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彼女は私が教職につきたいと探していたときに、まったく面識がなかったにも関わらず、しかも本来雇うのに困難のつきまとう外国人であるというのに、私の履歴書と第一印象を見て雇ってくれた恩人でもある。
こういうことは事前のコネの必要なフランス社会では大変に珍しい。
その後分かったことなのだが、なるほど彼女は天然記念物的にスポンタニウスな人で、直情型でぶっとんでいる。それは現代のこの普通の社会の枠組みからむにゅっ!とはみ出してしまうほどの直球ぶり
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お偉い人にごまをすったり、している演奏の割にでかい顔してえばったりするフラストレーションのたまった人が多い音楽界で、彼女のようにすぱっと自分の思っていることをそのまんま表現してしまうひとというのは、言いたくても言えない人たちから反感を買いやすいかも知れない。
でも、いくら我慢しても正直すぎて思ったことはどばっと口からでてしまう、という感じなのであるのですよ。
例えば、生徒の年末試験のとき。学長先生はもちろん審査委員長であるが、普通審査委員長というものは、静かに座って演奏を聴いているものである。しかし彼女の場合は!!例えばリズム感が悪い演奏だと、我慢がならないので立ち上がってぐるぐる歩きはじめる
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となりにいるおとなしい審査員との対比がいつもすばらしい。
しかも、あまりにひとりひとりにぴったり!な言葉で厳しくも大変正確な講評をするので、私は毎年とても楽しみにしている。
彼女のいうことに反感を感じたことなんて、一度も無い。だって、ほんとうに彼女の一挙一動が、その生徒のやっている音楽を、そのまんま表しているんだもの。
もちろんその彼女の演奏には「野性の才能」という言葉がふさわしい。
そして案の定、怒濤の合わせが始まった。
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このMCさん、体もでかいが、音楽の柄もでかい。私だって体こそ小さいが音楽の柄のでかさで勝負してきたつもりだ。でも、あまりのピアノの音量に、最初は「こんなのをカディノの小さい店(コンサート会場)でやったら、屋根がふっとんでしまう」(どうも最近イマジネーションが原発的になってきた)という不安にかられた。
しかしあそこのピアノは幸か不幸か古いプレイエルだ。これが「スタインウェイ」とか「ヤマハのフルコン」とかで来られた日には
「山本山と白馬の対戦」みたいになってしまうところだった。(ふたりとも角界追放かあ。。。)
ドビュッシーの「牧神」
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あまりに思っていたテンポと違った箇所があって、「えっここは、こんなに速い??」と聞くと、「速いんじゃないの!!こういうキャラクターなのここは」と直球が返ってきた。あ~~~!この一言には目からウロコがおちた。ドビュッシーにおいては、書かれたリズムやテンポなどは音価そのものではなく、「音楽のキャラクター」なのだ。これまで私は生真面目な性格が災いしてか(私はフランスでは完全にキマジメカテに入る)自由なドビュッシー的なリズムを出すのにいつも苦労してきた。しかし、この瞬間でたぶんもう一生分かってしまった!と思う。やったね
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彼女は非常にやりたいことがはっきりしていて、アンサンブルをしているとものすごい激しい主観を提示してくると同時に、それをすごく客観的に聴いて疑える耳をもっていて、そのふたつを振り子のように行き来することによってどんどん成長していく感じがする。
芸術においては、「主観」がまずありき(「絶対こうやりたい!」という主観的欲求の強い生徒は扱いが難しかろうとすばらしくなる可能性が高い。)でも、それだけではだめ。エゴの混ざった主観を創造的なエネルギーに変えるには、自分を「客観的に見られる」能力が不可欠なように思う。
私が彼女のような音楽家に「器の大きさ」を感じるのは、きっと「主観性」と「客観性」のふり幅の大きさなんだろうね。
そしてこういうほんまもんのクラシック音楽の大家とやると、クラシック音楽というものは本当は高い次元で演奏に自由を獲得できるんじゃないかということが感じられる。本当にできるかは別として、それこそが私の挑戦したいことだった。ジャズだから、とか即興だから、自由になれる、と思うのは間違いである。
音楽のジャンルで自由度が決まる訳ではないのだ。
さて私たちの挑戦が実る日が来るのか。。。来たる日が楽しみです!