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私の「こころ」は有限世界なのか?~その7

2006年12月03日 17時43分07秒 | 俺のそれ
昨日の記事は変な所で終わってしまいました。スミマセン。


ちょっと繋がりが悪くなっていますが、ご容赦願います。前は「融合」という部分について書いてきましたが、今度は「洗練」ということについて話しを進めます。

昨日の終わりの部分で、次のように書きました。


では、大多数を占める無駄情報というのが「役立たずなのか」「本当に無駄なのか」「存在価値すらないのか」ということを考えてみましょう。

一般個人などが何の専門知識もないけれども、「あれこれ」とあまり意味のなさそうな情報と蓄積していくとしますね。特に目新しいものでも何でもない、という情報ですね。しかも、似たような情報はゴッソリと溢れている、と。




この続きですけれども、大多数の平凡な情報の存在は無駄かどうかを考える前に、人間の体の話を少し。


人体の中で最も多い物質は、勿論「水」です。ごく普通の平凡な物質ですね。体重の6~7割は水らしいです。で、体の中なのに、細胞には「内」と「外」の世界の区別がハッキリとつけられています。水の中に浮かんでいる(実際浮かんでいる訳でもないんですけど、イメージがそんな感じ、ということで)細胞は、細胞の外界と違う環境に置かれているのです。水分子はとても小さいので、細胞の内と外を行ったり来たりできます。細胞膜(境界)を通過していけるのですね。ゴム風船のような感じで、内外の区分があり、ゴム(境界=細胞膜)を水分子のような小さなものは透過できる、ということです。細胞の内と外では細胞の構造物の有無でも違いがあるのですが、貯められている物質にも違いがあります。


最もごく普通にたくさんあって、細胞内外で異なる物質は所謂「塩」です。細胞の外側にはナトリウムイオン(Na+)が大量に存在していますが、細胞内にはずっと少ない量しかありません。大体12倍程度細胞外の方が多いのです。ところが、カリウムイオン(K+)は細胞内に大量にあって、細胞外にはすごく少ない量しか存在しません。K+の場合には、約35倍程度の濃度差があります。因みに、カリウムは毒性があって、安楽死事件や医療事故などでも登場する薬物であり(投与されるのは「塩化カリウム」ですね、大抵は)、一定量を超えて静注すると死亡します。なので、細胞内にあるK+が大量に細胞外に流出してしまったりすると、人体には悪影響が及ぶ危険性は有り得ることになってしまうのです。細胞内には「大量にあってもよい」のに、細胞外に同じく存在してしまったりすると大変なことになってしまう、ということですね。致死的物質であるにも関わらず、細胞内に閉じ込めてある、というのも不思議な環境ですよね。


まあ、簡単に言うと、細胞外にはNa+が、細胞内にはK+が大量にあるが、反対側にはごく少ない量しかない、ということです。こうした濃度勾配の存在は、情報伝達や物質の移動に密接に関わっているのです。もしも何の仕組みもなければ、細胞の内部と外部に存在しているNa+とK+は濃度勾配がなくなるまで逆側(内→外、或いは外→内)へとどんどん移動していってしまいます。放置すればいずれ濃度が同じになってしまうでしょう。なので、細胞にはこれらの汲み出しポンプが存在していて、常時濃度勾配を一定に保つように入ってきたNa+を外に排出しK+を中に取り込むということが行われているのです。他には、イオンの通過できる特別な通路(チャネル)なんかがたくさんあって、そこの開閉などで調節したりもします。特殊な状況になれば、扉が開いて一気に濃度差通りにNa+が流入し、K+が流出していくということが起こってしまうのです。神経線維のスパイク電流の発生の仕組みもその機能が働いています。平常時の膜電位(細胞内外のイオンの濃度差によってある電位に保たれている)は一定に保たれていますが、刺激電流発生によって細胞外のNa+が流入し細胞内のK+が流出することで膜電位の変化が次々と伝達されていくのです。膜の内側と外側のプラス、マイナスの電荷が入れ替わるのです。こうして神経の電気的信号は伝えられています。


こうしたNa+やK+というのは、体内全体で見ればごく普通に存在する物質であり、珍しくも何ともありません。でも、まるで「レッド軍」と「ブルー軍」のように、常に対峙していて、その存在場所は限定されており、時には入り乱れて(スパイク電流発生のような)の流入、流出が起こるのですね。相手陣地内に双方が突入していく訳です(笑)。でも、それ以外の時には、お互い「境界」を挟んで睨み合っている、というか、別な環境世界を形成しているような感じです(ちょっと違うか?)。


つまり、ありふれたもので、どこにでもあって、似たり寄ったりで、大量に存在している、ということが、それ自体で「情報伝達の一部」を担っている、ということです。そう考えると、同じような情報、価値のあまりない情報、新鮮味のない情報、そういうものであっても、「何らかの存在意義」というのがあるかもしれず、Na+に対応するような「簡単な」情報とかそれを持つ個人が大量に存在していることが、何かに役立つかもしれないですね。ネット上でたまに見かける、「○○族」vs「××グループ」の対決?のような感じにも似ています。ブログ炎上(近頃は「コメントスクラムの被害」のような表現を見かけなくなりましたね、そういえば)とか、グループ間の論争などもちょっと似ているかもしれません。レッド軍とブルー軍の攻防みたいなもんですね。


というわけで、役立たない情報が大量に存在していたり、似たような情報がダブって存在していたとしても、その濃淡によって「新たな刺激情報」を伝達したり、信号強度を表現したりすることになるかもしれません。「何だ、またかよ」「オマエもか」という反応をする前に、ひょっとするとそこには別な情報が読み取れたり、何かが隠れていたりすることもあるかもしれない、と思って、注意してみるといいかもしれません。それは、ほんのちょっと表現方法を変えるだけで、新たな価値創造に繋がることがあるかもしれませんよ。


前にちょっと書いた(検証作業というか・・・)のですが、市販される飲料は「甘くない方がいいよね」、という意見は、ブラックコーヒーやストレートティを求めているとは限らない、というようなことです。別な見方に変えれば、お茶系飲料のマーケットが開けてくる、ということです。烏合の衆でしかなさそうな平凡な意見や情報の集合というのは、それ自体にもやはり存在意義があったりする可能性はあるんじゃないのかな、と思いますね。一般個人が間違っている情報を流そうと、古びた情報を出そうと、みんなと同じような情報であろうと、それにも「意味があるかもしれない」ということですね。