4回目になりました、人気シリーズ「巨匠は違う」。これまでに、チックコリア、キースジャレット、朝青龍さんに登場いただきました。今回は作家の村上春樹さん。(なんやそれ~)
ところで話題の1Q84、ついに3巻読み終えました。最高傑作だと思います。
もちろん、これまでの「ノルウェーの森」や「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ねじ巻き鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」なども大傑作としか言いようがありません。でも、これらの作品を自らの血を分けて書いた後での、あの「卵と壁」のエルサレム賞での演説、そしてこの1Q84にたどり着く、という軌跡がすごい。
これはあくまで私の感想だから実際とは違うかもしれないけど、音楽用語で言うと、「ノルウェーの森」でかすかに見えていた2次元(2声)の世界が、「ハードボイルド」で明確な2声になり、(いちばんある意味「完璧」な小説と思う)革命的なテクニックを身につけられた。しかしそのテクニックにとどまらず、(ふつうだったら自らのスタイルをみつけたらここに留まる。ここからが巨匠が巨匠たる所以)「ねじ巻き鳥」で歴史、というパラメーターを描くことで3次元(3声)以上を描き出そうとし、(この小説にはその3次元を描きだすのにものすごい苦悩されている印象がある、でその真摯な産みの苦しみが感じられるのが一番この小説のすごいところだとおもう)そして、その試みを今度はいとも簡単に(そりゃあ簡単な訳ないだろうけど、苦労をを読者に感じさせることもしない、という意味で)「1Q84」で3声のフーガを実現してしまった、しかも最後に
これ以上もない完全なカデンツを導いて。
2声や3声というと、もちろんバッハの手法である。
そこにはクラシック期以降の左手が伴奏となって右手に「従う」という概念がなく、ひとつひとつのラインはそれぞれ同じ重要性を持つ。
バッハの音楽ですごいのは、本当に何百、何千通りの解釈ができる、ということだと思う。
だからバッハはコンクールじゃ課題として成り立たない。たとえ課題曲になっていたとしても。
というのは、コンクールというものは、「ひとつの価値観が正しい」という理念を念頭において作られたものだから。
バッハの音楽は、そういう狭量なやりかたを絶対に許さない。
バッハ自身が「キリスト教」を信じる、という宗教的な狭い背景からでてきたものなのに、その音楽的な愛は全てを凌駕する。
青豆さんみたいに。
1Q84にはっとさせられる記述があった。「世界というのは、ひとつの記憶と、その反対側の記憶との果てしない戦いである」
この小説の重要なひとつの主題は(私なりの解釈ですが)ものごとには常に2つ以上の側面がある、ということ。
物事を自分のおもう方向からだけ見る場合、それは原理主義など狭量で危険な思想に結びつく。
これからの世界で、この事柄に気づくことだけが、私達を救う唯一の方法だ、とメッセージをおくっていると思う。
もうひとつ、織り交ぜられた主題は多分、「壁に打ち勝つ卵」
エルサレム賞受賞スピーチで春樹さんは、人間が作り出すシステムの「壁」につぶされる、かけがえの無いひとりひとりの人間
を「卵」と表現しました。
これこそ私達の突き当たっている壁。誰だってひとりひとりがかけがえのない命だ、と分かっていながら、国家>権力>戦争、そしてそのときシステムは、個人を殺す。元はと言えば、その個人個人だった人間がが作り出したのがシステムなのに。これこそ物事のニ面性である、としか言いようが無い。
そして、春樹さんは、どんなことがあろうと、自分は卵の側に立つ、とおっしゃられた。
この言葉、その辺のセイジカが言う言葉とは重みがちがう。
彼の文学を読んだあとでは。言葉は真実になる。
そして、その信念を、卵である青豆と天吾が、壁(システム)を乗り越える物語を作ることによって、また違った形で、世界に送り出した。
なぜ彼らは壁を乗り越えられたのか?
物語の有る時点から、青豆はこれ以上自分の意思以外のものに物語を進行させまい、と思ったところから流れは変わって行った。
あの最後の階段をのぼっていくシーンにすべてが凝縮されている。
「自分の愛を信じること」
どっかの政治家にノーベル平和賞をあげてるひまがあったら、ほんと、春樹さんにあげるべきである。
平和賞と文学賞、ダブル受賞でしょ!でもそんなものなくったって(ノーベル賞だって一種のコンクールだから、当てにはできん。)これほどのメッセージを世界に放つことができるひとは今、彼しかいない。
心から、彼と同時代を生きられることに、感謝したいと思います。
これからの世の中をセイジカに任せっきりにしちゃいけない!
なんと芸術の必要な世の中になったことか。「仕分け」で芸術を排除している場合ではないぞ。
「卵」を守る、表現者たちよ、もっと立ち上がれ
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