた瞬間の自由さ(暗在と、この上なく厳格なセオリー(明在)との両方の上にのみ成り立つ」と言うことが、完全に論理化されているのである。


「腑に落ちる」、臓腑に染み入る。まさにこの表現は、どこかで暗在理解していたものが、明在理解することが出来た時の染み入る感覚、ではないかと思う。


この二つが合体したときに、意識は人間の身体と繋がり、本当の威力を発揮するのではないか。


インド音楽でいう「心と身体と頭が繋がった状態」である。


自分の暗在理解にないものをいくら言語化して習ったとしても、どこにも行きつかない。


私が若く苦しんでいた時は、きっと自分の暗在理解にもともとないものを明在化しようともがいていたからではないか。


フランスにいて思うのは、教育が非常に「明在理解」に偏っている、ということだ。


例えば「ソルフェージュ」から音楽を始めさせるのも明らかに「明在理解」(言語化)が先行しているからであり、音楽を暗在理解してないうちに先にそれを始めると、必ず子供は「分からない」だから「苦手」という反応を示してしまう。


そこで一番危険なのが、子供自身が暗在理解と明在理解を切り離してしまうことだ。


そうなってしまうと、取り返すには長い長い年月がかかる。


私はまずそれぞれの子供が音楽を聴き、練習し、合奏し、暗在理解として培った上で、その子供の時期や能力に見合った「明在化」をしていくべきじゃないかと思う。


逆に日本の教育では「以心伝心」に見られるような「暗在」に頼りすぎ、言語化という「明在化」が足りないのではないか、という印象がある。


どっちに偏ってもいけない!


先生の役目はひとりひとりの暗在理解に深く降りていくことだ。で、そこに落ち込んだままじゃダメで、出来る限りちゃんと明るい場所に引っ張り出さなければならない。


それがどうやっても無理な時もあるけど、無理なら無理で、執着せずそれを受け入れる。きっとその子の運命は、自分の役目とは別のところにあるから。


人生のパズルは、(音楽のパズルも自分の暗在理解を明在理解化して読み解いていくことのような気がする。



PS 「らるちぇにっつぁトリオ」3月20日のブルガリアからのコンサートがアーカイブで見られます!

こちらから↓



自分の中の内なるプーチン

2022-04-04 09:37:00 | Essay-コラム

私は小さい頃、大きくなったら国連に勤めたい、と思っていた時期があった。


なぜかというと、小学校で「国連があるから戦争が止められる」と習ったからだ。


もちろん今では、当たり前だけど国連が戦争を止められないのは知っているし、どうやったら戦争が止められるのかも当たり前だけど分からないから、国連に勤めたいとは思わない。


そして私は、音楽以外に能のない何にも出来ない人だったので、そのまま音楽家になった。


だから今回の3月28日のコンサート評の新聞記事:https://blog.goo.ne.jp/cieuxstage/e/de53654c7775c6374580ce57c897967fで、私が演奏したことが平和へのメッセージとして聴衆に届いた、という表現に驚き、それが本当かは別としても、この記者さんがそのように感じてくれたことに深く感銘している。


この記者さんは私が「二つの音楽的世界を繋げるためなら身を挺し何でもした」と書いてくれていた。


私のしてきたことを、私のたった一音で分かってくださった。そしてその一音を「日本の満開の桜の下で、マルティニーク島の奴隷地区の回想が太陽に照らされた」と、表現してくださったのである。


私はマックス・シラの曲「ロシェルの住民」をアレンジした時、それが奴隷地区の回想であることを厳密には知らなかった。ただ彼の音楽から、フルートの音から、深い哀しみと高らかな昇華を感じたのを、私なりに音にして写し書いていっただけだ。(そのことは後になって黒人奴隷の歴史に詳しい同僚Cが教えてくれた)



音楽している間は作曲やら編曲やら演奏に必死で、もちろん平和のへの字も考えてないのだけれど、この記者さんの心の中で、コンサート冒頭で演奏されたウクライナ国歌と、奴隷植民地区の歴史が重なったとも読める、奥深い記事である。


__ちなみにこの記者さんは黒人さんであった。フランス海外県の主要新聞なので多分アンティーユ諸島出身であると想像する。記事を読んでしみじみ思うのは、フランス植民地支配による歴史を誰もおおっぴらに語らなくなっているのと同様に、多分マックスさんを中心とするアンティーユ音楽も現代では徐々に忘れられ消えかけていて、今この音楽を「書かれた」アレンジを通して現代の音楽に融合させることは、私が思っていた以上にずっと意味のあることだったのではないか、ということだ__


二つの世界を繋げるとはなんだろう。


私が思うには、二つの世界を深く知ること、そしてどちらか一方からの認識でものごとを見るのをやめること。


それには長い長いトンネルを抜けて行かなければならない。この世界の次元以外のところを通って行かなければならない。論理ではなく、音楽という次元のトンネルだ。


相手の生きたことを生きるのは決して簡単なことじゃない。海に深く潜るのと同じことだ。実際ここ数ヶ月は時々息ができなくなるほど苦しい時間を過ごした。


思うに、長らく勤めてきたパリ19区音楽院と小学校は、私にとって世界のミニチュアであり、そこの即興アトリエで「即興」を教えることで、まさに色んなレベル、次元の異なる人々のエネルギーを繋げる作業で、この世界に生きることを体得してきたように思う。


改めてこの経験をくださった新旧の私の生徒たちに心から感謝したい。


この小さな世界から大きい世界に乗り出した時、私はそのままのやり方でやって行くと思う。


そこで学んだことはこれだ。すなわち


イデオロギーにはまらない。


イディオムに奉仕しない。


異なる世界を繋げられるのは、イデオロギー(思想、理念)じゃない。


経験を積むと自身のイディオム(慣用が出来てくる。しかしそれに囚われたり、胡座をかいたり、それを利用してもっといい立場になりたい、と考えると、途端に世界を繋げる回線は切れてしまい、他の存在に対抗するところに身を置くことになる。


最初純粋だったはずのどのようなスピリチュアルな考え方も、それに囚われ過ぎると確立した強固なイデオロギーのシステムとなって、いつしか軍隊と化し他を攻撃するのではないか。


世界中の宗教や思想の歴史がそうであるように。


みんなプーチンは悪いと言う。もちろん悪い。しかしみんな一人一人が自分の中にいるかも知れない内なるプーチンに気付き、戒める。その作業なしに、どうして世界に平和が訪れるだろうか。


日本のニュースによると、プーチンは悪いが、ウクライナが真珠湾攻撃のことを引き合いに出すのはいかがなものか、と言っていたタレントがいる。軍事施設なら攻撃が許されるのと言うのであれば、その軍事施設の中にいるのは自分と同じ人間だという事実を忘れるほどに「イデオロギー」に支配されている。自分の中にある悪、自分の国の歴史にもある悪。どこにも潜む可能性のある悪。それをまっすぐに認められない弱さ。自分は悪くないが人は悪い。そのような一次元的考え方で世界平和が訪れると思うのなら、それはとても甘いし危険だと思う。


娘が幼稚園のころ、学校で作ってきたブレスレットがあって、これには黄色、青、赤、白が混ざり合い、その上に金粉が舞っている。


それはまるでウクライナとロシアの国旗をカクテルシェーカーで混ぜ合わせたように美しい。


これが私が今回のコンサートで、服飾アーティスト安藤福子さんの創った「黒のタブーのドレス」と共に身につけていたのものである。


私はタブーに挑戦する、その先にあるのは一体何だろう。


フランス・アンティーユ紙上にコンサート評が載りました!(日本語訳あり)

2022-04-02 14:13:00 | Essay-コラム

Voici un super article sur le journal « France-Antilles » sur le concert du 28 Mars 2022, avec L’orchestre de flûtes français /Mie Ogura/Max Cilla » 🤩🎶

3月28日(月)に行われたパリ郊外・ヴィルジュイフ音楽院でのコンサートにつきまして、素晴らしい記事が「フランス・アンティーユ紙」(フランス・海外県の主要紙) に掲載されました。🎊

Mie Ogura et Max Cilla s'expriment pour la Paix - Culture en Guadeloupe

Mie Ogura et Max Cilla s'expriment pour la Paix - Culture en Guadeloupe

Que mieux que la rencontre entre deux artistes, Mie Ogura-Ourkouzounov et Max Cilla ; deux mondes, le Japon et la Martinique, pour jouer ensemble et faire passer...

France-Antilles Guadeloupe

 


非常に的確にこのコンサートの意図を汲み取って下さり、(しかも論理からじゃなく、その時発せられた「音」から感じたことを本心でまとめて下さっているのが分かる) しかも詩的な美しい表現で書いてくださった。


この初対面の記者さんの文章は、そのまま私がこれまでの人生で音楽に賭けてきたことをずばり、深い次元でそのまま言い当てて下さっており、このコンサートのために長い間渾身でやってきた作曲と編曲へ努力、またこれまでの人生でやってきたことが報われたのだと感じました。


こんなに嬉しいことはありません!!


ご要望がありましたので、記事の日本語訳を載せますね。以下↓


ミエ・オグラとマックス・シラが平和への願いを表現


二人のアーティストの出会いほど素晴らしいものはない。。。ミエ・オグラ=ウルクズノフとマックス・シラ日本とマルティニーク、二つの世界。一緒に演奏することが平和と喜び、積極性、希望へのメッセージをもたらした。



~二つの文化「カリブと日本」の融合に聴衆が魅了された


328()、フランス・ヴィルジュイフ音楽院「春のコンサートシリーズ」にて、マルク・ハジャール指揮24人のフルート奏者によるフランス・フルートオーケストラ(ピエール=イヴ・アルトー芸術監督)は、日本人音楽家ミエ・オグラ=ウルクズノフとマルティニーク島の偉大な伝統フルート奏者、マックス・シラを迎えた。


二人の奏者はそれぞれの持つレパートリーを再訪し、かつアンティーユ諸島の音楽からジャズへ、クラシックから太古のリズムへと縦横無尽に歩を進める。


それは彼らが自身の世界から旅立つ絶好の機会であり、この名高い管楽器を通して、このコンサートをウクライナの平和へ捧げた。


ことに感激したのは、黒いドレスを着た即興/ジャズの女王、ミエ・オグラがカリブ音楽の父、マックス・シラの音楽をマルク・ハジャールの棒の下、即興演奏したのを聴いた時である。


そこでは日本の満開の桜の下、ロシェルの住民の回想を経て、ひとつの楽音は陽光にきらきらと照らし出された。


(注釈1:ミエ・オグラの楽曲のタイトル名「黒いドレスを着たタブーの女王~安藤福子へのオマージュ」~に引っ掛けた表現。この舞台で着ている黒いドレスがそれである)


(注釈2:マックス・シラの楽曲のタイトル「ロシェルの住民」「回想」_植民地であったマルティニーク島砂糖きび栽培奴隷地区であるロシェル地区の住民の哀しみを昇華する祈りの曲_に引っ掛けた表現。)


それは大勢の聴衆に、平和へのメッセージとなり届いた。


それはミエ・オグラが二つの音楽的世界を繋ぐために身を挺した、寛容性に溢れた時間であった。


しかし彼女は音楽遺産の継承についても言及を忘れてはいない。


ミエ「私たちが一緒に演奏したのは初めてだけれど、それは素晴らしかった。彼の音楽を初めて聴いた時、これは次の世代に伝える価値があると思ったんです。」


~情熱的な出会いと調和


ミエ・オグラ、いかなる先入観も持たず、全てを融合させられるアーティスト。


彼女は私たちに、普遍的な証言を贈っているのだ。


二人の即興演奏はマックス・シラに微笑みをもたらす。


マックス「私たちの伝統音楽がジャズやクラシックと融合し得たことを、私はとても幸福に思っている。」


マックス・シラ、彼の美しい世界観に基づく音楽。親愛なるカリブのフルートの偉大な父は、ここに充足し満たされたのである。


この情熱的、調和的な出会いは、パーカッション奏者ドミニク・トーリオとティンバル/ティブワ奏者シモン・ヴィル=ルノン、また24名によるフランス・フルートオーケストラ(ピエール=イヴ アルトー芸術監督)によって、伝統という「壁」を取り払われた。


彼らのアンサンブルは、デリケートなオーケストレーションにより美しい感動をもたらした。


マックス「私は、古典的なマルティニーク、カリブ海の音楽の基礎を築いてきました。」


木製の伝統フルートで創られるマックス・シラの楽曲、その含蓄、そのクオリティーは世界中の反響を今日また、獲得することとなった。


PS マックスさんのCD評が書かれた日本語のサイト、見つけました。こちらです!MAX CILLA / LA FLUTE DES MORNES Vol.2 | EL SUR RECORDS