パリに住んでいるいる私は、基本フランス語で生活しているわけだが、ブログに日本語で文章を書いたり、日本語の本を読んだりすることが何よりの気分転換になっている。
そのブログを読んでくださっていた佐柄晴代先生が、「香川フルート友の会会報にぜひエッセイを書いて欲しい」というので、喜んで今回より引き受けさせて頂いた。
「初回は、自己紹介的なものを書いてくださいね〜。」と言われたのだけれど、何から書いて良いのやら分からない。
実は去年のこの時期に、パリ市のフルート科教授の国家公務員資格3席のためのコンクールがあって、面接の10分間で自己紹介を首尾よく澱みなく言い切る、というのを散々練習した。(結果、3席目にギリギリ滑り込むことが出来たのでした。セーフ!)それは自分がやってきたことがいかにこの資格に相応しいか、ということを審査員にアピールする、という営業用スピーチなのあって、自由なエッセイ的文脈では、それとは全然違った真実が見えてくるのだろう。
なーんて漠然と他人事みたいに思っていたら、「職業としての小説家」という、大好きな村上春樹さんの本に出会った。
冒頭、「小説」について語ります、というと最初から間口が広くなりすぎてしまうので、まずとりあえず小説家というものについて具体的に語ります…とある。
ふむふむ、さすが村上さん!オッケー、「音楽」について語ります、では間口が広すぎるから、「フルート奏者」という職業に、一体自分がどのような経緯を経てなったのか?っていうことを、具体的に、かつ率直にフィクションなく書いてみようと思う。
私がフルートに出会ったのは、7歳の時。3歳の時からピアノと作曲を習っていた多度津町の内藤先生のところで、私のレッスンのすぐ後に、塩江町という遠方から、いつもフルートを習いにくるお姉さんがいらっしゃった。
夕刻に決まって現れる綺麗なお姉さんの奏でる美しい音に心を鷲掴みにされた私は、「あの楽器がしたい!」と親に頼み込んだのだった。
憧れの高松第一高校音楽科に入学が決まった時、フルートを専科にすることにした。理由は今思い起こしても、大変に鮮明であった。
1、「ピアノでコンクールに出ても、妹たちより評価されなくて悲しかったので、もう競争はしたくない」
2、「一人で籠ってピアノを練習するより、ブラバンなどでみんなと一緒に演奏する方が断然楽しい」
2、は私の性格的な事情だけれど、1、は明らかに私が田舎者であることに起因していた。ピアノは競合者が多いけれどフルートは少ない、そんな平和なイメージは多度津だけの話であって、ちょっと都会に出るとそこには全ての楽器に熾烈なコンクールがあり、あちゃー、ブラバンでも数の少ないオーボエかパーカッションにしとけばよかった、と思ったが、後の祭り。
要するに、私は三度の飯より音楽が大好きなのに、それについて回る「競争」という側面が極端に苦手なタイプで、そこが私の最大の欠点なのである。陸上競技だと、スタートラインに立った時点で、精神的にもはや負けてるタイプ。
こんな私がパリ国立高等音楽院という、世界でも指折りの超難関校のフルート科を何故受験する羽目になったのかというと、高松一校の自由な校風が忘れられなくて、東京の大学での厳しい上下関係に馴染めなかった、そんなある日、大学のロビーでフランス国旗の色のパンフレットを見つける。私の中でフランスのワインの葡萄畑の匂いが一気に広がる。いや、葡萄畑を夢見ていた時に見つけたフランス国旗だったか。それはパリ音楽院教授であるピエール・イヴ・アルトーの広島での講習会の案内だった。とにかく私はそれを見つけたのだ。そのアルトーに、彼のクラスを受けるよう勧められたのであった。
1995年。私にとってパリへの渡航は「自由」への一筋の光を意味したが、日本から来た一学生にとって、こんなにも馴染むのが難しい地も、また珍しい。(と今でも思っている。)
重圧と混乱の中、一次試験通過者のリストに自分の名前が載っていることを確認してほっとした矢先、当時パリ音楽院でアルトーと共に教授であったアラン・マリオンが丁度通りかかって、私の顔を見るなり叫んだ。
「お前!お前だ〜!お前はリストには残っているが、一番下なんだぞ!おい、ニ次試験では、絶対に動くな!分かったか?!ちょっとでも動いたらお終いだ!動くんじゃ無いぞ!!」
志望教授でもないし、知り合いでもないマリオンが、いきなりすごい剣幕で何故私にアドバイスしたのか、謎である。しかし崖っぷちに追い込まれた私は、ピストルでマリオンに狙われた小獣のように、とにかく動かず吹き切った。するとどうだろう?最終合格者リストの中の上あたりに、自分の名前があるではないか!
多分「動かない」ことに集中しているうちに、それが「競争」である、という概念を忘れてしまったのだろう。競争のないところにこそ、音楽が生まれる。それからも、マリオンは私の演奏が本当に良いと思った時は、自分の生徒たちと全く区別せず、抱きしめて褒めてくれた。そんな彼も亡くなってしまったが、ほんとうの「利他」とは、自分の利益から離れた、もっと深い直感から発するものなんだと、感謝の気持ちと共に、自分も彼のように直感で生きていくべきだと、今改めて思う。
さて、20歳。最悪の受験を乗り越えたはいい けれど、これから過酷な運命が、私を待ち伏せていたのでした。このパリの地で、果たして「自由」は手に入れられるのか?「欠点こそ人生のスパイスであるll」、次回に続く!
次回最新号のエッセイはもうすぐ「香川フルート友の会会報」に掲載予定!
これからブログ転載するか不明ですので、続きが読みたい方友の会会員にご登録くださいね😆