先日の木ノ脇道元さんのブログに「フルートらしい陰り」という言葉があって、そんなこと考えたこともなかった、けどなるほど、道元さんのフルートの演奏からは、力のある音に寄りそってそういう陰りが聴こえるなあ、と思った。
そしてそれは、確かに道元さん以外のどのフルート奏者からも聴きとれないものである。
やはりその人が求めている音とは、演奏に出る。
しかし、私の場合はと言うと__コンサートという近距離の目標がないので、こんな考えたこともない事を考える暇がある__「音楽に」自分の欲する音を求める、と思っていても、「フルートに」というイメージが異様に乏しいことに思い当たる。
学生時代からフルートについて長々と語る級友に辟易していたし、はっきり言ってフルート自体には特に興味がない。
ずーっとナゾだったのだけど、では一体私が「フルート」に求めているのはなんたるや?
もちろん田舎出身なので他の楽器と比べる余地もなく、初めて見てあれがやりたい!と直感で始めたのだけど、私は楽器それ自体を好きだと思ったことが一度もないし、それで実際何度か楽器を変えた方が良いのかと思ったことさえある。
身体的にも特に向いていると思えないし、フルートの音、というのはどちらかというと落ち着かないし、好み的には高音すぎる。
唯一いわゆる「フルート」の性質に自分が合っていると思うのは、「ソリスト気質」な所ぐらいである。(私が「伴奏」に回ると非常にうるさく、目障りである。)
楽器的に一番好みなのはドラムスで、リズムと多重感が好きなのだから当然はまって、30歳すぎてから本気でやり始めた。
前にも書いたと思うけど、パリ音楽院で唯一好きだったインド音楽のクラスのいた時、シタールのムタル先生に、そういうところを見抜かれたのか「なんでお前はここで今フルートやってるんだ?!今すぐ隣の部屋へ行け!」と言われて行ったらそこはドラムスのクラスで、(先生はダニエル・ユメールだった。めちゃ贅沢ですね)、「おい、そこの寿司!(日本人で名前も知らないからこう呼ばれた笑)お前このリフやってみろ」とか、そのままレッスンに突入してたんだから、本当にいい時代だったと思う。
何かにつけてそういう感じだったから、たまたま「教える」仕事にたどり着いたのは、本当に幸運だった。
自分の意思に反して「フルート」ということに限定して教えざるを得なかったことで、フワフワとすぐに360度色んなベクトルに向く自分の興味を、錨をつけるようにちゃんと一つの楽器に繋いで置くことが出来た。
一つのきちんと定まったものがないと、逆に今みたいに色んな音楽を演奏することは不可能だったと思う。
時々フルートを修理に出すとき、「数日間ないと困るでしょ?代わりのフルート貸そうか?」って修理の人に親切に言われても「いや、いいです、無くても全然平気」って言っているくせに、いざレッスンで生徒が吹いてるとき「いやそうじゃなくて」っていつものように吹いて見せようとして、教室中フルートを探し回った挙句「あ!修理中だった」と思いつく始末。そして、自分の思うことはフルートなしでは残念ながら全く伝わらないし、なにも表現出来ない。いつの間にか、「呼気を乗せられる器官」としてのフルートが自分の体の延長線上になってしまっていたらしい。
それから、鍵盤。これがないと、落ち着かない。ピアノのない部屋でレッスンしたり練習したりするのは、どうも息が詰まる。3歳の時から始めたピアノ、これが私の音楽的理解の源であり、フルートみたいにきちんとやって突き詰めて来てないので、テクニック的に出来ることは限定されているけれど、時に「限定されている」からこそ出てくるものがあるので、作曲、即興の時にはフルート以上に必要不可欠なものとなる。
で、「フルート」って結局のところ私にとって何なのか?というと、「超えなければならないもの」という言い方が一番近いのではないかと思う。
前にエレガントな素晴らしいフランス製のフルートを試奏した時、相方が「なんか、凄く良い楽器で、巧く吹けてる。でも乗り越えて表現しているっていうあのあんたの独特の感じがなくなっちゃうんだよな」というような事を言っていたっけ。
と言うことで、楽器は昔から持ってる銀濃度の高く繊細なメカニスムが手に馴染んだマテキ、アタマは、どんな外国語の発音もジェネラスにまた有機的に受け止めてくれるフォリジの18k。
その昔、そのフルートに対する不均衡な感情に耐えきれなくて、よく失敗していた。
今だって、その不均衡さを忘れて没頭出来るのが唯一、即興をしている時だ、と言っても過言ではないかも知れない。
しかし、逆に言うと苦しんでも一つの楽器を突き詰めたところにしか、没頭は有り得なかったのかも知れない。
ドラムスみたいに絵に描いたような「好み」ではないし、鍵盤みたいな「我が原風景」でもない。それは脆くて、表現しようとした事が痒いところに手の届かない様に出来なくて、金属の棒っきれみたいに単純なくせに精巧で、自分の呼吸器官の割には真っ直ぐで冷た過ぎる。常に矛盾していて、掴み所がなくて、ちょっとでもバランスを崩したことに気付かずにいると表現力がいつの間にか目減りしている。自転車のタイヤ程の持久力しかなく、欲求不満気味で心許ない楽器。でも、超えたい、何とかそれを超えて違うものが欲しい、ともがくことが、私のフルートの吹き方なのかも知れない。
しかし一月は暗い。
毎年思うのだけど、楽しい12月のフェットが終わり、日本の年が変わる時みたいな、特別で真っ白で神聖でめでたい雰囲気もないまま_31日は花火ぐらいは通常上がるのだけど、コロナのせいで今年はそれさえもない_とりあえず日本人の私はお蕎麦やお節を作るからまだ区切りはあるけど、その他はなんのイベントも無く「え?」といううちにいつの間にか年が変わってしまう。
年明けは、朝真っ暗なうちに子供は家を出て学校に向かう。真っ暗な寒々しい路地にはクリスマスツリーが打ち捨てられている。娘は自転車の後ろの席から、美しい電飾が各窓を彩るクリスマス前には「ママ、私冬が一番好きな季節!」って叫んでたのに、今では「ママ、私冬キライ。春がいい」って言う。
学校に送っていって帰ってきてもまだ街灯はついたまま。暗い。(北欧だったらこんなのはたったの秋口なんだろうけど)
しかも音楽院では二人目の人が亡くなってしまった。(コロナではないけど)なんとも、暗い。
このお二人は、決してプライベートで仲良くした親しい間柄、というのではない。でも二人とも、私の最近の一番大切なスパイラルメロディープロジェクトに関わり、短い間だったが、不思議と私の一部と音楽的に非常に深いところで繋がりあった人たちだった。
「あんたのやっていることは、すごく良いと思う。」
亡くなったその人は、1年前、そう言ってくれた。
音楽院に勤める人の95%は、音響係兼受付係をしていたこの彼がどれだけ音楽通で、どれだけ耳がある人間だったのか多分知らなかったと思う。
かくいう私も些細なことから、仕事をしようとしない彼と大げんかをしたものだった。
彼は、音楽院の教授達を、「大した音楽も出来ないくせに、鼻持ちならない連中」と思っていたように思う。だから、そんな奴らの思うように顎で使われてなるものか、と思っていたと思う。
それは多分彼なりの音楽的レジスタンスだった。
本来は職場でやってはいけない態度だったとしても。
そして教授たちも思うように動いてくれない彼を単に「能無し」と思っていたと思う。
しかし、彼は心を隠していただけなんだ。
繊細で、本音でしか生きられない不器用な心を。
でも彼が私のやっていることを聴いて以来、彼の心と私の心の中で繋がれた。
そしてそれ以来、私達はやっと友達になれた。
いろんな私の知らない音楽の知識を会うたびに教えてくれた。
こんなにいろんな美味しい音楽を知っているんじゃあ、狭いスクエアな限られた価値観の競争世界で生きてきた音楽院の教授なんて、確かに面白くもクソもないだろうなあ、と思った。
私はそんな彼が急に居なくなったことをとても不思議に思っている。
G、私はあなたの言葉を忘れない。
沢山の人が感じのいい言葉を使う。
しかしあなたが本音でしか語ることの出来ない稀な人間だったからこそ、あなたの言葉は数少ない本物の言葉として、私の中に残った。
必ず私の残りの人生で、私の音楽を全うするから見ててよね。
私は今、この二人の亡き人が、私の一部を別世界に持っていってしまったような気持ちにになっている。
私はこの世界にいながら別世界と繋がり、別の次元軸にシフトする。
そして長引くコロナも人々の心に影を落とし始めた。
春はいつか来ると分かっていても、やはり暗い冬に行き先が分からないのは堪えるものだ。
現在仕事場が開いているだけでもありがたいのだけど、カフェやレストランが閉まっているので、ちょっと気分転換、とか繋ぎ時間にあった温かさがない。パリの生命線のカフェがない街の雰囲気は、ガラリと冷たく変わってしまう。
コンサートは一切なく、私もスパイラルは3月10日を最後に、トリオが8月7日を最後に、デュオ、ソロ、トリオ全てのコンサート、フェス、ツアーがキャンセルになり、再開のメドは立っていない。
あの二つのコンサートは到着点であり出発点であり、思い出で心を温めながら練習を続けている。逆にあの二つがもしなかったとしたら、今はもっと辛い心境だったのではないかと思う。
私の生徒たちは、いつ突然幕が下されてまたリモートレッスンに逆戻りするか分からない束の間の対面授業を、心ゆくまで楽しんでいるみたいだ。
コロナ対策グッズの数々。
窓は取り敢えずいつも全開。窓を隔ててレッスンする。1人レッスン終わったらドアも開けて換気。
長い閉校中に鳥が巣を作っていた。
今日はある中学生の生徒が、どうしてもリズム通りにできなくて、「ミエってさあ、(呼び捨てで君呼ばわりの生徒も多い笑)いつからソルフェージュ始めたの?」って聞くから「私は3歳からだよ、早すぎて何にも覚えてないから、楽器とソルフェージュも一緒くたで、どっちが先かとか、思い出せない笑 でも私にとって、音楽とソルフェージュって、分けることが出来ないとても自然なことなんだよ。」って言ったら、その子が「私ね、ソルフェージュと音楽が、とてもとても別れている感じがするの。まるで頭と体が切り離されてるみたいに」と言って、私のレッスンに辿り着くまでどのような音楽教育を受けてきたのかを教えてくれた。
彼女によると、出来てないこと(とくにリズム)を横に置いといて、取り敢えず取り繕って「あんなめちゃくちゃなコンサート」で思い出作りをしたとか、今のソルフェージュの授業でも「第2課程までは楽器を一切使わない」方針でやらされているそうだ。
そしてそのような子供自身が何処かで疑問に思っている方法というのは、私たちが思うよりずっと深く子供達の心を蝕んでいると思う。
私はパリ国立高等音楽院時代、そのような不自然な「頭」と「体」を切り離す教育に触れて、やはり自然に演奏することが出来なくなった。一時は原因不明の症状で吹けなくなり、入院したほどだ。(その状態から脱出するきっかけだったのが、インド音楽であり、ジャズであり、ブルガリア音楽だった。)
20歳すぎてこれだけ影響を受けたのだから、それ以下の年齢の子供達への影響は計り知れない。
しかしシステムとは強大で、表面上は移り変わっても、中にある病巣は、そう簡単に取り除くことは出来ない。
「私も、その頭と体を隔てる壁を取り払いたいと、いつも願っている。でもシステムそのものを変えることは出来ないよね。(ここで、システムってなあに?って言うからしばしディスカッション。)でも、少なくとも私とあなたは出会った。私だって万能な先生ではないよ。実際気が合わず辞めていく生徒だっていくらでもいる。
でも、あなたは私と同じように、壁を取り払いたいと思っている。あなたがリズムを本当に演奏したい、と心から願っているのであれば、それはいつかは絶対に出来るよ。ねえ、見えないかも知れないけど、私は47歳なんだ。自分が心から願ったことは必ず出来る。私は自分の経験から、そう信じている。」
そう言うのを聞いた時の、その子の目の輝き。
そのきらりとした一瞬の光は、暗い一月なんて、一気に吹っ飛んでしまうほどの輝きなのね。
私の心の中は、そのような小さな小さな光に照らし出されて、何故だか明るい。
暗がりと光がこんなに対比されて見えるのも、今が初めてかも知れない。
今年もミエ・ウルクズノフのブログをどうぞ宜しくお願いいたします!