やっと学年末のコンサートやら試験やら録音やらが一息着いた今日この頃。毎朝の練習時間に、大好きな曲「My song / Keith Jarrett」に挑戦中である。
キース・ジャレットの表現を改めて聴いていると、全てはディティールに宿っている。しかも、そのディティールにこもった彼のタッチ、フレージング、音、ハーモニゼーション、リズム、タイム感覚、即興のしかた、どれひとつをとっても全て非常に「個人的である」っていうこと。
何一つとして皆んながそうやっているから、と無意識に巻き込まれているというところがない。これが彼のいうところの「覚醒」なんだろうか。
最近のフルートの国際コンクールなんか聴いていると、今流行の最大限の音量を出そうとしたり、大振りな表現をしようとするあまり、細やかな音楽で一番旨味があるところを無視して吹いているんじゃないのかと。
細かなアーティキュレーションや、リズム感覚、微妙な音色や音程の変化とか。
大仰に人の目を惹こうとすることは、個性とは違う。
だから皆んなよく似ているし、こんなのどうやって評価したら良いんだろう、誰だって上手に吹いているし、誰が一位になろうともうどうでも良いじゃん、って思う。
こないだ、ジュネーヴ国際コンクールのチェアマンを務めたばかりの親愛なる同級生、シルヴィア・カレッドゥとご飯食べた時も、彼女も全く同じ意見で、最近は皆んな楽器のレベルこそ上がっているけれど、なんのパーソナリティーもない、と嘆いていた。
情報過剰なくせに一方向に流れやすい世の中で(多様性とか叫んでる割にいっつも同じ大統領候補しか出てこないじゃん笑。他にいないのかよ、って感じ)、それでもパーソナリティーという根っこに繋がるには、キース・ジャレット的に覚醒する勇気が必要なのではないか。
最近親しいモロッコ人家庭によくお茶に招待していただくのだが、現代の子供が何故混乱して集中力を失っているのか、という話題になった。
それはきっと、SNSを始めとするインターネットに入り浸り、もっとこうしなきゃ、こうすべきなのに自分はこうじゃないからダメだ、という他人との比較に時間を費やすためだろう。
その時間こそ、本来は自分と向き合いパーソナリティーを培うべき時なのに。
長年私は教えて来て、近年の子供の集中力とやる気の異常なまでの低下に愕然としている。この重い枷を乗り越えて、なんとかなんとか、子供たちに音楽の喜びを取り戻してもらうよう奮闘しているのだけれど。
自己への深い探求のないところには本当の喜びなんてない。
「根が張っている」ということ、モロッコ人のお父さんによると、それこそがパーソナリティーの基本であり、自分と向き合うべきまだ根の張ってないない時期に、今は両親が忙しいからという理由でインターネットを解禁してしまうために、根無草になってしまうのではないかと。
さすが大自然の中で生きてきたモロッコお父さん。パリに奥さんと3人の子供達と住む今も、集合住宅の共同の庭を一人で切り盛りし、独自のミミズコンポストで野菜や花を育て、小さなモロッコオアシスを19区のど真ん中に実現しているだけある。
彼こそ真の「エコロジスト」だ。
知人に近日突然「緑の党」に入党してせっせと選挙活動をして、SNSで「署名せよ投票せよ」などと緑のバッジを付けた自撮り写真を送り付けうるさく言ってくる人がいるけど、こういう付け焼き刃は本物のエコロジストとは程遠いわ。
モロッコ家族の話に戻るけど、彼らは食べるものは全て手作り。遊びに行ったらテーブルから溢れかえるほど色んな種類の自家製アラブ菓子でもてなしてくれる。
これが、もうめちゃ美味しい。
3人の子供たちは全員私の小学校アトリエでの生徒なのだけど、一曲一人に教えたら次の子も、次の子も、という具合に次の週には全員が覚えて来てくれる。
自然に、お姉ちゃんが妹に教え、妹が弟に教えるのだ。
どんなに練習して来いと言っても「でも私時間がないの」と突っぱねる、分単位で習い事をハシゴさせられる「忙しい家庭」の子供に対し、音楽的成長にとてつもない開きが出る。
どうやら親の時間の観念は子供に伝染するみたいである。
そして時間の観念って、もしかして一番大切な人生のディティールのひとつかも知れない。
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