「スパイラルメロディー即興プロジェクト」の小学校一年生向けバージョンが、今年もスタートした。
今年は19区の2小学校の10クラスに全8回出向いて準備し、年明け1月末に子どもたちと共演する形で、最終コンサートを迎える。
小学校に行く、それはこの世界の分断を肌でじかに感じる瞬間でもある。
過酷で厳格な教育現場では、色んな決まりごとがある。
こういう態度はダメで、こういう言い方はダメ、怒りを表明するのもダメ。特にフランスのように分断された社会では致し方ないやり方かも知れない。しかしそういう威圧的な方法に馴染めない子は、いつまで経っても反発を繰り返すので、不完全燃焼の自己が、どの教室でも燻っている。
加えて、フランスでは、大人と子どもの線引きが非常に強い。子供って、論理じゃなく感覚で理解するのに、なぜか論理で説き伏せようとする。大人が子供の感性に学ぶ姿勢がないと、子供も大人から学ばないのじゃないか、なんて思うのだけれど。
こうやって、色んな境界線が、学校でどんどん引かれていく。境界線がつくる新たな分断。
ところで。今日訪れたのは、とある学校にある「外国人向け」のクラスだった。
一番多様性のあるであろうこのクラスには、驚くことに境界線が全然引かれていなかった。
生徒の一人ひとりは、そのまんまで、何処の国から来ようと、(コロンビア、ヴェネズエラ、ウクライナ、バングラデシュ、中国、日本などなど!) 年齢の差があろうと、フランス語の能力がどの程度であろうと、引っ込み思案であろうと、活発であろうと、うるさかろうとおとなしかろうと、みんながニコニコして、とても幸せそうだった。
それぞれが、それぞれのように存在してる。
こんな当たり前のことが、どれだけ難しく、珍しく、嬉しいことか。
そして、また驚くべきことに、そんな環境では、なんと自然に、各自から音楽が流れ出して来ることか!
1人の日本人の6歳の女の子は、まだフランスに来たばかりであんまりフランス語はわからないと言うのに、このクラスにいるのが大好きだと、セッションが終わったあとに、いっぱい日本語でお話ししてくれた。
他の子の世話をするのが大好きな優しい中国人の女の子は、自分の住んでいた町の名前を紙に書いてそっと渡してくれた。
このクラスの担任の先生は、本当にナチュラルに、偉そうじゃなく、大らかにそれぞれの子供達と接していらっしゃって、何というか、生きて動いているものをそのまま受け入れている、とでもいうか、他の教師たちが必死で動くものの動きを止めて、仕分けて、もともと不揃いなものを何とか力ずくで揃えまとめようとしているのと、対照的に見える。
それで、最近ネットで見つけてピンと来たのが、生物学者の福岡伸一先生の言葉、「動的平衡」。
動くものを見極めるのは一番難しく、しかしそれこそが自然のバランスであると。
私も、自然に近づくにはまだまだ至らないけれど、この外国人クラスの先生のように教えたり演奏できたら良いなあ、と思う。
そういえば、去年のスパイラルセッションで、ある小学校教師からこのように言われた。
「即興している場面で、手を挙げてもらえますか?そうすると、ここからが即興って、分かるから。」
この人にもはっきり言ったけど、私が伝えようとしているのは、「即興演奏」という概念ではない。
しかし、何とか境界線を引きたいこの先生が間違ってる、って言っている訳じゃなくて、福岡伸一さんの言うところの「ピュシスとロゴス」という人間の持つ矛盾の表出なんだろう。
ピュシスはこの自然の生命の原始であるのに対し、ロゴスとは人間の発明した論理性。
ロゴスなしには人間は人間たるを得ず動物になってしまう、しかしピュシスを忘れれば自然の真理から遠ざかって、命の源泉と切り離されてしまう。
論理付けは須く後からくるものであって、どのような音にも、原初は境界線はないんだけどなあ。
こっからが書かれた音で、こっからが即興ですよー、これはジャズで、これは現代音楽ですよー、なーんて。
分けて考えるのでなく、その音をその時に自分がどう感じるか、その時にそれをどのような音にできるのか、それだけ。
世界は分けても分からない。音も、分けても分からない。
だから原始に戻って音楽しよう、っていうことを、音を通して、子供にも大人にも、全力で伝えられればなあ、と思っている。