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私の「こころ」は有限世界なのか?~その6

2006年12月02日 17時41分34秒 | 俺のそれ
前回アメリカの大学奨学金の話をちょっと書きました。私は留学経験など持っていないので、正確には判りかねますが、知っている(というか、ただの印象?)の範囲でもう少し書いてみたいと思います。


スポーツ奨学金なのだが、「学業成績」も同じく一定水準の達成を要求される、というのは、ある種の「セイフティ・ネット」なのではなかろうか、別な領域の知識習得が後々役立つかも、ということを書きました。スポーツの周辺ビジネスについて考えると、実際の一流プレイヤー以外の人々の存在というのが必要になってきます。チームの監督、コーチ、トレーナー、GM、スカウト、チーム運営スタッフ、代理人、・・・・他にどんな職種があるのか判りませんけれども、多種多様な職種の人々の介在が必要になります。そういう周辺の人々というのは、自分自身が一流プレイヤーである必要はなく、もっと別な能力を求められます。マネジメントだの、経営だの、マーケティングだの、広報だの、交渉術だの、・・・・ただ単に「野球ができればいい」「運動能力が高ければいい」とか、そういうことではないのですよね。


仮に、大リーグの選手を夢見てチャレンジを続けたとしても、才能なのか、環境要因なのか判りませんが、能力差が生まれるし、「成功できる者」と「決して成功できない者」という区別がなされます。競争の結果ですから止むを得ないですよね。で、敗者はどうなるかと言えば、他の能力があることが重要になってくると思います。プレイヤーの立場を理解できる、プレーの質を正確に評価できる、センスのある者を見抜く力に優れている、トレーニングや戦術理論に優れている、人心掌握術に長けている、などといった能力があれば、自分自身が一流の仲間入りはできないかもしれないが、一流プレイヤーを支える、或いは関連マーケットを担えるポジションを獲得できるかもしれません。プレイヤー側のことを「よく知っている」からこそ、できる仕事もたくさんあるのです。


そして、選手自身が価値創造を行う(彼らがいなければ何の価値も生み出されないのは確かだ)としても、その評価額を高めたり、マーケットと上手く繋げられる人たちがいなければ、成功を手にすることができないのです。そうしたエージェント的な、或いはコーディネーター的な人々が多く存在していけることそのものが、競争参加者たちの裾野を広げるし、よりマーケットを大きくしていける原動力になるのではないかと思います。たとえ途中で脱落してしまったとしても、もっと別な道がたくさん残されているかも、ということなのです(参考記事:「明日のスター」を生み出す為に投資しよう)。


チームや球団運営だけではなく、スポーツライター、解説者、その他メディア関係、スポーツ用品やグッズの開発・販売、イベント企画、・・・・などといった関連分野もあると思うので、自分自身がプレイヤーであったことが能力として活かされるかもしれないし、例えば「野球」という特定分野以外の能力を養っておいたことが後々役立つかもしれない、ということです。こういう立場の人たちほど、「融合」ということをうまく引き出せるかもしれないですよね。


そういう訳で、「今は自分に関係ない、必要ない」と思えることであっても、「興味を持ってみる」ということがある方が望ましいと思います。ある分野の専門、すなわち一流の「職人」になれるように目指すのですが、結果的に途中で別な方向に進むことになってしまうかもしれませんけれども、新たな価値創造に繋がるように、一流になった「職人」たちと別な何かの領域を連結する役割を担うことも重要なことなんじゃないのかな、と。異質性の高いことがそれまで予想していた範囲を超える「融合」を生み出すかもしれず、そこでの価値創造が行われることになるでしょう。


こうした情報や知識の「融合」によってもたらされる価値と伴に、重要と考えるのが「洗練」ということではなかろうかと思っています。これからは「洗練」という部分について考えてみたいと思います(「洗練」という言葉がいいのかどうなのかは判りませんが、一応この表現を用いることとします)。


通常、情報や知識というのは「鮮度」があって、次々と古くなっていきます。実社会の中で定着してしまって用いられている実用的な「知恵」(例えば納豆の製法とか、ハム作りとか)は残されていますが、既に過去のものとして忘れ去られたり、誤りであったものとして捨てられたり、訂正されたりしているものもあるかもしれません。更に、重複や言い換えなどで「無駄に蓄積される」情報というものも多数あります。身近な例で言えば、何かの注目事件について報道が「同じような情報」ばかりをもたらし、何も新たな情報に繋がっていないことがあり、新聞・テレビ・ネット等の情報が「かぶって」いるようなことです。こういう時は、情報の価値自体は変わらないものが「無駄に」多数存在することになり、価値創造には繋がらないですね。で、時間が経つと忘却という運命から逃れられないものが圧倒的多数でしょう。


そうなると、本当に有用な情報というのは限られている面があるし、そういう情報を生み出せるのは主に研究者たちのような「専門家」ばかりなのではないか、ということなのかもしれませんね。実際そういう部分は多いでしょう。

では、大多数を占める無駄情報というのが「役立たずなのか」「本当に無駄なのか」「存在価値すらないのか」ということを考えてみましょう。


一般個人などが何の専門知識もないけれども、「あれこれ」とあまり意味のなさそうな情報と蓄積していくとしますね。特に目新しいものでも何でもない、という情報ですね。しかも、似たような情報はゴッソリと溢れている、と。



また後で。