SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

作曲と即興の融合

2020-07-25 04:49:27 | Essay-コラム

Chick Corea Three Quartets 1981


チック•コリアの魅力とは、その最高に質の高い作曲と即興の融合を一人でやってのけてしまう事だ。しかもその時々の彼にとって最高のミュージシャン達と一緒に。

しかも彼は、自分を「硬派」にも「軟派」にも出来てしまう、稀に見る超客観的な態度のアーチストである。

このアルバムは硬派チックの中でも最高級に硬派でストレート。ジャズを芯の髄まで知った者が、インテリジェンスと真摯な態度で音楽を限界まで追求するとどうなるのか。結果超インテンスで、聴いたら絶対姿勢を正したくなる。そこには安っぽいセンチメンタリズムの入り込む余地はない。

スリークアルテッツは非常に立体的な構成で、銀河群の渦巻きを思い起こさせるコンポジション。(私はジャズのコンポジションをチックのこのアルバムの前作friends に入っているCapucino という、スリークアルテットに似た構成の曲に感化されて始めた。だから彼の作品がとにかく好きだ)

クアルテットNo 1、No3、2(なんで数字が入れ替わっているのか、知ってる人教えてください!) part 1,part2まで、compositionとimprovisation の継ぎ目の全く見つからなない。(これってジャズでは実にレア!)その辺のうまさが息をつかせないほどで、しかも一人一人のソロ、チック、ガット、ゴメス、ブレッカーという超級ミュージシャン達の絡みの塩梅、バランスの取り方の妙技に時間を忘れて聴き入っていると、表面的な感情は排除され、感覚、頭脳のもっとずっと深いところまですーっと切り込まれていく。part 2 -コルトレーンに捧げる-の最後のガットのドラムソロがほとんどサイレンスのようなシンバルの振動から入り、チックが注意深く囲いこむように少しずつ分厚く和声付けしていくところは、ブラックホールの中心を覗き込んでいるようで圧巻。限界まで鍛錬された陸上選手のようなストイックな楽章は、ついに最後の最後の音まで精緻に構築されて終わり、そこに簡潔で甘美なデザートのようにfolk songのフレーズが突如現れる、、、、(涙)
深海からついに浅瀬の楽園に辿り着いた時のように、
ここで必ず涙腺が刺激されてしまう私。

でもこれだけでは終わらない。しかもそれに続くは、Hairy Canary とSlippery when wet で軟派チックが硬派チックと戯れる、フリーな大人のお遊びの時間。
ブレッカーも真面目にこの遊びについていこうとしている、そこが大人可愛い!

最後のconfirmationでは、長年なんでいきなりピアノとベースがない上にいきなりこの選曲?と思っていたら、なんとチック自身がドラムをやっているそうで。

あーこれって極上を極めた後の大人の遊びだったのかー、またやられた。


Miles Davis Aura 1989

デンマークを代表するジャズコンポーザー、パレ・ミッケルボルグが作曲し、マイルスをデンマークに招いてその作品に対して即興演奏して録音した、という異色アルバム。

マイルス自身は自伝で、良いアルバムだから聴いてみてよ、程度であんまり言及していないが、(客演なのであんまり思い入れが無いのだろう)私は、このアルバム、最高傑作だと思う。というか、個人的にマイルスの一番好きなアルバムの一つだ。

なぜかと考えると、きっとそれはヨーロピアンな感覚の精緻な構築性の中に、マイルスが野生の研ぎ澄まされた感性を注ぎ込んでいるからだ。そういう系統ではもちろん、マイルスとギル•エヴァンスとの共同作業が一番有名だし、最上の才能がお互いを最大限に理解した上での共演は言うまでもなく素晴らしいが、このアルバムの場合は、初対面で、しかもアメリカ大陸同士でない特殊性がある(ミッケルボルグのコンポジションの方はマイルスの音楽への最大限の知識と理解と愛がが感じられる)、何の先入観もなく、マイルスは瞬間瞬間に、新鮮な驚きを持って即興しているように聞こえる。アメリカでの自身のグループのように、他のミュージシャンをコントロールしたり、時に威嚇したり、アメリカの聴衆に焦らされたり、そういう苦労する必要がないからこその自由なのだろう。(そういうアメリカのど真ん中にいて人間的なマイルスを見るのも大好きなのだけれど)

ご存知のようにマイルスは、万華鏡のような人で、どんな安っぽいデジタルな俗っぽいバックに置いても太陽のように燦々と輝けるのだが、ミッケルボルグはマイルスにヨーロッパのシックな構築性の伝統、北欧の独特な透明感と緊張感のある響き、熟練した最前線のミュージシャン達の演奏を持って、最高の空間をマイルスに提供した。(ジョン・マクラフリンのすっごいギターも聴きどころ!例によって何にも調べず聴く私は、「このとんでもないエレギ誰なんやろ?」って長年思いながら聴いていたんだけど、やはりこれだけの演奏が出来るのはマクラフリン様だったのである。)

その結果はどのマイルスのアルバムとも違う、面白いものになっていると思う。

いつだったか、この「オーラ」の大ファンだとデンマークでいつもお世話になっているサウンドエンジニア、レイフに話したら、ミッケルボルグの作品のCDをくれた。素晴らしかったが、やはり「オーラ」のイメージが強過ぎて、マイルス抜きにはなんか「竜の目」が入ってないように聴こえてしまう。すんません、ミッケルボルグさん!

ヨーロッパの現代音楽の響き、ハープとオーボエのクラシカルなオーケストレーションから一転してのマイルスの純真なソロ。エレクトロで複雑な変拍子のリズムセクションと
それにのって漂うマイルス。早急なテンポの洗練されたヨーロピアンフリージャズ。教会の鐘のように鳴り響くリピートフレーズ。

それぞれの曲は、白、紫、赤、緑、オレンジというように色のタイトルがつけられていて、きっと前述した万華鏡のようにバックによって移り変わるマイルスのオーラを表現しているのだろう。

斬新で美しくインスピレーションに満ち溢れていて、細部まで考え抜かれたコンポジションの構築感とマイルスの経験に磨かれた即興の拮抗する危ういバランスが、どこを切り取っても最高のアルバムである。

前述のチックのスリークアルテッツもこの「オーラ」も、違う意味でジャンルを超越している。

彼らは、ただストレートアヘッドに音楽の内部に、内部に向かって貪欲に猛進することにより、書くこと、即興することのボーダーラインさえ超えてしまった。

そういえばこの間チックコリアからメールが来ていて(って本人から来るわけないじゃん!チックのファンクラブみたいのに入ってたらくる自動メール笑) それで目に止まったのが、最近チックにこういう質問した生徒がいたんです、という話。「私は自分自身のスタイルを作らねばという強迫観念に取り憑かれているのだが、どうしたらいいのか」と。チックの答えは、「それはお勧めできない、何故ならあなたはどんなに自己否定しようと、あなたが出している音があなた自身なのだから」と。

「それよりは、あなたが正直に「本当に好きなもの」を演奏した方がいい。あなたが正しいと思うもの、あなたが良いサウンドだと思うものを。あなたが本当に好きなものを練習し、あなたが演奏したいと望む人と演奏し、あなたが聴きたいと思うものをクリエイトしなさい」、という、今日のチックズ アドヴァイスでした。ピース!

ただ美しいムードを創ると思え(ひとりごと)

2020-07-20 01:18:50 | Essay-コラム

最近、ジャズのソロで自分の琴線に触れるマイルスやカークの音の使い方、音程の取り方をすごくじっくりと聴いていると、その音程の境界線みたいなのを実に繊細に出入りしてバランスをとっていることが分かった。

幼稚園のとき、(大きい組だったと思うが)、よく幼児雑誌の付録に切り取って貼って立体の動物やおもちゃを作るようなのがあったが、その切り取り線が太すぎて、いったいこの切り取り線の内側と外側のどっちを切れと言うんだろう?と悩んだことを思い出した。

それは今考えると、bonne question!だったらしい。

話を音楽に戻すと、逆に切り取り線の真ん中をなんにも考えずに切り取っているように(音程を自分で作らず、なぞっているだけ)の演奏者のソロになると、どんなにすごいテクを披露していても、論理的には同じことをやっていたとしても、途端に音楽は凡庸に聴こえてくる。

音程とはヴァイブレーションなんだ。
どこでどのように空気を震わせられるのか。
「どこで」、とは目をつぶっても歩けるように完璧にリズムを知っていることであり、「どのように」、というのはどの音高をその音楽がその瞬間欲しているのか、完璧に察知できることである。

子供がいる夏休みは毎日一時間しか練習に許された時間がないのだけど、その一時間をじっくり即興演奏に向かうようにしている。

今思うのは、ここのインプロで自分に何が出来るのか?という腰の引けた、一見謙虚に見えて自己中心な考えでなく、ただこの美しい音楽をより美しいムードにするにはどうすれば良いのか?
このようにのみ考えて演奏できるようにならなければならない、ということ。

これが出来るようになるには、大幅にこれまでクセだけでやっていた練習を減らさなければならない。

一時間しかないけど、1分たりとも無駄にしないよう、その後子供を公園で遊ばせながらとにかく音楽を聴き、考え、聴き、考える。

で、出てきたアイデアを速攻この一時間で試してみる。

時にcontrainte(拘束)とは自分を見直すのに必要である。

次回12月はホンモノのローランドカーク好きな人に「カークへのオマージュ」をリクエストされたので、いかにカークの夢の世界と、私自身が現在パリで見ている夢を融合できるのか。
一つの作品として2回目の挑戦したいと思っている。

カークの本を読んでいて、周囲の人間がが色々証言しているのだけど、「盲目の彼にとっては、騒音、お喋り、サイレン、車や汽車の音、おもちゃや機械など何でも身の回りの音は全て音楽だった」そうだ。

The case of 3 sided dream in audio color
というアルバムがあって、いろんな雑音のコラージュと楽曲が交互に出てくる。このナイーヴな音楽が何故かものすごく心に刺さるのは、彼がそういうものを、どこでどうやってヴァイブレーションに変え音楽に出来るのか心得ている天才だからだ。

ローランドカークの音楽は、あまりに力強く、独創的で時に悪趣味で、まるでピカソの絵をずーっと連続して見ているときのように疲れるし、嫌になることもある。

しかし、その過剰な体臭でさえ愛おしい。

カークは全ての黒人音楽、「ブラッククラシカルミュージック」(マイルスもカークも、「ジャズ」という言葉は白人が勝手に付けたものとして忌み嫌っている)を愛し、過去の作品も現在の作品も、自分の作品もなんの区別もなく、その深い愛をただただ怒涛のように表現した。

彼は誰に何と批判されようと、盲目であることと黒人であること、これまで誰もしなかったことを実現した為に差別されようと、ただその「ブラッククラシカルミュージック」という大きな木のなかに生息していただけなのだ。

その枝はその文化の根っこから栄養を吸収し、何処までも何処までも際限なく伸びることができた!

A love supremeー至上の愛。

あー、Sちゃん、やっぱり音楽って愛だと、私は思うよ。届いているかなあ?
じゃあ愛って何なんですか、って言われそうだけど。
まあ私も分からん。私たちはそれを知るために地球にいるのかもね。

ブルガリアのペーターさんも言っていたなあ、私たちは、みんな大きな木から分かれた枝なんだよって。ああ、もうすぐ8月に会えて一緒に演奏出来るなんて!

以上今回のは単なる今感じていることの覚え書きでした。

かなり個人的なことなので、意味不明なら聞き流してください。






意識と無意識の狭間

2020-07-09 16:20:51 | Essay-コラム

外出禁止も終わり、公立学校が段階的に始まり、パリ市の音楽院はついに始まらなかった。(まあうちの音楽院は授業は義務でないとしても6月には例外的に開いていたが。あそこは特殊に仕事熱心だからね。12月のストの時でさえ開いていたし。)

で、外禁中に企画した3本の動画プロジェクトがなかなか終わらず、(音楽院関係のが3つ。バッハプロジェクト、ピーターと狼、即興アトリエ)やっと昨日終わるという、どんどんハードになっていった面白い外禁明けだった。

これが問題作、19区音楽院の即興アトリエの動画。

Atelier d’improvisation se déconfine!

Perdido (Juan Tizol) par l’atelier de Création-Improvisation du conser...

youtube#video

 


その間、ものすごく嫌なこと、私が一番忌み嫌っていることも2つほど降りかかって来たし(相変わらず世界は悪意で満ちている)、良いこともたくさんあった。(相変わらず世界は善意で満ちている)。コロナ前とそういう意味では世界は変わらない。相変わらずどこも彼処も矛盾に満ち満ちている。でもやっぱり前とは何かが違う。私は嫌いになりかけていたパリをまた好きになりかけているのかも知れない。とにかく私はここにいる。はっきりとここに自分が存在していることが分かる。だれかがFBにジョークで「ロックダウン前の世界=ド#、ロックダウン後の世界=レb 」みたいな事を書いていたと思うが、まさしくそういう感じだ。

思えば、3月10日にギリギリセーフで「スパイラルプロジェクト第2弾」を全力投球して終わり、そのまま次週の月曜からいきなりそのコンサートの日には想像だにしてなかった、何のことだか分からない内にロックダウンに突入してしまったので、いきなり空白の日々となり、気がつくとまた予想だにしてなかったことに全力投球していた、という感じだ。

3本とも、まず編曲をfinaleで一からやり、パートの分配、(ちゃんとしたレッスンが無理なので、其々の生徒の無理なくできる範囲をこの時点で考えて配分)、全員への連絡、指揮動画ならびに音源制作、送付(相変わらずメトロノーム、クリック一切使わない)、慣れないネットレッスン、動画を送り返してこない者への日々の恐喝(笑)、それから末恐ろしい、限りあるストレージとの戦い、または肩凝りとの戦いのiphoneのみでの編集、(macのパソコンが古すぎてもうYouTube にあげることさえ出来ない笑)という、エンドレスにもみえるストレスフルな挑戦。あー、2月に新しい中古のiPhone 買っててよかった神様。

いつの間になんでこうなってしまったのだろう??と考えると、それは、いっつもなにか作ってないと気のすまない性格と、何もないところから自分で種を撒き、いっぱい人を巻き込んで、好きなように好きなだけ創造に参加してもらう、という、まったくスパイラルプロジェクトと似た構造が浮かんでくる。

要するに、題材が音楽院のものであろうと何であろうと、私はこのやり方が好きで、気がつけばやっている、そして何より「即興」が三度の飯より好きで、次になにが出てくるか分からない音楽なら、なにが題材であろうと没頭できる、ということらしい。

尊敬する隣人でジャズトランペットでシンガーのメデリック•コリニョンがインタビューで「私は音楽院の廊下で歩いていようと音楽院にはいないのだ。」って言っていたが、私もすべからくそうありたいと思う。システムなんて、単なる仮初の姿なんだからね。

即興演奏を用いた動画制作で、(特に最後の即興アトリエのやつだが)面白かったのは、生徒たちの送ってくる即興動画を切り貼りする際、全部丁寧にまず聴いて、魅力的に聴こえる部分を切り取って音源と合わせていくのだけど、その時にiMovie 上で場所を適当に音源上に挿入すると、本人が演奏している箇所とは全く違う箇所なのにとても面白く鳴ったりする。で、そのままその箇所で挿入したりとか。

本当のことを言うと、なんとたいていの生徒の即興演奏では、本人の演奏していると思っているコード、または拍と、逆に挿入してある。逆に先生たちのは、本人たちの演奏そのままの箇所で入れてある。それが一番聴いていて良いと思うからである。何故こんなことが起こるのか??

それは多分、どこまで本人が意識的に即興演奏しているのか、また逆に本人の思っている「正しい」ことと実際に面白いことが「逆」になっている「無意識」の演奏になっているのか?ということである。

あんな底抜けに楽しい動画にこんなフィロゾフィーが?!って思うかも知れないけど、これほんと。小さい子供の「無意識」は本当に美しい。しかし学ぶにつれ、大人になるにつれ、無意識だけではなんだかダメになってくる。そこは「意識」を覚醒させる過程だ。本物の覚醒された意識は、新たな「無意識」を掘り出し、またそれを覚醒させていく。

無意識とは氷山の下の部分であり、誰でもその気にさえなれば幾らでも覚醒させることが出来る。

思うに一人一人は、もし自分が成長したいのなら、私が動画で聴き込み考えあぐねてわざわざ逆に挿入したりしている作業を、そのうち自分自身の中でやらないといけないのだ。

若かったころ母が、「子供の感性は素晴らしいが、そのままではいられない。偉大なクレーのような画家は、論理、技術を細かく学んで昇華させてスパイラルのように一段一段回って昇り、子供の無垢な感性より更にもっと自由な次元に進むんだよ」という様な事を言っていたのが、とても印象に残っている。多分スパイラル、という言葉を使っていた様に記憶している。

マイルスのインタビューで、とても面白い箇所がある。

マイルスがまだ15歳の頃、あるコンサートに連夜出演した際、共演のドラマーに言われたそうだ。

「リトル・マイルス、どうしてお前は昨夜やった音をまたやらないんだ?」

マイルスはこう答えた。

「何の音のことだ?俺は何をやっていたのか分からないんだ。」

するとドラマーが言った。

「何を演奏しているのか分からないんだったら、何もやっていないということだ」と。

それでマイルスはショックを受け、ガムシャラに色々な本を手に入れ理論を勉強した。

さすがマイルス、たった15歳で聞いたこの一言で、全て悟ったのだ。

こういう大切な一言を覚えているのか、忘れてしまうのか。覚えていても「そうか私ってダメなんだ」と自分を閉じてしまうのか、受け入れて猛進するのか。マイルスと凡人との差はこの辺である。

もちろんここで言っている「意識」とは予定通り準備された演奏、または理詰めな論理的な演奏を指すのではなく、自分のやっていることを分かった上でそれ以上の無意識の中で自由に出来る、という意味である。

「覚醒された意識の中での上質な無意識」とでも言おうか。あー大変に難しい。

私たち演奏家は、しょっちゅうこの意識と無意識の狭間に足を取られて失敗するのである。

それにしても、そうやって一人一人の文字通り一字一句とじっくり向き合うことになった。それぞれの個人の魅力を最大限に理解し、最高に輝かせたかった。

こうやって全部貼ってみると、無意識であれ何であれ、一人一人の即興は何とも全然違っていて、人柄全開、面白さ全開である。

本当に生徒たちには面白いことに気づかせてもらった。さっそくいっぱい練習したいと思う!

うまくいけば、8月上旬にデンマークであるフェスでまたブルガリアの巨人アコーディオン奏者、ペーター•ラルチェフと共演できる!(コロナで軒並み夏の予定は全部キャンセルになっているが、どうやら企画者によると今のところこれのみ決行する予定らしい!)

あとはスパイラルプロジェクトがついにパリを出る!秋に予定していた2本の日本公演は残念ながら中止になったけど、南仏タルブで12月。楽しみだなぁーー!!