私は完全にリズムのエキバランス(等価、同価値)に魅せられている。
だからか、気付くと自分で作曲した曲は、たいてい全部エキバランスで出来ている。
それは一種のリズムの数字遊びで、一つの音楽をやりながらもう一つのパラレルワールドにアクセスできるような浮遊感がある。
例えばアフリカ音楽の8/12拍子を八分音符4づつに分けると3拍子になり、3づつに分けると4拍子になる、あれだ。
アンダルシアのフラメンコもアフリカに影響された12拍が多いが、3拍子を8/6にして2拍子でとったり、やはりその等価が独特のグルーヴを生み出している。
私が一番好きな気持ち良い感覚、それはエキバランスによって生じるシンコペーション(同時にふたつの拍子感が混在する)だと、今は思っている。
即興とは気持ち良さを繋げていくものだから、シンコペーションの種類のカードをいっぱい持っていたらその気持ちよさが持続するのではないか?と思ったりする。
ということで、ブルガリア音楽では目下シンコペーション(一拍目以外のところにアクセントを付ける)練習をしている。
11拍子なら5+6に数えたり、3+3+2+3にしたり、2小節を一緒にして7+8+7=22 とかにしたり、そこでベースと違ったところにアクセントを付けるときに出てくる浮遊感といったら!もう背筋がゾクゾクする。まだやってないけど3小節で33も出来るかも知れない。
11拍子って、ブルガリア語で「コパニッツァ」というんだけど、こうやって小節を繋げて見ると、数秘術誕生数で言うゾロ目数が見えてくる。私たちラルチェニッツァ・トリオが大好きな11拍子だからか?(3人が3人とも誕生数が33なので。)
話が逸れたが、こういう風に、一日中無限に数遊びができるのだ。数学は苦手なはずなんだけど、これが面白くってしょうがない。(頭でやるのは簡単だが、実際に感覚で即興でやれるまで血の中に入れないといけないけど)
ブルガリア音楽の特殊性は奇数拍が非常に多いことである。(5、7、9、11、15)。
4もあるが、他の奇数拍子と同じような割合で存在してるっぽいし、ジャズと同じく一拍を3で取る時は3x4で12。(12は前述のアフリカ起源の音楽に多く、ジャズがなぜ4拍なのに丸みを持って聴こえるかというと、アフリカ起源の3の倍数である12でスイングするからだ)。
ところで日本音楽は、1拍!4じゃない。これは友達の日本音楽の専門家の琴&三味線奏者様が言っていたので間違い無いと思う。
ループのない拍子、、、これも多分世界でものすごく稀なのではないかと思う。
他の国の音楽とは全くあい慣れないかも知れないし、何にでも柔軟に対処できるかもしれない、何とも極端な国民性はここから来ているのかも、とも思う。(私も自分のことをそのように思っている)
日本は島国だから特殊性があってしかるべしだけど、なぜグローバリゼーションの中でメディアから流れる音楽が4拍子ばっかりになった中、ブルガリアという異常に狭い国でこれだけ奇数拍が生き延びたのか、私は正確な理由は知らない。
実際にバルカン山中の夏祭りや、地方のレストランでのパーティーに参加したことがあるのだけど、民衆は夕方4拍子のホロ(輪になって踊る民族ダンス)から始めて、夜が更けてムードが盛り上がって来ると5、7、11というふうにどんどん複雑な踊りを始めて、みんなで盛り上がってくる。
でも、だれも知らないようなこのバルカンの小国を見ていて思うんだけれど、全ての数が存在しているなら、全ての拍子で音楽するこの人たちの方がほんとは自然だよね?
なんでか知らないけど4拍子にぜーんぶ平された現在の消費音楽ばっかり聞いているのはおかしくない?
偶数で割り切れる方がいい、というスクエアな物質的な現在のグローバリゼーションの世界と比例している気がするのは私だけ?
そういう音楽はシンコペーションなんかなくて、フレーズも全部割り切れてしまう。
人類を脳抜きにするために誰かが全部音楽を平たく偶数にしているのかも知れない。
その目に見えない誰かとは、特定の人たちがますます丸儲けする「巨大な消費システム」かも知れない。
みんながいいと思うもの。みんなが快適なもの。みんなが慣れているもの。
アーチストはそういう出来上がったニーズによって音楽すべきではなく、自分の内側にある「want」で音楽すべきだ。
しかも私たち日本人は、世界でも稀な割り切れない超オリジナルな拍子のバックボーンがあるんだからね。
それと昭和さま、いつもブログにメッセージありがとうございます!面白く読ませて頂いております。
コメント解放してみましたので、皆さま感想を自由にお書きください。
Fukuko Ando’s latest exhibition at Orient Museum (Lisbon, Portugal 2020)
https://fukukoando.com/weaving-the-cosmos/
安藤福子さんのリスボンのオリエント美術館での展示会が終わり、残念ながら行けなかったのだけれど、その様子を彼女のホームページで見させてもらえた。(上のリンクからご覧いただけます!)
彼女の作品を、ずっと彼女がパリに住んでいた頃からもう20年近く見守って来ているけど、最初から素晴らしかった彼女の作品はますます粒子と波動がどんどん細かくなって、今回は彼女の手の感覚を通して銀河を導き出すような、そのタイトル通り「宇宙を編んでいる」境地に達しておられる。
彼女は最初から「服飾」という概念からかけ離れた世界観を持ち、それを周囲になかなか分かってもらえないのは苦悩だったと思う。
それでも身体に沿った形で表現する、という基本を守りながら、ここまでの独自の世界を創り上げるのに大変な歳月と鍛錬を要したことだろう。
彼女は自分の世界をこだわりあげ、脇目も振らずにそれだけを表現し続けた。
私たちアーチストは、自分の感覚を深く信じ、研ぎ澄まし、自分の内面を全て認めることでのみ「既成」を壊すことができる、それは唯一無二であるということを、彼女の作品が語っている。
彼女の内面にしか見えていない世界観こそ、本当の宇宙に繋がっているのだ。
だからこそそこに、言葉にはすることのできない無限の広がりと豊かさを感じるんだと思う。
その布の扱いは、私が理想としている音と音の繋がりのように多次元的で、彼女に必要なら装飾音が纏わり付き、必要ならシンコペーションで拍子を跨ぎ、時にアクセントを大胆につけ、即興的に自由にその瞬間瞬間の感覚を編み込んでいっている過程で、生き生きと彼女の呼吸が織り込まれる。
決して力で呼吸が止まっていない。
呼吸には奇跡がある。音を「魂で追う」とは彼女が言った言葉だが、自然な呼吸を習得している彼女の手もまた、魂を追うことが出来るのだ。
その次元に達したら自然にエクスタシーは連続するのではないか、、、そう感じて、ますます私は今日も練習するのが楽しくなる。
私は本当にそうなりたい!私は現在、強くそう望んでいて、自分が楽しくなる、自然にしたくなるものしか目に入っていない。
彼女は私と共に生きているアーチストで、彼女が日本に帰ってからもいつも時空を超えて共感し共同作業しているのだけれど、次は私のためになんと「エネルギーを受信し、発信する」エッフェル塔のようなドレスを創って下さるということだ。
そこではなんと、靴、という制約も無くなってしまというご提案が!
それによってなんと地からも、エネルギーをブロックなく全て受信できてしまうのです。
「スパイラル・メロディー」(ソロライブ)用と、「ラルチェニッツァ・トリオ」(ペーターとアタナスとのブルガリアントリオ、なんと名前が決定!!)用に両方。
「ラルチェニッツァ」は、ラルチェフさんの音楽を私たちの創造力で発展させる、という願いを込めたブルガリア風の名前。(アタナスからの提案で、すぐに私もペーターも全員一致でした!ペーターは「自分が付けたとは言わないでね、恥ずかしいから。ミエが付けたことにしといてくれ」だって。なんで私に責任転嫁笑)
ちなみに、「スパイラル・メロディー」という名前は、福子さんが私の結婚の時創ってくださったドレスにつけてくれた、私の音楽をイメージした名前。
この二つのプロジェクトは現在の私に最も大切なもので、スパイラルメロディーで自己の内面に最大限にアクセスし、トリオでエネルギーに感応して放出するという、まったく関係なさそうで、全て前後して起こっている二つのパフォーマンス。
そこに彼女のドレスが加わることは、もう無くてはならないこととなっていて、これからも彼女のドレスと共鳴して出てくる音楽が、もう楽しみで仕方ありません。
そしてここに来てなんと、自分の母の創造力が今、どんんどエネルギーを持ってきている。
これも偶然ではない、現在進行形の奇跡。
70歳を超えて人生初めて個展をした彼女はどんどん軌道を逸して来ていて、今後どうなって行くのか?!アーチストとしての今後が本当に楽しみ。
そして、アタナスの作品も、ペーターと即興をやり始めたことで、どんどん自由度が増して、ますますハートに直接響く作品になって来ている、、、
娘には、この一年成長したので、誕生日のプレゼントに新しいフルートを買ったんだけれど、昨日仕事で疲れて帰って来た私に一曲吹いてくれて、それがなんとピュアな音なことか!
一気に疲れが吹き飛ぶような音でした。