いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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「こころの染み」

2006年12月25日 19時09分40秒 | 社会全般
さて、ハッピーなクリスマスを過されておられるであろう、日本全国の皆さん、昨晩サンタクロースは来ましたか?

我が家では、家族で楽しく過せました。今年も色々と迷いましたが、プレゼントを買いました。子どもがある程度大きくなってくると、中々頭を悩ませるんですよね。子どもは父親の感性を信頼している、と言ってくれているので、有り難いと思う半面、逆のプレッシャーもあったりします。妻には昨年大不評であった皿(別なプレゼントを買いなおすハメになったけど)に懲りて、無難なセーターにしました。こうした買い物で、低迷している家計消費に多少の貢献ができたのではなかろうか、と思ったりしますが、実際どうなのか判りません(笑)。


クリスマスということで、多数のカップルにとって特別な日であったと思います。実際には何が特別なのか、というのは、よく判らんのですけどね。世の中の流れ的にはそうなんだろうな、と。ということで、恐らく日本男児の数百万人か、数千万人規模で昨晩射精が行われたであろうと推測されます(下ネタでごめんなさい)。よくよく考えてみると、これは恐ろしいことです。何が恐ろしいかって?


男性1人平均が「3mℓ」の射精を行ったとしましょう。これが1000万人いたとすれば、3×1000万=3000万mℓ、即ち「3万ℓ」の精液が放出されたということになります。どれ位の量かと言いますと、通常のドラム缶(200ℓ)で150本分です。ぐは!!もっと言うと、深さ1mで5m×6mの大きさの浴槽に一杯になる量です。グ、ゲゲゲッ!考えただけでも気分が悪くなります。泳ぐことができます、精子風呂。恐るべし、クリスマス。

イカン。いきなりお下品な話題を提供してしまいました。失礼。そういう訳で、クリスマスは結構恐ろしいのです(嘘)。


余談はさておき、先日タクシーに乗ったとき、運転手の方と少し話をして、ハッとしたことがありました。

タクシードライバーの生活は厳しい、規制緩和で台数が増えた、将来も不安だ、といった話を聞かされました。よく言われている通りなのだな、と思いながら聞いておりました。で、その運転手の人は、国や自治体の財政が厳しいこととか、年金はダメっぽいとか、そういったことを言っていました。一応、私の知っている範囲で答えられるものは答えたりしましたが、こういう不安が普通の人々の感覚なのだろうな、と思いました。この運転手の人の話していた内容で特に印象に残っているのが、次の言葉でした。

「心の何処かに、”染み”みたいなのがあるんですよ。それが消えない、いつまで経っても拭えないので、お金を使おうという気持ちに中々なれないし、不安なんですよね」

まさしくその通りだ、と思いました。そうなのです。私たちの心の何処かには、消えることのない「染み」がずっとあるのです。

これがいつから生じたのか、どうして消えずに残ってしまうのか、そこが問題なのです。不安の象徴とも言うべき心の染みは、不安が増大すれば「暗雲」のようにどんどん広がり、大きくなっていくのです。その割合が大きければ大きい程、防御体制を堅く築こうとするのです。これはある意味当然なのです。それが身を守る為に必要な方策だからです。現在景気が拡大を続けている、というプラスのニュースなどが流れてはいるのですが、実際には、そういう心の染みが消えていないのです。きっと多くの人々の心にも、同じような「染み」が残っているのだと思います。


この「染み」はどこから来たのでしょうか?それはよく判りませんが、漠然とした、でも生き残る為の鋭敏な感覚で確実に捉えられている、将来の不安なのだろうと思います。普通の人々は学術的なこととか、難しい理論とか、そういうのは判らないかもしれません。しかし、圧倒的に多くの人たちは何かの「嗅覚」みたいなのを持っていて、それは人類が生存を続けてきたことの証のようなものであり、危険を嗅ぎ分けたり、生き延びることや自分の利益になることを見分けるようなものなのではないかと思っています。タクシーの運転手が話した「染み」というのは、多分そういうことの表現であろうと思います。


将来の不安を緩和することが必要なのだろうな、と思いました。それは、雇用、生活保護、年金、医療、介護等の社会保障のことであり、そこを確実にしない限り、「こころの染み」を払拭できないだろうと確信しています。


日本経済が壊れる前までは、おおよその将来予測というのはある程度見通しが立ったと思います。例えば、入社20年目くらいだとこれくらい、定年間近ならこんな感じ、という具合に。それは待遇とか、収入水準とか、そういった色々の面でのことです。そういう先輩達が普通に存在していたからです。身近な分かり易いモデルとして存在していたのだろうと思います。そういう時代では、そのモデルに沿って投資計画とか、住宅ローンのような消費計画を立てていた面があると思います。子どもの教育費なんかもそうでしょう。将来に対する「不確実性」がある水準で落ちついていたのだろうと思います。


ところが、リストラの嵐が吹き荒れ、成果主義などの新たな制度が導入されたり、賃金抑制策が次々と打ち出されることとなった為に、それまで存在していた身近なモデルは破壊されたのです。それまで多くの人々が心に抱いていた「将来見通し」という幻想は、悉く破壊されたのです。それが「不確実性」の増大に繋がっていったのです。これが多くの人々の心に「染み」として残ったのだろうと思うのです。不確実性が増大すれば、その変動に備えて防御しなければならないことは当たり前の話で、消費を抑制し変動を吸収可能にする現金(貯蓄)を持とうとするであろうと思います。それと同時進行で賃金削減(ボーナスカットや大幅減額、ベア消滅、等)が起こっていた為に、人々の「不確実性」増大の実感は確かなものとなって行きました。「染み」の元である不安は漠然とした感覚的なものでしたが、いま目の前で実証された、ということです。


民間ではこうした不確実性増大が起こった(中には雇用制度を殆ど変えていない企業もあったかもしれません)のに、昔に近いモデルが残されている部門がありました。それは教師を含めた、公務員です。ボーナス額の減額とか、若干の給与削減などがあったものの、概ね将来見通しの立ちやすい(霞ヶ関官僚は”脱藩者”が多いでしょうから、どうなのか判りません)人たちが多いでしょう。そこに「特権的」なものを感じ取る庶民は多いと思います。


クジ引きで、ハズレリスクが違っているのはズルイじゃないか、と。オレたちは不確実性が増大して、身も心も「不安定」になったというのに、公務員だけ安定していて不公平じゃないか、と。そうした怨嗟の念があったのではなかろうかと思います。そこに輪をかけて怒りを増大させたのは、「オレたちの金をネコババしているのは公務員」、「オレたちの年金原資を減らしたのも公務員」、「オレたちの金をドブに突っ込んでるのも公務員」、といったことが明るみに出たことでしょう。公務員4百万人と隠れ公務員みたいな他数十万人の所謂特殊法人のヤツラは「既得権益」によって守られている、裏ではオレたちの金をくすねているくせに、ということでしょう。


<ちょっと寄り道:
公務員と言っても、上は総理大臣から幅広く存在しているので、一概には言えないでしょうけれど、公務員制度改革云々にしても、部門毎に対策とかやるべき内容には異なる部分があるのではないかと思います。以前にも書いた(参考記事1)が、1万5千人程度のごく少数しか存在しない官僚の給料をいくら引き下げた所で、焼け石に水は変わらないし、それよりも「ヘンな予算貼り付け」を止めさせれば数十億円の効果くらいは直ぐに出るので、そちらの方が先決なのです。独立行政法人や公益法人の理事職を回って、生涯賃金を回収するということを止めさせる事、そういうシステムを無くすことの方が有効なのです。外部の給料で回収させないで、本来の正規賃金で支払うようにすること、ベテランにも活躍できる場を与えること、そういうことをやる方が意味があるでしょう。そこで人件費が増えても大した額にはならないが、官僚OBの理事職を養う為に外部団体に貼り付けられる予算は、組織を存続させる分だけかかってしまう為に、何百倍とか何千倍にもなってしまうのです。無駄な10億円の予算をカットして、代わりに官僚の人件費が1億円増えた所で9億円得するのですから、こちらの方がいいに決まっているのです。国民にとってはその方が大きなプラスになります。

公務員が自分たちで変えようとしなければ強い外力で変えさせられることになると書いたが、望まない制度改革を招くことになるのであれば、その代償は大きかったのではないか?まさか丹羽さんがよりによって諮問会議の民間議員としてお戻りになろうとは、当時誰も予想できなかっただろうからね(笑)。それ故、強く拒否して制度改革を頓挫させた結果、前よりもっと厳しい条件の改革案になるかもしれんね。>


結局、多くの国民には理解しやすいロールモデルが失われてしまい、不確実性という将来不安の「染み」だけが強く残った、ということでしょう。これは仕事上の話ばかりではなく、例えば「男性」「女性」とか、「家族」というような具体的で身近なモデルも段々と破壊されたのだろうと思います。これは女性蔑視とか、女性は仕事をしなくていいとか、そういうことを言っているのではありません。具体的な「人間像」とか、「家族像」といったものを見失う人たちがいて、そういう人たちは悩んだり迷ったりすることが多くなるのではないのかな、とちょっと思っています。この数が多いのか少ないのか判りませんが、問題の起こる背景にはそうした目標(目安というべきかな)喪失のようなことがあるのではないかな、と。

例えば「サザエさん」とか、「大草原の小さな家」とか、そういった具体的に分かり易いものがない、ということなのだろうと思う。価値観が古いとか、固定観念に囚われているとか、家父長的だとか、そういう意見もあるでしょうが、人間というのがあくまで生物であり、男は昔も今も出産できないことに変わりがないですからね。「こうあるべき」というモデルは難しいかもしれませんが、「こうなりたい」というモデルが存在することは大事だし、それを目標としてやっていこうと考える人たちは必ず誕生していくるし、それが親や先生を尊敬することとも繋がっているような気がするのです。


元を辿れば、今の年寄りたちの教えてきた「モデル」には失敗がたくさん含まれていた、ということが言えるのかもしれません。若い人たちの中には立派な人もたくさんいるし、頑張っていたり、努力していたり、「国際競争力」のある人(笑)はいるでしょう。礼儀にしても、「若いもんはなってない」という面が見られるかもしれませんが、私の観察する範囲では「年寄り」でも酷い人たちが多いように思えます。順番を守れない、電車に乗る時並ばない、直ぐに不満・文句を言う、等々、「なってないな」と感じることは少なくありません。殺人・傷害事件にしても、60歳以上の高齢になってからでさえ(介護・病気疲れや生活苦の無理心中のような場合ではなく)、「腹が立ってやった」とか「憎くてやった」というような事件は結構あります。感情や自分をコントロールできなくなる、というようなことなのかもしれませんが、頻繁に矩を越えてる様を見るに、「従心」といったことが必ずしも当てはまらないのではないか、と思えたりします。


子どもたちにしてみれば、比較的分かり易い大人たちのモデルを見て育ったら、今のような状態になった、ということなのではないでしょうか。それは大人たちの責任であり、そういうモデルを提示していたのは年長者たちです。今の高齢者たちもそうです。彼らの育てた子ども達が次の世代を育てるのであるし、孫への関わり方にしても問題がなかったとは言えないかもしれませんね。多くの人々ではあまり問題がないかもしれないのですが、それでも世の中で目立たない程少数ということではない数に問題があるんじゃないのかな、と思います。ホリエモンのようなモデルがもてはやされるということへの非難はあると思いますが、若い世代で冒険する人々が登場しなければ、今の日本はもっと暗い時代になっていたのではないでしょうか。身近なモデルは打ち砕かれてしまい、従来の将来見通しも役には立たず、ありとあらゆるものが合理性によって語られる社会で過していれば、ホリエモンを称揚したくなる気持ちは判るような気がします。


今こそ、不安を解消する道を、明確に提示するべきではないでしょうか。不確実性をできる限り抑制し、将来の見通しが立つような生活基盤を整えることこそが、心にくっきりと残された「染み」を消せる―或いは、消せないまでも薄められる―方法なのではないかと思います。最も重要な政治の役割だと確信しています。


そして大人たちは、自分が何かの「モデル」の1人なのかもしれないと自覚して家庭生活や社会生活を送るべきなのかも、思います。特に、ある程度の成功を収めた人たちこそが、多くの若者たちの目指すべき「モデル」になるように、素晴らしい人生を送って欲しいと願っています。