SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

Keith Jarrett "Inner Views"キース・ジャレット「インナー・ヴューズ」

2018-01-22 10:21:00 | Essay-コラム

January 22, 2018


このところ話題が本続きなので、やはり一番これまでに影響を受けた本のことを記しておかなければ、と思い、またキース・ジャレットの「インナー・ヴューズ」を手に取りました。


読む度に一行一行が臓腑に染み入り、こんなに共感できる、崖っぷちに立たされたように意識が覚醒され、感覚が研ぎすまされる、こんな本はない。

マイルスの自伝とならんで、私の人生の灯台として導いてくれる本。


キース・ジャレットはクラシックとジャズからそのキャリアを始めているが、その即興演奏はすべての枠を超える。

言うまでもなく、今世紀最大の即興家。

でも、本当の彼の内面はあまり広くは知られてないのでは?という気がします。


でも、知られてなくて幸いなのかもしれない。だって、こんなにも確信をもって、彼の感覚を通した真実が書かれた本がベストセラーにでもなったら、世界の音楽界は大混乱してしまう!!だって、ほとんど今日聴ける「音楽」は、たいてい偽物だ、ということが暴かれてしまうのだから(彼の言葉を借りるなら、それは「生産物」になってしまった。)

そして、現在まかり通っている西洋随一主義の音楽教育、完璧な品を生産させるコンクール体質、そして権威者やメディアが完璧な品と名打ったスターをでっちあげ、金儲けするシステムも完全にぶち壊されてしまうだろう。


本当に偉大な人物というのは、何も恐れない。

こう言ったら誰かにどう言われるか?ということは一切考えない。

彼の言葉を借りれば、「芸術家は他人が持っている内側外側という視点に責任を持つ必要はまったくない。自分自身の視点にだけ従えばいいんだ。」今日みんながインターネットに溢れる意見に一喜一憂し、最悪リンチになっているのとはまったく逆だ。


話は逸れるけど、いま即興のアトリエで、それぞれの生徒が自分が普段聴いている音楽を持ち寄り、それをみんなで聴いて話し合う、ということをしている。どうしてそういうことをしようと思ったかというと、「さあ、みんな自分のカラから出て一緒に音楽をしましょう。楽譜を演奏する時と違って、自分の責任で音楽を創り演奏してください」と言ったって、結局みんな「自分自身」と「音楽」との関連が何なのか、そこのところもモヤがかかったようにぼんやりしているようで、(キース・ジャレットは「自分はサウンドの中にいる」と確信的に言っている。サウンドの中に自分がいれば、確かにそんなの考える必要もないよね)楽器はある程度操れても、「好き嫌い」という単純な意見でさえよく分からない、クラシックの先生について小さい時からずっと言われるがままにやって来ただけで、どうやら誰も「彼自身」には興味を持たなかった、そして彼ら自体が自分自身に興味を持つ事を放棄しているようなのだ。もちろんそんな状況の中で「さあ、今自分の感じたことをやりなさい」と言っても「はあ?」という感じで堂々巡りになる。それでは、まずはあなた達一人一人のことが知りたい、即興をやるには「あなた自身が」必要なのだ、と始めたことなのだけれど、そんなこと、どんな授業でもやったことがないから、最初生徒達は面食らっているようだったが、だんだんと自分のカラを破り、一週目、2週目と、次々にみんながCDや携帯を持ちよってくる。


すると面白いことがあった。3人の生徒が持って来た音楽が4つの言語(スペイン語、オランダ語、イタリア語、英語)のラップやポップのような音楽だったのだけれど、繰り返すベースラインと数個の和音、メロディラインはほとんど全曲同じで、エレクトロの合成音、演奏されたものはひとつもなく、コンピュータで合成された音でオリジナリティがあるものだってもちろんあるが、この場合は全編通してコピーアンドペイストだったということだ。


まさに「生産物」としての音楽。歌っている言語がそれぞれ違うのに、音楽は地域性を全く失ってしまっている!そして彼らは、そういうのを日々聴きながら、音楽院に来るとクラシックの楽譜を何の疑問もなく演奏しているわけである。あまりに乖離している。自分でフタを開けた事ではあるが、この真実はかなり重い。。。


もちろん私は批判するためにこれをやっているわけじゃない。そこに溢れているものを普通に聴いていても当然かもしれない。巷にあふれるファストフードを誰もが食べるように。でも、音楽を演奏したいのなら、自分が何を聴いているのか、まずは意識的に知って欲しい。それで、なにに気づくのか、感じることや、考えることは?それは本当に自分で選んでいる?そこからしか、物事は出発しない。何を聴きたいのか、どんな音が出したいのか、なにが演奏したいのか??


しかしですよ、この「インナー・ヴューズ」を読んだら、あまりの衝撃に、今この瞬間から適当に音を出す、無感覚な演奏する、感覚を閉ざして生産物たる音楽を聴く、ということができなくなるはず!私はまだあきらめてはいない。


自分の心地良さを守るためや、きれいな音を出したいため、または指を動かして機械的に弾くなどという一次元目、その快適なカラの中にいる演奏の段階では、自分は自分の出す音を聴いてさえもいない。


「自分の好きなものを弾きたい」などといった「次のおかずはあれを食べよう」的な一次元の自分のエゴの領域ではなく、「その空間に弾かなければならないもの、演奏されるべき何か」が聴こえてくるとき、それが芸術の第一歩なのだという。


次。その弾かなければならない音を欲することを、彼は「獰猛な欲望」と呼ぶ。

ただ、普通に欲しただけでは、その音は手に入らない。その音を手に入れるためには、獰猛なまでの欲望が必要だ。

エゴとは無関係の、野性のお母さんライオンが小さい赤ちゃんライオンを守るための命をかけた「獰猛さ」がないとだめなのだと言う。


ソロの即興コンサートでは、彼は自分の好きな弾きたい事を弾いているのではことは、もうお分かりいただけたと思う。自分をさらけ出し、リスクを背負う為だけに弾いているのだ。


そこでキースは「生き残るための戦い」をしているのだ。


彼には、スポンタニウスになる以外に生き延びる方法はない。


それがウソでも大げさでもなんでもないことを、私は忘れもしない2006年に、パリでのキースの有名な全ソロ即興コンサートを聴きに行ったときに知った。


この話は生徒や友人には何度もしているので、耳タコと思われているかもしれない。でも、本当にあのコンサートは、なんというか、私に強烈に音楽の真理を突きつけた。そのことは昔エッセーに書いたので、こちらで詳細を読んでほしい。


この本は一文一文がとても繊細で美しく、大事なので、私にはとても抜粋して紹介することは出来そうにない!もう全文が名文だ。あとがきによると、キース自身がインタビューを何年もかかって削ったり、付け足したりと執念の校正をしてきたというのだから、全力で彼が伝えたい本なのだということが分かる。


この人は音楽を、彼の言葉を借りるなら「なすがままにさせる」「起こるがままにさせる」ことができる、希有な天才即興家であるが、(大半の音楽家はコントロールしようと思ってしまう、または何かを「起こさなければ」と思ってしまうだろう)書く、(作曲も)という行為に対してはものすごくやり直す人のようだ。「紙に、書いては消す、消しては書く。。。しかしそれしか出来ない」彼曰く、コンピューターには絶対できない作曲法。キースは人間であることを隠さない。


ああ、歯がゆいなあ。。。抜粋し始めるとキリがない程素敵な本だから。。。もうやめときます。だから、是非にも!!これ、読んでください!!!そして準備された生産物ではない本来の音楽がもっと地球に戻ってくるよう、「今日も生き延びられたことを感謝するために」(by キース)音楽ができるよう、ひとりひとりがリスクを負って!自分のカラなんか捨てて!怖さも捨てて!!音楽をやりましょう。


キースのソロコンサートを聴いて、彼に感想を言いに来た人が「あなたの演奏はよかったのだが、椅子の座り心地が悪かった」と。キースの答え「では、あなたは楽していて何かを学んだ事がありますか?」もう、最高ですー!(笑)あ、また抜粋してしまった。


次回は彼一人でいろんな楽器を即興で多重録音したアルバム、「スピリット」の紹介をしたいと思います。


温故知新。

2018-01-02 10:00:00 | Essay-コラム

January 2, 2018

A Happy New Year 2018!

Bonne année 2018!

2018年あけましておめでとうございます!


2017年は本当にすごい年になりました。多分これまでで一番実り多い年でした。一人で成し遂げたこともあり、しかも色んな人とのエネルギーが混ざり合いました。今年は昨年撒き終えた種を、どのように育てていくのか、という年になるのではないかと思っています。


前回お話したデレク・ベイリーの本、「即興演奏の彼方へ」ヒマなので読み終えることができました。

2週間の休暇が来る度(フランスでは2ヶ月毎と本当に度々やってくるのだけど)、ツアーに出るヴァカンス以外は、子どもがいるので「万事休す」になって、音楽的に何かをやっている真っ最中でも中断を余儀なくされてしまう。そしてぼんやり、うすら寒い、いまにも暗い空から雨が落ちてきそうな新年の公園で時間を過ごす。すると季節の巡りが感じられて体中の感覚が取り戻される。

この本を読んでいる間、自分だったらこうは思わないな!とかへー、こんな考え方でやってる人もいるのか、とか、すごい良いね、そのアイデア。ほんとそうだよね、図星!!などなど、エキサイトしまくった!!ということは、やっぱり即興って、私にとってよほど核心ということなのか。そして、デレクさんはその即興を愛してやまなかったのだ。



先日、パリ音時代の即興の授業中(1998年だったと思う)のある瞬間から、自分の方向性が決まった、というようなことを書いた。

その頃即興のクラスにブルガリアから来た「カヴァル」というブルガリア民族フルートを吹く子がいた。この子がある日(映像に即興を付けていた時だったと思う)みんながグループ即興を探りながら始めたのを横目に、考えたのち、一音だけで「パッパッパッ」とただ単にリズムを刻んだ。それだけのことなんだけど、その瞬間から全ての未来がばあーっと開けているかのように。。。透明になったのだ。それは、クラシックで習っているような、楽譜上やメトロノーム上の数えている「拍子」ではなくて、それ自体が脈を打っているというか、命が宿っている、というか、そんな単純なことなのに、楽譜にしたら「単純すぎる」このことが、ものすごい意味を持っている。カヴァルのたった一音が私を捉えた。やっと巡り会えた、虚しく工業的なマテリアルとしてリズムを扱うのじゃない、「どこかに繋がっている」とでもいう感じ!(あとで知ったことだけど、この宇宙と一体化したリズム感のことを、インド音楽では「ラヤ」という。クラシック音楽にはこの概念に当たる言葉がない)その細い糸を頼りに、インド音楽のクラスの戸を叩いた、ムタル先生と出会った、それからのことは例のインタビューや以前のエッセーでも少し話している通りである。


どうしてブルガリア、インド、フラメンコなどの伝統民族音楽に魅力を感じ学んで来たのか、というと、(これは「既成の即興言語」という意味でデレクさんによれば「イディオムインプロヴィゼーションに入るらしいんだけど)、エキゾチックな魅力に惹かれたから、というのでは全くない。そういう観光的な、またはよくある「異質な素材を探して手に入れたい」とかいう植民地支配みたいな上から目線は大嫌い。では何かというと、それは田中泯さんの言うところの「遺伝子」のつながりというか、たぶん人の集合体の全体の記憶みたいなものを身につけ、人類の血の中にあるものを確認したいからじゃないか?と思う。温故知新。私は学ぶ事が怖くない。例えばそのカヴァルの子は学ぶ事で即興のインスピレーションが壊されることを恐れていたけど。でも、私にとっては逆で、学べば学ぶほど祖先と繋がっていることが確認できるんだから、こんなに心温まることはない。この辺で、それまでやっていた「非イディオム・インプロヴィゼーション」(要するにフリー)が、どうして窮屈に思えたのか説明できる。だって、それは「自分の発明するもの」の範疇でしかできないから。フリーでは即興の素晴らしさに気づかせてもらったのだけど、同時に、私個人の「自分」というものは、実はそんなに豊かではないことに、すぐに気づいた。人間の祖先から代々つながってきたなにか、、、遺伝子レベルに刻まれてきた音楽。。そういうものを乾きを癒すごとく求めたのだと思う。そこに繋がった上で、コルトレーンのようにいつかはスタイルを解放させフリーに行き着く、そのほうが私には方向が合っているように思う。だから「イディオム・インプロヴィゼーション」はイディオムに奉仕するもの、というデレクさんの考えは私には当てはまらないと思う。そういう風に考えている人が多数派なのは分かるけど(例えば私の師匠ムタルも、絶対的に伝統北インド音楽的でないものは容認していない、イコール、イディオムに奉仕していると言える)私の場合は、もう北インド音楽が大大好きで、その精神や哲学が私の中核を作っていて、どんな即興をしても現れて来る言語だとしても、北インド音楽には奉仕できない。だってだいたいそんなの無理だし。もう壮大すぎるよ、北インド音楽!



で、もっとイディオムに奉仕しなくても寛容に赦してくれそうな音楽、それが私にとっては間口の広い「ジャズ」だった。だからそれから10年間はジャズを徹底的に学んだ。(前述のムタル先生は逆に、ジャズを愛していたが出来なかったからインドに行ったのだそうだ。人に歴史あり!)普通徹底的に学ぶことはイディオムに奉仕することなんだろうから、私は奉仕したくないが為に学んだ、というのはおかしな話だけど、どっちみち、私は日本人で、パリにいるのだ。本格的アメリカーンなジャズが出来るわけがない。だから別に奉仕しなくてもいいのであーる。気楽。しかも、楽器が、チャーリーパーカーとかに似る可能性のない、フルート。楽勝!ウソウソ。うそです。クラシックやってきてからジャズをやるのは、めちゃくちゃ難しいです。どうしてなのかはデレクさんの本でよく説明されております。まさに、どんなに、どんなに経験を積んで吹けるようになったとしても、いつまたっても第二外国語。(私のフランス語と似てる。ちゃんとしゃべれますよ、生活してますよ。でもフランス人のようには喋れない)でもそんなことより何より、中学生のときにセロニアスモンクのCDを買ってからというもの、私はジャズが好きだった!!いつかどうしても自分の手で出来るようになりたいほど、好きで好きでたまらなかった。チャーリー・パーカーがビバップを始めた時の即興のエネルギーや、マイルス・デイヴィズがそれぞれの時代でジャズを変えて新しい道を与えた時のエネルギー、コルトレーンが調性とモードを最大限に探求してフリーに爆発するまで持って行ったあのエネルギーが、ローランド・カークの、全ての黒人音楽を根こそぎインプロに変えている、そのエネルギーが!その変わって行く時のエネルギーが好きなんだから、今のミュージシャンが昔のジャズを美術館の展示物みたいに演奏しているのは私には意味がない。だからってジャズが死んだ、というのは簡単だ。勝手に誰かによってカテゴリー化されたジャズが死んだだけで、その精神、その言語を最大限に知ることは、絶対にこれからだって音楽を変えて行く原動力になるはずだと思う。(お、これって人の死に似てる!)現在だったら、自分を幾人のスタイルにでも分裂させられるチック・コリアや、身を挺して即興しているキース・ジャレットが大好きだ。


パリにいる日本人である、ということだけが現在の私のアイデンティティーだ。私は作曲されたものだからとか、即興されたものだからとか、楽譜を解釈する行為だからとか、なんの言語が音楽に使われているかとか気にしない。ただ音楽で、表現したい。私は排除したくない。この小さな私は、世界を構成しているすべてのものと繋がっていたい。