新しいフルートを借りて、前のフルートを売り、まだ正式に買ってないにも関わらず、もう何回もコンサートをしたのだけれど、この前9月の初頭にボルドーで完全即興をした時、やっとこの新しいフルートを「扱う」のでなく、自分の言葉として語れる自信ができたのだと思う。
段階としては、今年1月に初めてオーケストラと共演で演奏した時の、この新しい楽器との初体験の無敵な熱狂、そして初めて相方アタナスのギターとギリシャでデュオ演奏した時に、これまでのフルートの吹き方で吹いてしまってコントロールを完全に失った失望、そしてその経験を踏まえ6月にパリでまたデュオ演奏をした時の、成功と失敗の入り混じった複雑な感じ。(思えば全部2024年から始まった)
そのコンサートは地元だったので、多くの知人友人が聞きに来てくれた訳だが、殆どの人はフルートが変わっていてもっと良くなっていたとか、何か違う、とかそういう感想は特に持たないようで、「へえ、楽器変えたんだ。分かんないけどいつものように素晴らしかったよ!」との感想を頂いた。
「これってめちゃくちゃ高い買い物なのにさ、楽器を買い替えるのってって一体意味があるのか知らんね。」と冗談混じりに親しい友人Fに話すと、スピリチュアルな彼はすぐに
「けれどね、音ってエネルギーだろう。キミが感じている違いは、聴いている人たちは実はエネルギーとして受け取っているんだ。実際に耳に「聴こえて」いないとしてもだ。それはこれまでとは違うもっと上がったエネルギーとして、絶対に聴衆は身体で吸収しているんだよ。だからそれによって世界は変わるんだ。」
こんなことを言える友人を持っているのは、本当に幸せだとしか言いようがない。
その彼の言うことを信じてやってきて、今回やっと、冒頭に書いたように、ボルドーでこのフルートがついに体に馴染み、何も考えずに迷いなく、普通に吹ける次元に達することが出来たと思う。
やっと自分自身が、このフルートに見合うところまで来られて、ついにスタートラインに立てたのだ。
このコンサートが「即興」という、自分の内部から出てくるものをそのまま音にする、という行為だったからこそ、楽器と一体になれる絶好の機会だったのかも知れないが、その時はっきりと、自分の感じていることがぴったりと聴いている人にそのまんま直に、どのような障壁もなく伝わっている___以前のように多大な努力をしているという感覚抜きで__ということがじわじわと感じられて、この日の経験はこれまでの人生で一度も感じたことのない、極上の経験となった。
まるで自分が透明になったようで、「てらいの無い」とはどういうことか、この日演奏を分かち合った老人たち全員が教えてくれたのだと思う。
そして「衒いのない演奏」という次元は、この楽器抜きでは不可能だった。
この日、ボルドーでの「思い出交響曲」第二弾プロジェクトとして老人ホームの居住者たちの絵に対してした即興演奏は全部録画されていて、アーチストのシャルリー・オブリーが編集してドキュメンタリーとしてフランスでテレビ放映(?!)されることになるらしい。
私としては、そんなこと事前に知らされていたらきっと意識してしまってナチュラルな演奏は出来ていないと思うので、後で知らされて、びっくりはしたけれど、本当によい記録動画が出来て来るのではないかと思う。
この即興は、どのように評価されようが、今の私そのものだからだ。
そしてさらにすごいことには、相方アタナスの楽器を作っているギター製作者のドイツのアンドレアス・キルシュナーから電話があり、「人生で最高の楽器が出来た、ぜひ弾いてほしいからパリに持っていく」という電話があり、待ちに待ったそのギターをアタナスが弾いた瞬間。
「なんと素晴らしい!私の新しいフルートとおんなじ音ですがな!!」
もうびっくりである。音のコンセプトが私の新しいフルートと似すぎている。
こういうのはもう、偶然ではないですね。
きっとウルクズノフ・デュオにも新境地が訪れる!
そのアタナスは今、そのギターを持って、初共演となるブルガリアの大カヴァル奏者、テオドシ・スパソフとのコンサートのためにスイスに出掛けています。
アタナスが初めてフルートとギターのために書いた「ソナチネ」は、そのテオドシ・スパソフに捧げられているし、その昔私がこの曲をコンサートで演奏したときに、作曲者のアタナスがたまたま来ていて出会った、(しかもそのコンサートのあった教会の病院で私たちの娘がその後産まれた) という曰く付き。
そのテオドシ・スパソフに今夜、アタナスがスイスでついに対面を果たしました。明日スイスでのコンサートツアー初日。
人生とは小説のように奇なり。私自身も続きが楽しみでなりません。