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私の「こころ」は有限世界なのか?~最終回

2006年12月11日 21時07分55秒 | 俺のそれ
随分と間が空いてしまいましたが、今回で終わりにします。自分でもよく分らないし、まとめも思いつかないので。

私の「こころ」は有限世界なのか?~その1
その2
その3
その4
その5
その6
その7


いままで、主に2つのこと、「融合」と「洗練」について書いてきました。洗練について、もう少し書いてみたいと思います。

情報や知識というのは、自分だけの世界では限界というのが訪れやすいと思います。個人の能力がどれ程高くても、新たな知識を生み出すのには限りがあるでしょう。価値創造もそうだと思います。有能な人であればたった1人であっても、その他の多くの人たちよりもたくさん知識や価値を生み出せるということがよくあると思うのですが、それでも人生は短いので(人類の歴史の中で見てみると)、ある程度限られた仕事・業績しか残せないのです。なので、いくら1人で頑張ってみても、世界規模の「データベース」ほど賢くはならないでしょうし、ありとあらゆるものを生み出せはしないのです。もっと大多数の人々の参加が必要なのです。


自分の脳みその中にあった情報や知識を外部に置くことで、他の人々のアクセスを受けたりして、そこで品定めが行われることになると思います。或いは、外部からの色々な刺激を受けたり、逆に刺激を与えることになると思います。センセーショナルな言説なんかもそうですね。非常に刺激的なものもあったり、場合によっては「取扱い注意」のような(笑)危険なものもあるかもしれませんね。


「これは無駄な情報だな」、「あまり役に立ちそうにない」、「面白味が少ない」、などという他人からの評価を受けたりすることによって、情報や知識の強さのようなものができてくるのではないかと思います。「洗練」というのは、そうした情報や知識を「研ぎ澄ます」ような過程ではないかと思えます。昔は、ごく少数の人たちにしか触れられなかった情報が多く、こうした「洗練」という過程を経ること事態が大変だったろうと思います。たとえて言えば、少数の専門的な研究者くらいしか見る機会がないような情報なんかがそうだろうと思います。でも、研究の参加者が増加したりして、もっと大量の人々に触れられることになれば、違った活用方法なんかが出てくるかもしれないし、別な融合反応を引き起こしたりすることになるかもしれません。福沢諭吉の『学問のススメ』がベストセラーになったように、世間一般に広まることで違う形の反応が起こってくるかもしれません。


ですので、できるだけ多くの人々の情報が伝わり、評価を受ける方がよいと思います。「洗練」の過程は、日本刀を作り上げていくようなものではないかと感じます(特に、銃刀なんかの趣味はないです、そういうイメージということで)。何度も打たれて鍛えられていく。そうやって、強く、しなやかで、切れ味鋭いものができていく。この過程を通過できない程度であれば、「ナマクラ」刀ということにしかなれないのではないかな、と。


個人が「凄く小さなハンマー」で「トン」と叩く。普通の人々の持っているハンマーは、刀鍛冶のような力は持っていないのですが、効率が悪くても弱くてもとりあえず「トン」と叩く。少数の人たちだけがトンと叩いても、あんまり大して鍛えられない。でも、本格的な人(その道の専門家とか、セミプロとか?)が「ガン」と叩くと刀鍛冶と似たように叩けるでしょう。そんな感じで、弱小個人が何万回も「トントン」叩いていくうちに、それはやっぱり鍛えられる。そのうちに、素晴らしい何かが出てくるかもしれない。専門家同士でなら、もっと激しく打たれて、より完成度の高いものが生み出されていく。刀鍛冶はその鍛え方を知っているからだ。


「洗練」の過程を経なければ、「ニセモノ」とか「ナマクラ」というものが増えていってしまうかもしれない。できるだけ名刀をたくさん作っていく方がいいので、広く知られること、多くの人たちが鍛え上げ(評価)に参加すること、それを目指すのが望ましいのではないかな。普通の個人が持ってるハンマーは本当に小さいものですが(ハンターチャンス!ではないですよ、笑)、専門外でも色々と叩いておくことを繰り返していくうちに、どこかで本物の名刀が生み出されているかもしれません。その人自身は、何万回か何十万回か叩かれた内の、たった1回しか叩いていないかもしれないけれど、そういうことの積み重ねなのではないかな、とも思う。


激しく熱を加えたり急冷したり(焼入れ、焼き戻し)、そうやって「外部からの刺激」を与え、鍛え上げていくというのが、知識の洗練に繋がるだろと思います。これらは決して「炎上」とか「バッシング」といったことではありません。叩くというのは、あくまで何かの反応を示したり、評価するという作業を行うことです。炎上は確かに「激しい熱」にも似ていますが、むしろ有害反応に近いかと思います。加熱処理の時に起こるオーバーヒートのようなものかもしれません。オーバーヒートになってしまうと、構造欠陥を生じ脆くなってしまいます。「熱くなり過ぎてもよくない」のです。


<寄り道:
日本刀で思い出したのですが、私の好きな剣士は塚原ト伝です。史上最強剣士としても、宮本武蔵より強かったのではなかろうか、と思っています。昔(今から25年以上前頃?)、NHKのラジオドラマに登場していたように記憶しています。>


過去の大変古い情報にもかかわらず、現在までの間、幾度となく繰り返し登場してくる情報があります。あたかも伝説の名刀のようです。それが何故時代を超えて情報の先端に舞い戻ってくるのか、とても不思議なのですが、中々忘れ去られることはないのですね。本当に不思議です。例えば、万葉集とかに出てくる歌なんかは、今の時代には「あまり役立たない」ようにしか見えませんが(ゴメンナサイ、歌心がないもので・・・決して「古典(文系)バッシング」とかではありません(笑)。技術革新だの、新たな経営手法だの、新製品開発だの、そういう今どきの情報に結びつくのが難しそうかな、と)、何かの拍子にわざわざ登場してきますよね。百人一首の大会とかではなくても。普通の文章の中にも、その存在を見かけることは多々ありますよね。こういう、とても古びているが風化しにくいもの、という情報や知識があって、やはり遠い時間の壁を乗り越えてきた「名刀」なのだ、ということでしょう。「洗練」の度合いというのが、かなり進んでいるのだろうな、と思うのですね。それ故、強いし、廃れないし、登場回数が多い、といったことになるんでしょう。この理由というのが全く判らないのですけどね。


知識の融合や洗練が行われるには、できるだけ情報や知識同士が出会う必要があります。その営みを行うのは各個人で、この組み合わせは天文学的に膨大な数になると思います。その中で、本当に役に立つとか、意味のあるものというのは、余り多くはないでしょう。それだけ今の状態で知識が相当多い量になっているからだろうと思います。でも、最前線に立っている人たち―主に科学研究者たち―は、「何も判っていない」「知らないことだらけだ」のように感じているのではなかろうかと思います。それくらい、未知の領域は大きいのでしょう。


未知の領域を目指して誰かが情報の「融合」を試みたりするというのは、無限の組み合わせの中から選択されていくのです。「洗練」の対象となる情報や知識との出会いも、誰が何に出会うのか、ハンマーで叩く対象は何か、無限の組み合わせがある中から行われていくのです。同じように個人の脳みその中で生み出される情報には、おそらく限りがないでしょう。具体的な1人だけを見れば「有限」のようにも見えるかもしれませんが、将来の可能性だけを考えるときっと「無限の可能性」を持っているのだと思います。それは脳細胞ネットワークの組み合わせとか、信号の通過経路、パターンなどの「無数の組み合わせ」の可能性を反映したもの、ということなのかもしれません。


本当かどうかは判りませんが、昔、「碁盤は宇宙と同じだ」というようなことが言われていたそうで、それも組み合わせの数が数え切れない程無限にあるように感じたからだと思う。1局たりとも「同一の碁」がなかったからであろう。天体望遠鏡もなく宇宙を知る科学的知識が何も無かった時代に、天空に広がる星や宇宙というものが「恐らく無限なのだろう」という直観を与えていたとすれば、過去の人々の深い洞察力は凄いと思う。碁盤の中に「無限の組み合わせ」を見出す直観力も侮れない。「無限世界」があると考える、その思考には驚嘆させられる。自分で体験し認識できる身近な世界は、全て有限世界でしかないのに。


ちっぽけな普通の人であっても、脳みそには無限の組み合わせを生み出す世界が広がっているのです。それは、宇宙のようでもあり、未来の可能性を生み出す原動力です。その点では、ネット世界も同じように無限の組み合わせを生み出せる空間であることは間違いないでしょう。