by ツルゲーネフ(笑)
本当にそうなんだろうか?確かに回っている所には回っているかもしれない。でも、不足している所には依然不足したままだ。こんなんでいいのか?虚血に陥って、壊死を待つだけの組織となってしまってもいいとでも?そんなことあるもんか。
06年に一言 弱者切り捨ての果て…急増する自死遺児=萩尾信也(社会部)-記者の目:MSN毎日インタラクティブ
師走の東京で幾度も「貧困」という言葉を耳にした。「格差」にあらず、人の生命や尊厳までもが脅かされている状況をいう。戦後の経済復興の過程で一度は日本社会の表層から消えたかに見えた言葉が、06年冬の街に戻っていた。
「日本で『貧困の世襲化』の時代が始まった。腹を据えてかからなあかん」
(中略)
しかし、98年に912人だった高校奨学生の出願数は今年1796人に倍増。高校生遺児の母子家庭の平均勤労年収も98年の200万円が145万円に落ち込んだ。政府が打ち出した生活保護の母子加算の廃止の方針は、彼らの窮状に拍車をかける。
時代は遺児が生まれた原因にも影を落としている。97年に高校奨学生の3・5%を占めた自死遺児は今年16・7%まで上昇。自死の背景には、「倒産」や「リストラ」の言葉が浮かぶ。
「世の中を金持ちやエリートに任せていてはえらいことになる。これからは君たちが切り開く番や。それには一人一人が力をつけなあかん。人の痛みに思いをはせる想像力や」
沈み行く船に乗っている時、「オレには救命胴衣があるのさ」と「持てる者たち」が「持たざる者たち」に向かって言っているようなものではないか。今なら全員で協力して船底の穴を塞ぎ、入ってきた水を汲み出す作業をすれば、船は沈まずに済むかもしれない。だが、今すぐに溺れる心配のない連中なんかが、「オマエらが乗ってる重みで船が沈むんだ!自分で泳げないヤツラは船から叩き出せ」とか、「オマエらの分まで支えきれないんだ」とか、そういうことを言い出せば、全員船と一緒に沈んでいってしまうんじゃないのか。大海原で海に放り出されれば、いかに救命胴衣がある人なんかでも、大半が助からないんですよ。冷たい海に放り込まれれば、次第に低体温になってどうせ助からないのです。今、溺れなくても、です。いずれそういう事態が訪れるかもしれないのです。
社会が死んでいく過程は、非常に緩徐ではあるが、着実に進んでいくであろう。不可逆的な過程に足を踏み入れてしまえば、もう後戻りはできなくなる。その前に何とか回避する努力をするべきなのではないのか。
大企業を中心とする企業側の言い分は、「企業の負担を軽くせよ」の大合唱だ。パートの分まで負担できない、とか、そういうことを必ず言う。競争力が落ちる、とか言うんだ。でも、国内消費者の多くが消費に回せるお金を持たなくなれば、どうせ一緒に沈んでいくんだぞ?今まで散々現金をかき集めてきたじゃないか。その金はどうした?うまく投資して、利益を生み出してきているのか?違うだろ。それは何故なのか?金を持っているヤツラがバカだからだ。金は持っているだけでは、価値を生み出さない。使ってこそ始めて意味があるんだよ。
銀行というのは、金を持っていても直ぐにうまく投資に回せないとか、余りに少額でそれ単体では投資できないというような人々のお金を預かって、代わりに投資していくんだろ?そういう代理人というようなものなのだろ?それがどうだ?実際には、投資をしていく連中が無能であるが故に、金が新たな価値を創造できてないんだよ。大金庫に100億円を眠らせておいて、百年後に100億円を持っているかもしれないが、その百億円は何ら「成長」していないんですよ。こんなの当たり前。
一般個人でも似ていて、タンスの底とか、床下の甕の中に100万円を後生大事にしまっておいても、それは成長には繋がらないのです。使ってこそ意味があるのです。勿論、収支変動には備えなければならないけれども、金を持っているだけでは、未来には繋がらないのです。有効な使い道に回した方がずっといいのです。みんなが恐れて、こういうタンス預金をしていたら、その分だけ消費や投資が伸びないのではないでしょうか(この方が有利だ、という気持ちにさせられるのは、「デフレ」という悪魔に取り憑かれたからだろうけど)。
企業貯蓄は増加の一方であって、今まで十分溜め込んできたでしょ。使うべき時が来ているんですよ。未来に投資するべきなのですよ。投資できないのであれば、消費すればいいのです。従業員に分けたり、公的負担をしたりすればいいのですよ。何故それができないのでしょう?そうやって、手元に金を集めて持っているだけでは、金は成長していかないのですよ。新たな富を生んではくれないのですよ。どうしてそれが判らないのでしょうか?
価格競争に敗れてしまう、とか危惧するのであれば、外国に工場建設投資などをして、そこでバンバン売りまくって、本社にその利益をガッポリ持ってくればいいじゃありませんか。賃金の安い国であれば、そこでの価格は抑えられるのでしょう?もっと稼いでくればいいじゃないですか。トヨタみたいに(笑)。要するに、金だけ持っていてもしょうがないんですよ。使え、っての。国内であろうが、国外であろうが、企業利益をどんどん増やせるような投資をしなけりゃ、金庫の中で(実際は帳簿の数字上で?なのかな)金が眠っているだけなんですって。投資にも消費にも回らない金の割合が増えれば増えるほど、社会全体の成長は弱まるのですよ。「天下の回りもの」なのであれば、使えばきっと戻ってくるでしょうよ(笑)。
これまで何度も書いてきたが、過酷な労働環境で家にも満足に帰れないとか、睡眠時間も取れないとか、そういう社会はおかしいですよ、やっぱり。オレが寝ずに働いているんだから、オマエらも寝ないで働くのは普通だ、というようなことは無くしていく方がいいと思います。1人でやるのが難しいのであれば、できるだけ仕事をチーム単位でやるようにした方がいいと思うよ。確かに「寝ないで頑張らないと」みたいな状況は出てくることはあると思うけれど、常時そういうのが続くというのはオカシイですよ。それなら、今まで給料の高かった人たちの一部を下げる代わりに、安い給料の人をちょっぴり増やして均等化し、仕事量も分散した方がいいと思いますね。能力の高い人にしかできない部分というのが、その職種の全部を占める仕事ということって、実際にはそんなに多くないんじゃないかと思っています。例えば、検察官もいれば、検察事務官もいるわけですよね?裁判所だって、全員が裁判官なんじゃなくて、事務官とかいるんですよね?そういうのが普通なのではありませんか?そういうチームというか、「パーティ」を作っていく方がいいと思うんですよね。1人1人の負担をちょっと少なくして、働く人数を多くできる方向にいくべきなのです。
厚生年金にパートを入れたくない、とか企業は言っているので、小手先の改革では改まることはないと思う。一回全部壊して、企業には応分の負担をさせるべきだ。どの国民も、生活水準や医療なんかの最低保障は確保されるべきであり、働き手にとって、ある人たちは社会保障があるのに、フリーターやパートのような待遇にある人たちだけがそういう保障から外される、というのは、オカシイです。労働者側だって、給料をもらえれば消費に回す方が多いんですよ。そりゃそうですよ。月収が10万円しかない人たちはそこから国民年金だの国民健康保険だの社会保険料を支払い、家賃とか公共料金も当然払わねばならず、残った僅かな中から消費に回さざるを得ないんですよ。それ故、消費にはお金が回っていかないんですよ。消費に金が回らないから、国内販売が伸びないのです。企業は、こうした社会保障関係の負担とか賃金の負担をしないで、労働力だけ搾取しているからだ。decent workなんかじゃないんですよ。そのツケは後から必ず回ってくる。保険料上限を18.3%としてはみたものの、年金制度を支えきれなくなって、保険料値上げとか法人税率アップとか、そういう形で返ってくるんですよ。世の中そういうものだと思うね。なので、今のうちから少しずつ負担を均等化しておくべきだろう。後に回せば回すほど、苦しみは大きくなるはずです。
江戸時代とかは、娯楽だの、絵画だの、読み物だの、そういった「製造業」じゃない(笑)分野でお金がたくさん使われたと思うよ。そういう文化を育む余地というか、背景があったんだろう。人々はそういうものに「お金を使った」からこそ、育っていったんだろうと思う。しかも、お金持ちばかりではなく、大衆が使ったのですよね、きっと。
金を持っている連中こそ、金を有効に使うことを考えるべきなんじゃないのか。足りない部分に行き渡らせられる方法を、選択するべきなのではないか。
本当にそうなんだろうか?確かに回っている所には回っているかもしれない。でも、不足している所には依然不足したままだ。こんなんでいいのか?虚血に陥って、壊死を待つだけの組織となってしまってもいいとでも?そんなことあるもんか。
06年に一言 弱者切り捨ての果て…急増する自死遺児=萩尾信也(社会部)-記者の目:MSN毎日インタラクティブ
師走の東京で幾度も「貧困」という言葉を耳にした。「格差」にあらず、人の生命や尊厳までもが脅かされている状況をいう。戦後の経済復興の過程で一度は日本社会の表層から消えたかに見えた言葉が、06年冬の街に戻っていた。
「日本で『貧困の世襲化』の時代が始まった。腹を据えてかからなあかん」
(中略)
しかし、98年に912人だった高校奨学生の出願数は今年1796人に倍増。高校生遺児の母子家庭の平均勤労年収も98年の200万円が145万円に落ち込んだ。政府が打ち出した生活保護の母子加算の廃止の方針は、彼らの窮状に拍車をかける。
時代は遺児が生まれた原因にも影を落としている。97年に高校奨学生の3・5%を占めた自死遺児は今年16・7%まで上昇。自死の背景には、「倒産」や「リストラ」の言葉が浮かぶ。
「世の中を金持ちやエリートに任せていてはえらいことになる。これからは君たちが切り開く番や。それには一人一人が力をつけなあかん。人の痛みに思いをはせる想像力や」
沈み行く船に乗っている時、「オレには救命胴衣があるのさ」と「持てる者たち」が「持たざる者たち」に向かって言っているようなものではないか。今なら全員で協力して船底の穴を塞ぎ、入ってきた水を汲み出す作業をすれば、船は沈まずに済むかもしれない。だが、今すぐに溺れる心配のない連中なんかが、「オマエらが乗ってる重みで船が沈むんだ!自分で泳げないヤツラは船から叩き出せ」とか、「オマエらの分まで支えきれないんだ」とか、そういうことを言い出せば、全員船と一緒に沈んでいってしまうんじゃないのか。大海原で海に放り出されれば、いかに救命胴衣がある人なんかでも、大半が助からないんですよ。冷たい海に放り込まれれば、次第に低体温になってどうせ助からないのです。今、溺れなくても、です。いずれそういう事態が訪れるかもしれないのです。
社会が死んでいく過程は、非常に緩徐ではあるが、着実に進んでいくであろう。不可逆的な過程に足を踏み入れてしまえば、もう後戻りはできなくなる。その前に何とか回避する努力をするべきなのではないのか。
大企業を中心とする企業側の言い分は、「企業の負担を軽くせよ」の大合唱だ。パートの分まで負担できない、とか、そういうことを必ず言う。競争力が落ちる、とか言うんだ。でも、国内消費者の多くが消費に回せるお金を持たなくなれば、どうせ一緒に沈んでいくんだぞ?今まで散々現金をかき集めてきたじゃないか。その金はどうした?うまく投資して、利益を生み出してきているのか?違うだろ。それは何故なのか?金を持っているヤツラがバカだからだ。金は持っているだけでは、価値を生み出さない。使ってこそ始めて意味があるんだよ。
銀行というのは、金を持っていても直ぐにうまく投資に回せないとか、余りに少額でそれ単体では投資できないというような人々のお金を預かって、代わりに投資していくんだろ?そういう代理人というようなものなのだろ?それがどうだ?実際には、投資をしていく連中が無能であるが故に、金が新たな価値を創造できてないんだよ。大金庫に100億円を眠らせておいて、百年後に100億円を持っているかもしれないが、その百億円は何ら「成長」していないんですよ。こんなの当たり前。
一般個人でも似ていて、タンスの底とか、床下の甕の中に100万円を後生大事にしまっておいても、それは成長には繋がらないのです。使ってこそ意味があるのです。勿論、収支変動には備えなければならないけれども、金を持っているだけでは、未来には繋がらないのです。有効な使い道に回した方がずっといいのです。みんなが恐れて、こういうタンス預金をしていたら、その分だけ消費や投資が伸びないのではないでしょうか(この方が有利だ、という気持ちにさせられるのは、「デフレ」という悪魔に取り憑かれたからだろうけど)。
企業貯蓄は増加の一方であって、今まで十分溜め込んできたでしょ。使うべき時が来ているんですよ。未来に投資するべきなのですよ。投資できないのであれば、消費すればいいのです。従業員に分けたり、公的負担をしたりすればいいのですよ。何故それができないのでしょう?そうやって、手元に金を集めて持っているだけでは、金は成長していかないのですよ。新たな富を生んではくれないのですよ。どうしてそれが判らないのでしょうか?
価格競争に敗れてしまう、とか危惧するのであれば、外国に工場建設投資などをして、そこでバンバン売りまくって、本社にその利益をガッポリ持ってくればいいじゃありませんか。賃金の安い国であれば、そこでの価格は抑えられるのでしょう?もっと稼いでくればいいじゃないですか。トヨタみたいに(笑)。要するに、金だけ持っていてもしょうがないんですよ。使え、っての。国内であろうが、国外であろうが、企業利益をどんどん増やせるような投資をしなけりゃ、金庫の中で(実際は帳簿の数字上で?なのかな)金が眠っているだけなんですって。投資にも消費にも回らない金の割合が増えれば増えるほど、社会全体の成長は弱まるのですよ。「天下の回りもの」なのであれば、使えばきっと戻ってくるでしょうよ(笑)。
これまで何度も書いてきたが、過酷な労働環境で家にも満足に帰れないとか、睡眠時間も取れないとか、そういう社会はおかしいですよ、やっぱり。オレが寝ずに働いているんだから、オマエらも寝ないで働くのは普通だ、というようなことは無くしていく方がいいと思います。1人でやるのが難しいのであれば、できるだけ仕事をチーム単位でやるようにした方がいいと思うよ。確かに「寝ないで頑張らないと」みたいな状況は出てくることはあると思うけれど、常時そういうのが続くというのはオカシイですよ。それなら、今まで給料の高かった人たちの一部を下げる代わりに、安い給料の人をちょっぴり増やして均等化し、仕事量も分散した方がいいと思いますね。能力の高い人にしかできない部分というのが、その職種の全部を占める仕事ということって、実際にはそんなに多くないんじゃないかと思っています。例えば、検察官もいれば、検察事務官もいるわけですよね?裁判所だって、全員が裁判官なんじゃなくて、事務官とかいるんですよね?そういうのが普通なのではありませんか?そういうチームというか、「パーティ」を作っていく方がいいと思うんですよね。1人1人の負担をちょっと少なくして、働く人数を多くできる方向にいくべきなのです。
厚生年金にパートを入れたくない、とか企業は言っているので、小手先の改革では改まることはないと思う。一回全部壊して、企業には応分の負担をさせるべきだ。どの国民も、生活水準や医療なんかの最低保障は確保されるべきであり、働き手にとって、ある人たちは社会保障があるのに、フリーターやパートのような待遇にある人たちだけがそういう保障から外される、というのは、オカシイです。労働者側だって、給料をもらえれば消費に回す方が多いんですよ。そりゃそうですよ。月収が10万円しかない人たちはそこから国民年金だの国民健康保険だの社会保険料を支払い、家賃とか公共料金も当然払わねばならず、残った僅かな中から消費に回さざるを得ないんですよ。それ故、消費にはお金が回っていかないんですよ。消費に金が回らないから、国内販売が伸びないのです。企業は、こうした社会保障関係の負担とか賃金の負担をしないで、労働力だけ搾取しているからだ。decent workなんかじゃないんですよ。そのツケは後から必ず回ってくる。保険料上限を18.3%としてはみたものの、年金制度を支えきれなくなって、保険料値上げとか法人税率アップとか、そういう形で返ってくるんですよ。世の中そういうものだと思うね。なので、今のうちから少しずつ負担を均等化しておくべきだろう。後に回せば回すほど、苦しみは大きくなるはずです。
江戸時代とかは、娯楽だの、絵画だの、読み物だの、そういった「製造業」じゃない(笑)分野でお金がたくさん使われたと思うよ。そういう文化を育む余地というか、背景があったんだろう。人々はそういうものに「お金を使った」からこそ、育っていったんだろうと思う。しかも、お金持ちばかりではなく、大衆が使ったのですよね、きっと。
金を持っている連中こそ、金を有効に使うことを考えるべきなんじゃないのか。足りない部分に行き渡らせられる方法を、選択するべきなのではないか。