SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

生き残りをかけた音〜ブルガリア旅行

2021-07-23 01:31:00 | Essay-コラム

「らるちぇにっつぁトリオ」で初フルコンサートをした大熱狂以来、2年半ぶりにやっと第三の故郷、ブルガリアに帰って来ました。


フランスが未だ室内全員マスクを割にちゃんと守っているので、(意外や意外?!)ブルガリアの状況にびっくり!

ハグも握手も大健在!

誰もマスクしてない中で一人だけ装着するわけにもいかず、、、最初は躊躇するものの、えーっと、マスクって何だったっけ?

ジェルって何に使うんだっけ?

たった数日で多数派に巻かれてこうなってしまう。ブルガリアだって人口比にすればフランス同等の感染率だから、つくづく「ワクチン打ってきててよかったねえー怖い怖い」と相方と胸を撫で下ろす。



つい数週間前に行った南ドイツで、ほぼ一人も感染者が出ていないという地域でも、全員バッハみたいな防毒系マスクをしてて、ちょっとフランス風に顎マスクしてると速攻注意が入るから、国民性の違いとは恐ろしい程に存在すると思う。


フランスでは接種しないものはレストランにも行けないとマクロンが宣言した途端、1分間に2万人の接種予約があるそうだ。極端に命令で義務付けし、反対するものはどうぞいくらでもデモして下さい、という感じ。日本では逆にとにかく要請、要請らしく、相互監視にものを言わせる。


私は毎日のようにネットで白熱する日本語のニュースを見るから、フランスで「え、オリンピック?あー、今年の夏だったっけ?へー東京なんだ!」そして親切にも会話を繋ごうと「で、日本の感染状況ってどうなの?ほら、こっちのニュースじゃ全然言わないからさぁ」なんていうパリジャンたちに、いささかの温度差を感じる。


100人ぐらいのオリンピック反対デモが日本で幾つか出て、それでも日本としては前代未聞だと思うけど、11万人の反ワクチンデモでさえフランスでは「一部の人たちがデモをした」と言ってるから、数十万単位で開会式阻止ぐらいでないと、残念ながらおそらくこちらには声は届かないと思う。(アメリカならもうちょっとお節介的に日本に興味があるのかも知れないけど。悲しいかな、でもちゃんと世界に伝わるように国際的な視点が持てないものか。


ここブルガリアでも、友人らとの間で当たり前だけどオリンピックの「オ」の字が語られる可能性さえない。要するに人間とは、自分に降りかかる災難以外にはとことん無関心であるらしい。




でもまあ確かにこの景色で朝のコーヒーを飲んでいると、オリンピックって何だったっけ?となるのも致し方ない。


サマーアカデミーの行われる目的地プレヴェンに着いたその夜は、いつものレストランに直行。そこでは結婚式が行われており、私の愛する雇われ民族音楽隊がいるでがないか!!


おーっクラリネット奏者が白熱した演奏をテーブルの客の耳許で繰り広げておる!

コロナなんてもうぜーんぜんお構いなしじゃん!


しかしテーブルのパトロンらしき人物はふんぞり返ってびくともしない。


そこでクラリネット奏者はテンポをどんどん速くする、ズルナ(オーボエに似た民族楽器)の音色を出す、転調する、などあの手この手を繰り出した。


するとパトロンはやっと満足した様子を見せ、クラリネットのキーの間にサツを挟んでいるではないか!


それでピンと分かったのだけど、あーそうか、ブルガリア音楽の異常に速いテンポや目まぐるしい転調は、生き残りの手段から来たのだと。


彼らにとって、11音には明日の生活が掛かっているんだ。そういえば世紀の即興の大家キース・ジャレットが言っていたなあ、「大袈裟じゃなく、私は11音に生き残りをかけているんだ」と。


音楽とは夢や希望とかいう甘っちょろい言葉のためにやるんじゃない。生き残りをかけた音だけがこうやって歴史に刻まれていくんだ。そのことをここブルガリアの地の果てにある地方都市のレストランのミュージシャン達が教えてくれる。 


中日には近くの湖まで行って、ピクニック。焚き火で宴も最高潮のところで生徒さんたちのコンサート。



アカデミーに来ていた才能あふれる少年。

一人一人の生徒が曲を弾いたり、それぞれが作曲したり即興したりが披露されたのだけれど、なんと殆どの生徒が英語で歌い、ほぼ全曲アメリカナイズされたスタイルだった。


これは単に授業を担当した先生個人のスタイルの影響でもあるのだろうが、翌日、他の先生たちやアカデミースタッフの間で議論の的となった。


日本でも殆どの和製ポップは日本語で歌っていようとアメリカナイズだと思うけど、気もつかない程みんなルーツに対して無関心すぎる。


ブルガリアでは貧困に伴う人工流出が大きな問題となり、独特の文化もそれに伴って消え行きつつある。若い人たちは量産されたアメリカ風音楽を聴き、英語を喋ることを得意とし、国を出る。



このアカデミーのパトロンの一人で、私たちの生涯の大切な友人であり、自らも音楽グループを率いて歌うコツェさんは言った。


「私は時代に逆行して、常にブルガリア語で歌っていくんだ」



グローバリゼーションの時代にどこにアイデンティティを見出すのか。例えば人種の坩堝パリでは、外国人二世の音楽家たちが根無草となり、自分の両親のルーツに固執した音楽をやりたがる人たちもいれば、全く両親のカルチャーを受け継がずに生きていく人たちもいる。娘の親友のタミール人の娘はタミール音楽だけを聴き、大方の子供達はマクドナルドを何の疑問もなく食べるように、消費型音楽を聴いて育つ。


私の娘は日本とブルガリアのルーツを持つが、フランスで生まれたフランス人。彼女は一体どういう音楽を奏でていくだろう?



もちろんその答えはないが、どこまで遠くに行こうと、私個人としては、自分が生まれた場所こそがアイデンティティーの源で、いま住んでいる場所、自分が選び聴いてきた音を通して表現しているのではないかと思う。


大地に根っこを張って、自分の感覚を全開にして、コチェさんのように正直に自分の感覚を信じることだけが、現代にしかあり得ない新たな多様性を産むのだと思う。



そして私はコチェさんと一緒に、朝からブルガリアの民族ダンス「ホロ」を踊って汗をかく。大好きな人と一緒に大好きなことをする一番贅沢な時間を、久しぶりに堪能する。


アカデミー最終夜はコツェさんのグループでアドリブパートを担当、最高に盛り上がる。しかし即興とは、人類の発明した偉大なインターナショナル・コミュニケーション言語だ。世界中の誰ともいつだって会話出来るんだもの!
さて、明日はバルカン山中にある義父母のお家に向かいます。


(〜ヒマなので多分続く。)


PS 「ザ・フルート」8月号(810日発売)に、「らるちぇにっつぁトリオ」10月日本ツアーに関するミエ・ウルクズノフのインタビューが載ります!

初来日のアコーディオンの巨匠ペーター・ラルチェフさんの魅力や、私のブルガリア音楽との出会いなど、相方ギタリストのアタナス・ウルクズノフと、日本在住のガドゥルカ(ブルガリアのヴァイオリン)奏者ヨルダン・マルコフさんを交えてお話しました。

どうぞお楽しみに!!


ついに夏が来た!

2021-07-07 09:22:00 | Essay-コラム

ついに夏が来た。小学校は今日最終日で、大喧騒から一転、突然ガランとだれもいなくなった小学校で、今年度最後の教室の後片付けをしながら、窓から忍び寄る静かな夏の気配に、なんだか感慨深い気持ちになった。


なかなか全てが前に進まず、全てが不透明ななか、毎日毎日が、何かのハードルを超える連続だったような長い長いこの季節の終わり。やっと南ドイツでのコンサートが開催されることが決まった。


前回コンサートをしたのがコペンハーゲンでらるちぇにっつぁトリオ、前の年の8月だったから、今回のドイツでのウルクズノフ・デュオのコンサートは、私にとってほぼ1年ぶりの演奏ということになる。とてもとても待ち遠しく、あれ程望んでいたことだと言うのに、12曲目は重心がよく分からずふわふわしていて、なかなかいつもの調子に戻れなかった。


結果的にはこの一年の練習の成果をずしりと感じたこともあったし、この状況ではそれなりに納得せざるを得ない演奏だったと思う。しかし、あの最初の数曲の無重力感はなんだったんだろう?!これって、1年休養してウインブルドンに戻ってきたテニス界の伝説、フェデラーがあれだけの経験と才能を持ちながらも、マッチの最初で感覚が掴みきれないのと、恐れ多いがちょっと似ているのかも知れない。


あの百戦錬磨の世紀のレジェンドでさえ、なんだから、と思うと、あれだけコンサートのない間精進してきたつもりだったのに、この無感覚に足を掴まれたなんとも歯痒い感じを、まあ許せる気持ちになれる。フェデラーによると、やはりどんどんコンスタントに試合をやることでしか、調子に乗ってくることは出来ないのだそうだ。アタックの感覚、コートの空間の感覚、エネルギーの配分、、、それはイメージトレーニングだけでなく「実際に」それも「続けて」やることでしか掴めない、彼でさえ。


フェデラーはこのようにいつも謙虚で、テニスをただ愛しているから故の純粋な限界への挑戦が、一音楽家にもインスピレーションや希望を与える偉大なスポーツ選手だ。



でもそういう風に思うのは受け取る側の感性の問題であって、「人に勇気と感動を与える」とスポーツ選手自身が言ったり、「スポーツの力」とか政治家が言うのを、私は本末転倒だと思う。


大体音楽家だって、何かを誰かに与えたい、まさか夢や希望を与えたいとか思って演奏した時点でアウトだと思う。


音楽を愛しのめり込んで集中していたら、誰かに何かを与えようなんていう、自分が音楽をコントロールしているような思い上がった気持ちにはならないと思う。そういう気持ちがちょっとでもあったなら、音楽ではそれは必ず聴いている方に伝わると思う。


音楽はスポーツのような競争じゃないので、スポーツとは単純に比べられないし、そういう発言をしているスポーツ選手だって、実際の競技中には集中していて本当はそんなこと考えてもいないだろう。そうじゃなければ素晴らしい世界的記録が生まれるはずもない。でも自分のやっていることで人が感動するのを盾にとって、都合の良いものを手放したくないばかりに、どうせ世界のシステムは変えられないから、と尤もらしく訴えた途端に、合わせ鏡のように「夢や希望」という言葉をスローガンに人を支配し、権力や金を得ようという人間の格好の餌食になって利用され、ますますシステムを肥え太らせる。コロナが出てきた今日、昔美徳だった何も考えず、目をつぶり耳を閉ざしてただ頑張るという考え方は、多くの人が苦しみながらも、コロナのためにやらざるを得ない意識の進化に逆行していると思う。


こういう職業だから、こういうシステムにいるから、どこの人種だから、こういう習慣伝統だから、こういうイデオロギーだから、こういう宗教だからなどという思考停止の言い訳を失くす時代に突入したのかも知れない。それを変えることは痛みを伴うけれど、今、一人一人が意識を変えることでしか世界は変わらない。私なんかが変えられない、は謙遜じゃなく、私の意識がこの世界を作っているという視点に立てば、世界に対して失礼だし、無責任だ。


私は自分の全ての感覚に正直でありたいと思う。

世界に対し目を開いて、耳を開きたい。


自分の感覚だけが世界の入り口だから。