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少子化と労働問題3

2005年12月18日 19時03分22秒 | 社会全般
色々な議論を巻き起こした内閣府の報告(若年無業者に関する調査)ですけれども、分析手法もさることながら、他の統計資料との繋がりが今ひとつ判らない部分もありますね。雇用労働関係の統計についても、担当省庁によってまちまちであったりします。


従来の主な統計の例を挙げると、文部科学省の「学校基本調査」があります。この中では卒業数、進学・就業等の分類がなされますが、どれくらいが仕事に就いてるかというのも不明な部分があります(追加:高校中退者とかも統計数値には入ってこないかと思います)。「進学も就職もしない者」には家業・家事手伝いや海外留学なども含まれてしまっていたりして、現実にどの位の生徒が「本当に何にもしてない無業者」なのか、というのが不明であったりします。就職率も本当に正確な傾向変化を反映しているかちょっと良く判りませんが、「就職率」という用語は卒業者のうち就職した人の割合であって、「就職希望者の内どの位就職できたか」ということとは違います。これも誤解の多い言葉かもしれませんね。「就職内定率」とか、そういう意味で用いてしまってる場合もあるかもしれません。

まあ、いいですが、この就職率は中・高・短大・大学と言う順で見ると、90年とはかなり変わっています。
90年:2.8-35.2-87.0-81.0
05年:0.7-17.4-65.0-59.7
となっています。中卒、高卒のうち就職する割合がかなり減ってると思いますが、短大・大学でも進学などで就職してない人達が結構いると思われます。なので、全体的には「就職しない学卒者達」というのが実際に増えている、ということが観察されます。実数でも考える必要がありますけれども。


ここ2年くらいでは、「進学も就職もしない人」というのは減少傾向にあります。中卒であっても、海外にサッカー留学するとか、囲碁のプロ棋士になる為に院生に専念するとか、色んな理由があったりするので、これも一概に言えません。しかし多くの「進学も就職もしない人」は、何かの目標とかを持って生活していないかもしれません。彼らがどのような進路をとったのか、追跡して頂けるといいのですけれども。
就職数と進学・就職しない人の数を直近で順に見ると次のようになります。

01年 13268;20472
02年 11088;20864
03年 9310;19144
04年 8653;17292
05年 7892;15180

このように就職数は減少しておりますが、一方でいずれでもない人達も減少傾向にあります。01年までは後者の数は増加していましたが、これは統計の取り方の変更も関係してるかもしれません。

中卒者に対する求人も、就職者も減少傾向にある、ということは言えるかと思います。社会環境としては、高等学校以上の学歴を必要とする職種が増えて(単純労働が減ってるということでしょうか?)いるのかもしれませんが、求人を出しても実際に働く人が少ないのであまり求人の意味がなくて減少してきたという側面も考えられます。実際どうなのかは判りません。


中卒者に限らず、高卒者への求人もかなり減少しております。一昔前とは比べものになりません。10分の1という水準で減少しています。

厚生労働省の労働経済白書で見ると(これも統計資料があっちこっちでバラバラですな。内閣府に統計の司令塔を置くのであれば、もうちょっと系統立てて欲しいものですね。探すのが面倒)、代表的なところを記すと次の通りです。90-92-99-04年のそれぞれ3月卒者に対する求人数を挙げてみます。90年はバブル期、92年頃は概ね求人数の最大時期、99年は金融危機後に本格的リストラ開始時期(98年3月の新卒者採用を減らすのが間に合わなかったのだろうと推測、98年との落差は非常に大きい)、04年が最新データです。

製造業       571985-707323-142367-80089
建設業       114563-149988-37388-18044
卸・小売・飲食業 345470-409142-78319-46650
金融・保険業   25094-27800-3976-1980
サービス業     220637-294584-79791-64443
農林漁業      2317-2831-1017-1061

このような感じです。製造業ではかつて70万人規模で募集していたものが、今は8万人ですから、純減数は62万人分です。この受け皿が消滅した可能性がある、ということですね。これはグローバル化の進展にも影響されている(国外に工場移転?)かどうかは不明です。これほどの求人減少ということは、何かの理由があるはずです。正規雇用削減を積極的に行うようになってきた99年以降であっても、更なる削減を続けたということですね。経済財政白書で言うところの、「雇用の過剰」削減をまさに実践したとも言えるでしょう。若年労働者(特に新卒)は、現場で直ぐに使える能力は殆ど持ってないですから、企業としては「即戦力」を好んで求めるようになってきた、とも言えるのかもしれません。


就職内定状況(内定率)では、高卒が同じ年度で見れば95.3-95.2-83.7-76.7ですから、悪化していることは確かですね。大卒と短大卒は正確なデータが無くて、97年以降しかなかったのですが、一応書いてみると次のようになります。年は97-99-04です。
大卒 91.0-88.7-82.1
短大 82.5-79.1-68.5
このようになっていますが、悪化は高卒と同じ傾向ですね。特に短大卒というのが、かなり影響を受けた感じですね。これは恐らく就職を希望して就職活動を行った人々での内定率だろうと思います。希望してなかったり就職活動をしなかった人達がどうなのか、というのは不明です。


大卒の「進学も就職もしない者」(以下、大卒無業者と呼ぶ)を見ると、学校基本調査のデータからは次のような傾向があります。
90年の卒業者は約40万人、就職約32.4万人で大卒無業者は約22000人(約5.6%)であった。これが96年になると卒業数が約51.2万人と初めて50万人を突破、就職約33.8万人と90年よりも多いが大卒無業者も約8万人と増加している。00年では約53.9万人卒業、約30万人が就職、約12万人が大卒無業者、04年は約54.9万人卒業、約30.6万人が就職、約11万人が大卒無業者ということになっています。ただ、03年以前は外国学校とか専修学校への進学も大卒無業者にカウントされており、現実的な数がどうなのかは不明です。海外留学がそれ程珍しくなくなって、かなり海外へと向かっていったと思いますので、大卒無業者の全部が本当に何もしていないかというとそんなことはないと思います。また、就職数ですけれども、最も多かった92年の35万人と99年の32万人とでは3万人の違いに過ぎず、最悪期とも言える00年や03年でも30万人程度ですから、「雇用が悪化している」とは言いながらもそれなりの数が就職していることはしている。しかし、問題は出てくる数が相当増えていて、あまり就職に有利ではない大学を出ても就職出来なかった人達は結構存在したであろうと思われる。それが大卒無業者の増加という形で出て来た可能性はある。また、「一時的な仕事に就いた者」という数で見ると(恐らくこれはフリーターという意味であろう)、90年に3645人、92年でも3941人であったのが、96年には1万人を超え、00年には2万人を超え、氷河期の03年では約2万5千人となっている。だが、これは大卒無業者よりも少ない数であり、実態とは異なっている可能性がある。


採用する企業側としては、高卒の採用を減らしていき、大卒もそれなりに減ったりしたが、一応30万人ラインは大体維持されていた。しかし、大卒新卒者は増える一方で、正規採用から漏れた人々が累積していくこととなり、就職の絶対数(イス取りゲームのイス数)はそこそこ変わらずにあった(30万人分)が、競争者達が多いので就職戦線から降りる人々も出てきたのかもしれません。これは「大学を出て、いい会社に入る」という幻想とも言うべきパターンを多くの人々が信奉していたからなのかは不明です。ですが、元々生徒数が多く(団塊ジュニア層)、大学進学率もそれなりに高くなってきて、大卒者への仕事供給は追いつかなかったということがあるのではないか、と思います。それか、自営業者の減少とか(家業を継ぐ人が減って、被雇用者の道を選ぶ方が多くなった、とか?)、離農者増加といった産業構造変化も関連していたのかもしれないけど。


仕事供給が追いつかない理由というのも、正確には判らないけれども、これは女性の就業が関係しているのではないかとも思う。それは「自立した女性」として仕事を頑張る女性たちが増えて、そういう考えを持って働いていた人々が中々「仕事を辞めない」ことによって、「空きイス」が出来なくなってしまった可能性があるのではないかな?ということです。仕事に張り切っていた女性たちは、20代~30代くらいの人達でなかったか、と。結婚して専業主婦になる、というような古臭い考え方を持たないことでも、そういう「仕事を頑張る」女性たちが残っていたのではないのかな、と。97年以降の労働力化率は減少トレンドであり、景気回復の兆しが見えてきた03~04年くらいでも減少傾向である。ところが、25~29歳女性の労働力化率の変化を見ると、75年頃(ウーマンリブ?とかの頃?ちょっと古すぎてよく判りませんけど)からの長い上昇トレンドであり、「仕事をしよう」という女性は労働力人口として増加してきた、ということが言えると思います。昔みたいに、「職業婦人は~~」とかの批判はなくなり、学校を卒業した後で花嫁修業の為に仕事に就いたりせずに過す人達にも殆ど出会わないですね(笑)。つまり、大抵の女性は卒後働く、ということで、90年代前半に就職したような女性たちの多くは、直ぐに結婚したりなぞせずに、仕事を続けたりしてきたのだろうと思う。それ以後に新卒で就職した女性達の中には、「何かの仕事能力」を得て、派遣や契約社員などの形であっても仕事の現場に存在し続け、一定の仕事量を確保してきたんじゃないかな、と思うのです。


その分は、後から参入しようとする人達(新卒の人や正規採用されずフリーターなどで生活して、次のチャンスを待っていた人達かな?)にとっては、座るべきイスが余ってない状況も想定される。これが本当かどうかは判らないけれども。平均結婚年齢が上昇したこととの関連性はよく判りません。例えば「結婚への幻滅」というのが強くて、その結果結婚したがらない女性が多く出ると、勢い「仕事に生きてやる」とかって強い決意を生んだかもしれない(単に1人で生きていく為には必要という事情かもしれない)し、仕事が好きで好きでしょうがなくて「自分のキャリアを大切にしたい」と思うことで結婚を先延ばしにしてきた女性が相対的に増えたのかもしれない。そこら辺の事情とか女性の考えはよく判らないが、25~29歳の女性における労働力化率では、仕事を続けよう・やっていこうとする女性が過去30年間に渡って増えてきたトレンドを物語っていると思う。


男性はどうなのかというと、00年以降の傾向としては労働力化率は減少傾向であり、特に24歳以下の年代では男女共に低下傾向が見られる。就業を希望していない層が増加した為なのか、他の進学や仕事以外にやるべきことが増えたからなのかは不明である。労働力人口と非労働力人口の区別としては、「求職活動をしているか、いないか」というのが大きな違いとなっており(失業率もそうなんですが)、内閣府の調査においてもここの違いに着目して区分したんだろうと思います。つまり、求職活動「あり」(いわゆる失業者)と「なし」(非労働力人口)群に分け、後者の群でさらに就業の希望「あり」と「なし」という具合にしたのだろうな、と。従来非労働力人口に算入されてきた若年者を探ろうとしたのではないかな。


疲れたので、とりあえず載せます。


少子化と労働問題2

2005年12月18日 14時16分12秒 | 社会全般
問題が非常に大きすぎて、個人の手に余るのですが、もう少し考えてみたいと思う。私が以前から提案していることは、個人単位の社会保障を確立した方がいいのではないか、企業等の雇用側は正規・非正規雇用に関係なく応分の負担をするべきではないか、ということでした。これは個人に入ってくる賃金という形(要するに貰う側にとって目に見える形)での平等効果(言葉が変ですが、表現が思いつかないので)ではなくて、社会的負担とか制度的なバックアップになるかと思います。個人の賃金を「同一労働・同一賃金」という金科玉条で解決しようとするのは甚だ困難である、ということには同意します。これはどこまでを「同一労働」と考えるかにもよると思うからです。ここを区分することはかなり困難だろうと思います。


また例で申し訳ないですが、仮にとあるラーメン屋があるとします。人気店でいつも忙しく店員達も休む間も無く働くということになるのですが、一方不人気の店もあってこちらはダラダラと仕事をしたりするとします。これはどう見たって、人気店の方が大変で不人気店は楽かもしれないですね。となれば、同じ「ラーメン店」ということであっても、賃金が異なるのは仕方がないのですね。これは売上ということにも相関しており、ひいてはお客様が「仕事の価値」を判断するという市場原理が働いているということにもなります。店員の賃金を間接的にマーケットが決めるという部分がある、ということです。これによって、とんでもなく不味い小料理屋とかイタリアンレストランは、マーケットの評価を受けて安い賃金が決定付けられ(悪けりゃ退場かな?)、良い仕事として評価が高ければ高い賃金も可能ということです。経営者の判断もあるので一概に言えませんが、従業員達にとっては良い評価を受ける店での就業によって、「不人気店よりも高い賃金が貰えるかもしれない」とか「賃金は少ししか変わらないが良い店の作り方を学べるかもしれない」というような利点が生まれます。なので、同じ仕事として「同一賃金」ということを実現するのは、中々難しいと思います。業務格差が少ない、例えば「中学校教員の業務」や「廃棄物回収業務」のような仕事においては、それなりに似た賃金体系が望ましい場合もあると思いますが(これも、最低賃金という意味で水準を設定することには意味があると思いますが、業績評価(それに応じた賃金上乗せ)はまた別の判断が必要なのだろうと思いますけれども)。


同一賃金という方法ではなくて、雇用の大きな分断となっていると考えられる社会保障の部分について、「格差を縮小する」という方が望ましいのではないかと思っています。それは例えば年金モデル世帯における「専業主婦」世帯と、共働き世帯の不平等にも現れています。専業主婦に優遇的であり(政策として女性の就業率を下げたい、という目的でもあるならば別ですが)、女性が自分の仕事を続けることによって不利となってしまう面があります。今後労働人口が減少していく中で、貴重な労働力として考えるのであればなおのこと、仕事をすることが賃金や年金に反映されるような社会保障制度が望ましいと思いますね。

それよりももっと大きな問題は、所謂フリーターと呼ばれる若年者達の「労働者としての権利」は考慮されているのか、ということです。国民年金や国民健康保険という制度に加入可能ですので、決定的な不利とまではならないとしても(しかし一部には未加入・未払い問題がある)、雇用保険にも未加入となってしまったりすると失業時の「保障」というのは全くありません。雇用契約においても不利な取扱となってしまい、実質的には正規雇用者達と大きな違いがない業務従事であるのに、権利は殆ど守られることがありません。こういう若年者達が増加することを許容するのであれば、それも仕方がないでしょうけど。


若年者達がフリーターやニートと呼ばれるような状況となってしまうと、その後の採用においても新卒者に比べて不利を覚悟しなければなりません。企業への調査においても約3割が「採用しない」としており、影響がないと考えている企業もあるものの、就業チャンスは少なくなってしまいます。それだけ「狭き門」となる、ということです。またフリーターの5年後滞留率(今フリーターの人が5年後にもフリーターである割合)は6割弱となっており、一度フリーターの道を歩み始めると、もう正規採用への道が閉ざされることも有りえる、ということです。このような人々は一生涯労働者としての権利を守られることなく過ぎてしまうかもしれないのです。それならば、働き方による区分を設けないようにして、賃金の差があるのは受け入れる(個人的能力などの違いもあると思うので)としても、社会保障という部分では大きな格差が生じないような方向性の方が望ましいと思います。すなわち、「正規雇用」「非正規雇用」という区分を、社会保障とか労働者権利からは無くしていく、ということです。現在のフリーター達にとっては、いかに転職を繰り返して沢山の仕事に就き、色々な経験を積み重ねたとしても、その後の仕事や賃金には反映されない場合が多いのではないかと思います。フリーターの職歴はほとんど評価の対象とならない、ということであれば、その人にとってそういう働き方はマイナスでしかないのですが、現実には雇用側がそういう若年者を求めて求人を多く出していたりするのは、別な見方をすれば大変ズルイやり方なのです。


雇用者側の社会保障負担が直線的になるのであれば、評価も概ねそのようになっていくと思います。一定の能力を持つ個人に対しては、その仕事の出来に応じてそれなりの賃金が支払われると思います。市場創生期では派遣・契約社員達の保障が不十分であることも多かったと思いますが、改善が進んでいる面もあるかと思います。正規雇用ではなくとも、そうした労働者達の権利を保護しようという意味だろうと思います。流動的な雇用ということも理解できますので(特に景気循環に左右され、昔のようにクビになってしまうリスクというのもそれなりにあったのかな、と)、働き方などによらず仕事の評価を受けられること、それに見合う保障や権利が確保されること、などが望ましいと思います。それによって、従来の正社員達の中に起こりつつある過重負担(週60時間以上の労働など)も緩和されるかもしれません。多くの若年者達は何か特定の仕事の能力とかスキルとかを身につける前の段階ですので、どこかでそうした教育とかトレーニングを受けないと、派遣にも契約社員にもなれない、という面もあると思います。正規雇用から漏れてしまって、キャリアを積める機会すらない、という状況が続くということになります。それがフリーター歴が長く続いてしまう理由の一つなのかもしれません。


若年労働者達の権利とか保障をどのように考えるか、職歴と個人の能力アップをどのように考えるか、幾つかに区分して問題解決の糸口を探すしかないと思います。




少子化と労働問題

2005年12月18日 04時29分48秒 | 社会全般
最近ちょっと肉体的に弱ってますけど、思うところを書いてみたいと思います。人口減少社会となっていくことは周知と思います。少子化によって若年人口が減少してしまう為ですね。最近の若い人達が結婚しない為に、生まれる子供達も少なくなっていることが影響しているとも言われてます。平均結婚年齢などからは晩婚化が窺えますし、生涯未婚率についても男性では12%以上ということも言われています。以前に各年代では男性が女性よりも常に多い、ということを書いたことがありますが、それが影響しているのかどうかは不明です。若い人達が結婚しない為に、産まれてくる子供が少なくなってしまうとしたら、そこへの対策を考えないと「少子化対策」としては不十分なのかもしれません。


では、なぜ結婚しないかというと、「お金がない」ことが理由の主なものとなっています。「パラサイト・シングル」の如く生活していた時期から見れば、結婚して独立した世帯を運営していかねばならないとなれば、それなりの生活力(昔でいうところの「経済力」と言うべきか、昨今の批判対象は大体こうした「~力」ですから)が必要となります。若年層の収入基盤が脆弱であれば、どうしても結婚を躊躇うということも出てきてしまい、その上「コミュニケーション能力」にいくらかの問題があるとなれば、「彼女(結婚相手)の出来ない男達」という存在も生まれてくる可能性もありますし。そういう色んな要素があって、「結婚できない」「結婚が困難」というような状況を多く生み出すのであれば、そこへの対策は必要となってくると思います。


で、若年層の収入基盤の脆弱さは、フリーターなどに代表されるような「労働問題」でもあります。ニートという語感には、世の中全体に誤解を生じやすくなっているかもしれない、ということであれば(昨年末にネット上でも沸き起こった「ニート論争」などもその一端が見られるかもしれないですね)、別な用語を定めてきちんと分類することでいいのではないでしょうか。「若年無業者」と決めるなら、内閣府とか厚生労働省とか総務省の統計での「不一致」を改めて、統一的にデータを収集・分析していけるようなものに系統立てていくべきなのではないかと思いますね。評価の仕方や政策面での不一致などを理由にして、「分析が間違ってる」「言い方が望ましくない」「そういう対象者は含まれない(or含むべきでない?)」等々、著述的な論争を繰り広げても、若年者の雇用が良くなる訳でもありませんし、問題を抱える若者が救済される訳でもありません。

研究者や学者さん達に批判的に申し上げてるのは、「フリーター」という呼称を用いることが良くなくて「非正規雇用者」とするのがいいのか、そこには呼称に対する先入観が存在するかどうかが本質的問題なのか、その検討が問題解決に有効なのか、そういうことが本当に考えられているのか疑問だということです。「ニート」という言葉に、メディアで喧伝されたマイナスのイメージがあってよろしくない、ということを研究者達の多くが認識しているのであれば、教育関係の学会とか労働関係の学会(専門外なのでよく判りませんが、用語統一の影響力が大きいところが行えばいいのではないでしょうか)などで、きちんと定義して使えるようにすれば済むことです。定義や分類をきちんと行った上で、それぞれに必要な対策を講じていくということをそれぞれの専門分野において取り組んで行けばよいではありませんか。「目の前にある問題を解決する」ということに対して、あまりに無策という印象を拭えません。他に有効な方法を知っているのであれば、そういう施策を実施できるような「現実的解決」を至急実現することが国民にとって有利なのですから。


労働問題に戻りますが、若年者達の将来を考えていくのであれば、失業、フリーター、ニート等について課題があることは多くの研究者達が認識しているでしょうから、どういった方法を考えていけばいいのか、それぞれ出して頂ければいいのではないでしょうか。一つの方法論で済むものなのか、ポリシーミックスというような考えが必要なのか、ということも研究者であれば判るでしょう。


若年層における失業率に対する要因分析では、雇用環境(景気動向などの要因)の影響が最大なのか、他の要因が影響力が大きいのかは、専門家であればきっと判るはずですね(ミスマッチ要因が最大、という研究がありますが、その信頼性は評価できる人達が正しく評価してみて下さい)。フランスやイギリスにおいて若年層の高い失業率が見られるように、確かに景気動向に左右されやすい若年者の雇用情勢であるということは日本だけではないだろう。きちんとdecent workが若年者にも(他の労働者達にも)、もたらされるようにするにはどうしたらよいか、という答えを用意するのが専門家の役割なのではないかと思う。employability の問題なのか、他の教育制度の問題(いい学校、いい会社幻想?)なのか、道徳教育的な問題(笑)なのか、それとも産業構造変化に伴うemployment creation の問題なのか、詳しい原因分析によってそういうのが見えてくるかもしれないですね。


懸念がある、誤解を含んでいる、・・・色々あると思いますが、変化の特徴を捉えること、その変化は有意なものか、変化の原因は何か、変化に与える影響の大きい要因とは何か、それぞれの要因に対策はあるか、どの対策が最も効率的か(効果のある順はどうなってるか)、そういう分析を積み上げていくべきではないかと思います。「ニート」「フリーター」などの若年雇用の問題は、ここ1~2年くらいで浮上したことですか?それ以前は無かったのですか?そういう問題は元々存在しない、ということなのであれば、今取り立てて問題視する必要性もないでしょう。誰かが世の中に問題提起を行って、それが俎上に上ってきたのであれば、そのこと自体には意味があると思うが。問題意識というか、そこに目を向けさせたことに一定の効力があったのではないか。



中央公論1月号の中身2(追記あり)

2005年12月17日 00時00分04秒 | 俺のそれ
この前買ったのですけれども、ウチに置いておいたら、妻や子供が勝手に読んでいて、色々と話の種になって良かったです。女子供に人気があったのは、やっぱり「教育再建」でした。中でも、養老氏の書いた『「先生」が成り立たない時代』が一番人気で、「面白い」というもっぱらの評価でした。こういうのって、好みとかあるんだろうと思うけど、家族は多分養老先生の書いたものとかは一度も読んだこともないと思う。きっと『バカの壁』も。私も、殆ど読んだことがないけど、文庫本を持ってるくらいかな(タイトル忘れた。何かの雑誌に連載していたのをまとめたものだったと思う)。それでも面白い、って思うんだなー、って思いました。


この次に人気(話題が多かったということ)なのは、最初の藤原氏と櫻井さんの対談。「今はお天道様って言わないんだね~」「ウチではたまに使うかもね~」「本が無い家ってあるの?」などなど、色んなご意見を聞かされました。何と言うか、「現場主義」って感じの会話なんですけれども。立派な理論とか難しい理屈とかを知らない者たちだけで会話してるから、自分達の身近な日常レベルで考えるということしかないんですね。それは仕方がないんですが、こういう話題で盛り上がったりするとは全く予想してませんでした。買って良かったと思いました。元は取れたかもしれないです。回し読みでしたし。


取り急ぎ、載せます。


あー、翌日になってしまいました(笑)
酔っ払いモードかもしれません。


それはどうでもいいですが、教育の話になると、女性にも関心が高まるようで、新聞の下段広告を妻が知っていたらしく、「丁度読んでみたいと思っていたんだよねえ」と言っていた。へー、そうなんだ。と、意外に思いました。

教育問題について、中央公論を買ってまで読みたいとは思った訳ではなかったんですけれども、私は。デイトレーダーの話が気になったというだけでして。私の方が不真面目な感じがしました(笑、記事のレベルがどうのこうの、とかではなく。本当に)。何だか、負けた気分(何に?)。

女子供にもかなわないということですな。


ところで、個人のデイトレーダーでも、本格的に凄い人がいるんですね。みずほ証券の誤発注問題で、個人で5億円以上利益を出してた人がいたかと思ったら、別な27歳の無職男性が20億円以上の儲けだったとか(デイトレーダーかどうかは知りませんが)。凄いね。こりゃ、本格派ですな。買い資金が30億円以上、7100株も買っていたんですから。6000株は保有したままだったそうな。現金決済に応じたそうです。54億円以上返ってきたはずですね。凄い!の一言です。

現実にそういう人達がいるんだということがわかりました。一発逆転とかではなくて、既に逆転し終えていますね。特別な才能が備わっているのでしょう、きっと。



接待のこと

2005年12月15日 19時05分35秒 | 社会全般
この前書いたんだけど、消してしまった幻の記事(笑)を書いてみます(先日書いた中身とは全然違う感じだと思うけど)。今から15年くらい前だったでしょうか(もうちょっと後だったかな?)。バブル末期か、崩壊直後かそこらあたりだった。ある飲食店で友人達数人と飲んでいたら、偶然隣に接待御一行様がやってきました。その中に知り合いがいて、話をちょっとすることが出来ました。


彼らは、某証券会社とその顧客ということで、証券会社からは男性2人、女性3人、顧客はたった1人でした。接待を受けてるのは1人だけであり、他はもてなす側なのです。接待を受けていたのは高々30歳くらいの男性で(当時は私も若かったので、その男性を見ると落ち着いてるな、と思ったものです)、証券会社側はやはり若い感じの男が2人(このうち1人は知り合いでした)と多分OL(当時はそういう呼び方であった)3人という構成でした。

その某証券は当時の銀行系子会社で、今はその銀行は存在しません。統合によってメガバンクになってしまいました。先月くらいに、その銀行出身の偉かった人(大型合併などを手がけた)が亡くなったという報道がありました。その銀行系証券の若手社員達が来てたということですね。


接待されてる男(以下、J男と呼ぶ)は、やけに明るく私にも話しかけてきて、自分が今勤めてる会社(農業系団体のJ○だったか、鉄道会社のJ○だったか、だと思う)とか年齢とかを教えてくれた。既に出来上がっている様子だった。で、彼がその会社の恐らく「運用担当部門」(のような部門?)の責任者で、「どこの証券会社に金を預ける(運用する?)か」という決定権限があったのだろうと思う。会社本体の金なのか、職員組合みたいなのの金なのか、それは分らなかったが、きっと「結構な金額」なのだろうと思った。だって、5人で接待ですもんね。

陽気な男は、「オレが決めるんだもんねえ~」と王様気取りだった。発注側と受注側では違いがあるな。ちっぽけな決定権限であっても、そうした権限行使が大きな意味を持つので、「王様」的な振る舞いが出来るのだ。まさにそういう関係だった。


きっと公務員達も当時はそういう接待は受けていた(ノーパンしゃぶしゃぶ発覚前だったし、笑)だろうから、接待される側の「王様気取り」はその時代の慣習的なことだったのかもしれない。役所の建築とか土木部門の部長や課長とか何とかの役職者の下には、日参業者達(毎日何の用事もないのにやってくるご機嫌伺いの業者)がわんさか押しかけていて、毎週ゴルフだの夜の接待だのと、相当「接待漬け」にしていただろう。大手建設会社には接待専門の担当者がいて、そういう人達は本当に毎日のようにゴルフとか夜の接待をしてるらしい、って聞いたことがあった(実態は判らないが、当時はそういうような時代だったということだ)。


当時、そのJ男が自分の手に握っていた何某かの権限は、彼に「王様気取り」をさせるには十分だったのだろう。一種の役得として、彼はきっと証券会社の連中にそれとなく、又はあからさまに接待を要求したのだろう。で、野郎同士でただ飲んでもツマラナイので、会社の女子(OL)を呼べ、ということなのかもしれないな。ある種の合コン要求だったんじゃないかな?(笑)そこで、ちやほやされていい気になり、J男は「そーさ、オレが決めるんだーー」とか酔っ払って、私に自慢していたのだろう。私も仕方なく「まだお若いのに、凄いですよねー」などとどうでもいい相槌を打ち、彼は上機嫌であった。私は勿論不機嫌だった。その後、この接待御一行様は、次の店へと消えていった。


二度とJ男には会うこともなかったが、その後証券会社が仕事をゲットできたのかどうかは知らない。王様になったかのような振る舞いで、J男がいい思いをした見返りにその証券会社を果たして使っただろうか?(案外競合他社にも同じように接待要求してたかもしれないし)。

別に、こうした接待が悪いとは言わないし、「民-民」の接待なんだから別にいいけど、若かりし頃の私にとっては非常に印象深かった。社会の仕組みの一部を垣間見たような気がしました。こうして「有頂天になる輩」というのがきっと生まれてくるに違いない、とも思いました。ある人に不相応な権限を与えると、その行使出来る権限を盾にして、不必要なまでに「オレ様に力・権限があるんだ」ということを強調する人がいる、ということです。その後にも、稀にそういう類の人達を見かけたことがあります。彼らには「タカリ根性」が染み付いていて、そうした連中を見るとセコイやつらだな、と感じます。嫌気が差します。現在のような企業経営環境では、昔みたいな「会社の金だから」というような感じで湯水のように接待に遣うということもなくなってきたのではないかな、と思いますが、どうなんでしょうか。きっと昔のような接待は、官官、官民は勿論、民民であっても減っているんじゃないのかな、と思います。きっと「昔は良かった」という役人の方々がいるだろうと思いますね(笑)。


昔は本当に凄かったのですね。そういう競争が。接待する側も、される側も。どんどんエスカレートしていったんですね、きっと。私には全くの無関係な世界の出来事でしたけれど。

今ならさしずめ「メイド喫茶」接待とか?(爆)そんなのないか。



画面表示がおかしいのはナゼ?

2005年12月15日 12時27分06秒 | 俺のそれ
昨日もそうだったけど、デザインとか何も変更してないのに、画面の表示が左半分がデカクなってる。これはナゼ?

コメント欄の表示とか、カレンダー表示とか、その他モロモロ、変な表示に変わってる。でも昨日夜は普通に戻ってた。ヘンだぞ?

理由は不明です。どういったことでこのようなことになるか判りません。いっそ他のデザインに変えてみようかな。


証人喚問があった件

2005年12月14日 16時39分13秒 | 社会全般
印象を言えば、元木村建設・篠塚東京支店長というのは、かなりの「たぬき」と思えた。姉歯を叩いて自分の懐にキックバックを掠め取るような人だから、かなりのタマと見えた。木村社長は操り人形的な人物なのかもしれない。総研にいいように利用され、「多分まずいんだろうな」という程度は知っていたかもしれないが、それがどういうことになるのか、という部分についてまでは「何も考えていなかった」というような人なのかもしれない(はっきり言うと、ちょっと話しの理解が悪い人みたいな感じ。演技だとすると名演技だな。まるで他人事のような感じ)。だが、篠塚支店長は、平成設計と総研と木村建設と、そのグループ内でどういう仕事をするか、ということは十分知っていたはずだ。答弁の仕方も、篠塚支店長の方が「いかに責任を逃れるか」ということに腐心していたように思う。


普通、どの業界であっても仕事の発注者と受注者の立場関係で、暗黙の力関係がある。姉歯建築士の立場では、背に腹は変えられない、という弱さがあったのだと思う。拒否する強い意志があれば・・・というのは、人間の弱さが関係するのかもしれない。「仕事が取れない」となれば、良からぬ仕事に手を貸してしまう。弁護士の中にだって、金融業者と密接に繋がって「債務整理」を謳いながら別な「ヤミ金」に債務者を送り込むような人達も実際に存在してたし。狼の群れの中に、いたいけな羊を放り込むようなことをやるのだ。


「オタク以外にも業者はごまんとあるからね」
これは色んな業界に通用する殺し文句とも言える。下請けの中小企業が価格交渉をする時に、「泣かねばならない」となるのは、他に発注するよ、という暗黙の圧力が働くからだ。支店長は姉歯建築士から「金をバックしろよ」と強要したようなものだ。それは工事というか建設の何の部分でどうやって「金をひねり出すか」「おこぼれを頂戴するか」ということを、「よく知っている」ということだ。姉歯建築士は、ある意味被害者とも言えるかもしれない。篠塚支店長のような人間が、姉歯のような弱さを持つ人間を餌食にしたようなものだろう。「わかってるよな?」と言われりゃ、それが「何を意味しているか」ということも暗黙に判っていたはずだ。支店長は、「毎回は言ってない」という証言をしていたが、それは事実だろう。何故なら、圧力が一定の効果を持つようになれば、「大体いつものようにやってくれ」と言えば、「平米(単位面積当たり)で○○kgくらいまで落とせるだろ?」とか(たとえそれが違法な水準であっても)を意味することになるだろう。


工事現場に運び込む鉄筋量が、他の現場と全く違うとしたら、普通は誰でも気付く。他の現場と半分とか3分の1くらいしか積んでなかったとしたら、そりゃ「やけに少ないな」と気付く。工事を担当していた木村建設が工事現場を管理していて、それが気付かないはずがないと思いますね。大体資材調達する際に細かい見積りを出すから(普通はソフトに入力して、定型的なパターンとして出されるはずであろう)、構造計算の結果必要な資材を調達する時に、同じ規模のビルと全く違う量であったら、普通は分からないはずがないのでしょう。構造物の材料が急に減るというのは、通常有り得ないな、と判るはずですね。よっぽどの技術革新とか、材料学的な変革とか、そういうものでないと有り得ないことだろうと思います。仮に、木造船を作ろうとした時に必要な材木量が、同じ規模の船で数分の一で済んでしまうということはないでしょう。これが船体の材料がグラスファイバーに変わって、重量も使用材料も大きく変わる、というようなことでなければ、使う材料がそれ程減ることは想定できないはずでしょう。専門の船大工が「こんな少ない木材で船なんて作れねえ」とかって感じるはずだろう、ということですね。


コンサルタントとかブローカーとか呼ばれる(若しくは自称する)人達は、ちゃんとした人達も多いと思いますが、特定業界に強みを発揮して、業界内部での情報を仕入れたり何処からか聞きつけてきてくるんですね。事業を行おうとする人達に定型的な事業計画書を持ってきたり、他の業者達との交渉とか許認可の申請とか、そういったことを引き受けて、利益を得るのですね。事業に手馴れた人達とか人的資源を多く持つ企業とか、そういった事業者以外では案外素人的なことも多いかもしれず、今回問題となったビジネスホテル事業であっても、新規事業の遂行となれば知らないことが多かったりするかもしれません。「~~ホテルも○○コンサルに頼んでやってもらった」というような情報を知ったり、建築関係の業者達などから「○○コンサルを紹介しましょうか」とか言われたりすることもあるかもしれません。そうすると、事業者はあらゆる交渉ごとなども含めて、コンサルを頼ってしまうかもしれません。きっと色々な業界で、そういうコンサルが存在してると思います。


総研もまさにこういうコンサルだろうと思っています。しかも業界内ではよく知られたカリスマ的コンサルということで、きっと事業の仕切りは十分よく知っていたでしょうね。事業者はこういう連中が「何処から利益を抜くか」ということがよく分からないと思います。普通は気付かないと思いますね(私も知らないけど)。裏ではくっついているということも。コンサル、設計、施工業者、これらが一体となっているということにも、中々気付きにくいと思います。


コンサルが「もっと安く、早く出来ますよ」と、それまで予想していた計画よりも、はるかに初期投資が少ない計画を持ってくるんでしょうから、事業者は「そんなに安く出来るんだ」と驚くと思いますね。そこに落とし穴がある。
「ウチの知ってる業者が請負えば、安くやってくれますよ」「もっと工事費を落とせますよ」とかを事業者に言うのですね。建築業者達や設計事務所は仕事が欲しいと思っているから、ここでも発注者と受注者の関係が生まれる。設計事務所に「(構造計算をクリアして工事費を)安く出来るところに出せ(探せ)」ということを指示するだけでいい。コンサルが「仕事を回す代金をよこせ」ということを受注業者(設計、建築会社)に求めたりするんですね。で、その謝礼を捻出するのはどこからか、ということになれば、他の計画よりも安くなっている以上、「引っこ抜ける部分」から取って来るしかない。今回の中では、「鉄筋を間引き」したとも言える。「姉歯を使え」と直接指示しなくとも、設計・施工業者に「構造計算をクリアさせろ」ということを言うだけでいい。


だが、犯罪認定となるには、実際にコンサルからの強制とか「違法性を知っていて施行をさせた」とか、そういうことがないと無理なんじゃなかろうか、とも思う。内河所長はかなり上手な感じがした。本当に総研が違法建築を強制したというようなことを、木村建設とかから証拠が出ない限り、コンサルの責任追及は難しいんじゃないのかな。議員さん達の怒りがちょっと「空回り」のような感じで、内河所長が薄笑いを浮かべ続けていた。

・・・というような印象でした。



「濡れ手で粟」

2005年12月14日 12時50分26秒 | 社会全般
やっぱりハイエナ軍団は、潜んでいましたね。プロの連中は、現金決済対象の株式の内、半分以上を占めていたとのことです。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - ジェイコム株UBSも取得、証券6社の利益169億


以下に記事より一部抜粋。

証券6社が取得していたジェイコム株は合計で5万3214株にのぼり、みずほ証券が8日に買い戻しをできず、現金決済の対象となった9万6236株のうち、55・3%と過半数を占めていた。8日のジェイコム株の平均株価(59万4979円)から試算すると、UBSを含む6社の株式取得代金は計約316億円。13日の決済で株の代わりに引き渡された現金の額は計約485億円で、差し引き計約169億円の利益を得た計算になる。
与謝野金融相は13日の閣議後の記者会見で「(証券会社が)誤発注を認識しながら、間げきを縫って自己売買部門で取得するのは美しい話ではない」と、これらの証券会社を批判した。


彼らは52000株以上の保有となっており、特にUBSは38000株以上買っていたらしい。UBS単独でも発行済み株式の2.5倍以上を買い占めていたってことだ。な、言ってた通りでしょ?プロが酷いことを散々やっているんですよ。彼らには、買い資金だけ返済して、利益なんざ払ってやる必要なんてないんですよ。だって、「誤発注」だな、って判っても、こういった買占めをするんですから、証券業界の同業者としては、風上にも置けないでしょ?個人投資家に説教してる場合ではないんですよ。与謝野さんが「美しくない」というのは、その通りですよね?「濡れ手で粟」ってのは、まさにこのことだ。みずほ証券の損失のうち、4割以上はこいつらの懐に入るのだ。


証券業協会(そんなようなのがあるよね?)の会員資格の「倫理規定」みたいなので、自主規制でもしたら?こういうのを「真似てる」個人はいっぱいいるんですよ。だって、「プロはみんなやってるじゃないか」って思ってしまう人達が、出てきても不思議じゃないでしょ?本当に紳士的な振る舞いで、「健全な市場形成・投資家育成」というのを目指しているならば、まず「身内」から襟を正すべきなんじゃないか?そうして、個人投資家達に手本を見せるのが当然なのではないか?中央公論の記事の中に「他人が不幸になるところに利益がある」というようなデイトレーダーの発言があったけど、それを地でいってるのがこうしたプロのハイエナどもなんですよ。


よく引き合いに出される有名な話がある。大正時代に、清水善造がウィンブルドンのチャレンジ・マッチ(前年優勝者への挑戦者決定戦、将棋竜王戦の挑戦者決定戦みたいな感じ)決勝で当時の世界最高選手と言われたチルデンと対戦した時のことだ。チルデンがコート上でうっかり足を滑らせ転倒した時に、清水は相手が起き上がってラリーを続けられるように、わざと山なりのゆるいボールを返した。転んだ相手に対して、ここぞとばかりにウイニングショットでポイントを奪ったりはしなかった。この時、試合は白熱した第三セット途中だったらしい。このセット、11-13までもつれたが(普通は6ゲーム先にとるとセットを取れる)、結局清水は4-6、4―6、11-13で敗れた。この年、チルデンは優勝したそうだ。


対決している相手に対して、正々堂々と戦って勝つという姿勢は、かつての日本人の中に培われていた。清水は商社マンだったらしいが、こうした美徳というようなものが根付いていた日本人が、かつては普通に存在していたのだと思う。だが今は、「勝てれば何でもいい」「儲けりゃいいんだ」という、「勝てば官軍」的な人々が多いのかもしれないな。与謝野さんが言ったように、「美しくない」話しが多すぎるのだ。


個人投資家の中には、発注ミスなのか何なのかとか、正確な仕組みを知らないで取引していることもあるかもしれない。だが、証券業者達はそれが「どういうことなのか」が判っていてやっている連中が殆どだろう。特に外資系が多いな。大量に買っていたのは、UBS、モルガン・スタンレー、日興コーディアル、リーマン・ブラザーズ(またかよ、笑)、クレディ・スイス(不正取引で業務停止食らってなかったか?以前に)、そして少しだけ(1000株)野村だ。こうしてみると、野村は相当少ないな。


勝負の世界は厳しい。それは確かにそうだ。だが、勝負の全てが「どんな手を使っても勝てばいい」ということであるなら、「美しき日本人」は本当に存在しなくなってしまうだろう。



中央公論1月号の中身1

2005年12月13日 21時14分20秒 | 俺のそれ
折角買ったので、早速ネタにさせてもらうことにしました(笑)。
「時評2006」というコーナーが出来たらしく、評者は3名でした。その内の1人は、池内恵氏でした。といっても、今までに何の関係もなく、特別存じ上げるということではございませんが、以前にブログ記事中にご登場頂いたことがございます。そのようなご縁で覚えておりましたが、今回初めて写真を拝見し「カッコイイじゃないですか」とちょっと思いました(笑)。私は特にそっち方面の趣味はありませんよ、当然ですが。本当ですって。


因みに、昨日書いた切込隊長氏の記事ですけれども、写真も一緒にあって、あれはちょっと・・・・「ウームぅ、マンダム」ポーズ(古い?知ってる人は知っている、笑)は止めた方が・・・変な上目使いも???。あれで写真を撮る時に、カメラマンに注意されなかったのでしょうか?もし注意されていたとしても、きっと「こっちの方が受けるから」とか「きっと写真にカラム奴がいるから、変なポーズにしとけ」とか言って強引に押し通したに違いないでしょうけど。ですが、中央公論読者層には、多分そういうので「これはなかなか・・・」と思う人は稀であると思いますが。そう考えると、折角のあんまり意味のない工夫というか、深遠な権謀術策も、深読みしすぎたがために、徒労に終わったかもしれませんね。


それはどうでもいいですが、池内氏に関係していたのは「よみうり堂」の書評でした。

面白い書評欄
イラクの邦人拘束事件のこと


だから?って、何でもないんですけれども。池内先生は「イスラーム」研究者ということらしいです。知りませんでした。「国際日本文化研究センター」って何だか不思議な名称ですね。日本の研究なんだか、国際的な研究なんだかよく判らんですね。「国際的に行われる日本文化の研究センター」でしょうか?違うか。それはいいのですが、池内先生はフランスの暴動に関する記事を書いておられました。勉強になりました。あんまりイスラムには興味がないもので・・・スライスハムは好きですけど(つまんねー、の非難轟々が・・・目に浮かびます)。


他に目を引いたのは、吉崎達彦氏が『国家の自縛』(佐藤優著)の書評を書いておられました。有名な方々は結構ネットに存在するんですね、ということが判りました。この書評記事とは関係ないですが、先日立ち読み致しました、『1985年』。買わずに申し訳ありません。『中央公論』なんぞ買わないで、『1985年』を買うのが筋とも思えますが(週刊・月刊誌の類なぞにお金を出す方が無駄な気もするので)、結構面白く読めてしまいまして、立ったまま読了したため買いそびれました。昔、こんなことあったな~って、懐かしく思いました(自分が年取ったせい?)。当時、不良学生だった私は、バイトや麻雀などに勤しんでおりました。その時の鍛錬のお陰で(笑)未だに「モウパイ」が結構出来てしまいます(現在は年に0~1度くらいしか麻雀をしませんが)。「脳の記憶力」(それとも指と小脳とか?)というのは、中々凄いものでございます。


特集の「教育再建」については、また今度。内容は全部読みましたけれど、有名人を取り揃えてあって、こういう人選もまたその雑誌のポジションというか、傾向というか、そういうのを表しているのかな?ってちょっと思いました。登場人物は、藤原正彦、櫻井よしこ、江崎玲於奈、甲野善紀、内田樹、小室直樹、鹿島茂、養老孟司(敬称略)でした。何となく、「あー、そ、そう・・・ですか」と。主に大学の教育者が多いですね。


とりあえず、用事で離れます。


クリスマスと「お菓子の家」

2005年12月13日 17時36分49秒 | 社会全般
finalventさんの所に書いてあった「クリスマス」に関するローマ法王の嘆き(finalventの日記)というのは、キリスト教徒ではない私にはその重みはよく判らないが、それでも「行き過ぎた商業主義」には十分共感できる。勿論ウチでも世の慣例に倣い(笑)、仏教徒であるにも関わらず、クリスマスとしてケーキを食べたり、プレゼントを買ったりするのですが、適度な範囲でやっとればいいとは思う。でも、あんまりにも「物質中心」という風潮には、やや辟易する。


先日たまたまウチの子が観てた番組があって、何となくチラッとみた。どこの放送局か忘れたが、幼稚園児にサンタを信じない子がいるので、豪勢な仕掛けを作って、子供達に「夢のような」お菓子の家やらゴージャスなケーキやら人気のプレゼントやらをするという企画だった。ドミノでそういった複雑な仕掛けをしてあって、そのドミノ自体が大量の箱入りお菓子であったりするわけだ。ドミノは校舎全体を使うので非常に大掛かりであり、使われたお菓子の量も半端じゃない。ジュースのシャンパンタワーとか、そんなものまであった。どういう意図でこんな下らないものを作ったのか、と思いました。子供達は確かに「夢のような」心地に浸れるかもしれない。だが、こんなことが教育上本当に良いと言えるのか?何も食べられない人々も世の中に多く存在するというのに、到底食べきれない程のお菓子やらジュースやらを使って、ごく少数の子供を、喜ばせるのがそんなにいいことなんですか?


こんなことに大金が遣われてしまい、しかも食べ物やジュースを無駄に大量に消費するのを推奨するかのような、「金まみれ」「物質まみれ」の番組制作というのも、理解に苦しむ。番組を観ていて、無性に腹が立ってきた。こんなことのために「クリスマス」があるんじゃない、サンタクロースも、空想に出てくる「夢のようなお菓子の家」も、こんな使われ方をする為にあるんじゃない、と思いましたよ。「お菓子の家」の如く物語の空想の中にしか存在しない、ということが重要なのであって、眼前に「食べきれないほどの食事やお菓子や果物」というものが実在した時、「もっと欲しい」という想像世界以上の欲望しか残らないのではないか、と思える。手に入れられないから価値があったのに、大人達の下らない商業主義のせいで、子供達にはさらなる物欲が植え付けられてしまうような気がしてならない。お菓子の家が存在してしまったら、我慢も節度も忘れて「それ以上のもの」を更に求めてしまうのではなかろうか、という危惧する。「飽くなき欲望」を具現化したものが、多分こういう番組なのかもしれない。それは企画を考え実行に移す大人たちのレベルが、そうした「物欲を満たすということに大きな価値観を見出す」(=子供達も当然喜ぶに違いない)、という程度だからなんだろうと思う。


普通の子供達は、ムシキングのカード一枚とお菓子一つでも十分喜ぶだろうと思うけど。どうして、その程度ではダメなんだ?あまりに平凡で普通すぎるから?そんなにドミノに使うほどのお菓子を買うお金があるなら、どこかに寄附した方がいいだろう?贅沢を絶対にしてはいけない、ということを言ってるんじゃない。節度というものがあるのではないか、と言っているのです。あんな番組を垂れ流されてしまっては、日本全国にも無駄に消費、という風潮を広めているようなものだ。


これを見たらさぞかしローマ法王も嘆くことだろう。こんな程度のことしか企画・放送できず、それにも関わらず「放送とは~云々」という居丈高な姿勢とがあまりに不整合で、はっきり言えば放送とはその多くが害悪に過ぎないのではないか、人間の醜悪さを映す壮大な装置に過ぎないのではないか、とさえ思えてくる。


日本人にとって、特にクリスチャン以外の人々にとっては、「モノマネ」的な便乗お祭り騒ぎが好きだ、ということなのだろう。まあ、経済効果はそれなりにあるだろうから、年中行事の一つということなのでしょうけど。



中央公論を買っちゃった

2005年12月12日 20時50分03秒 | 俺のそれ
生まれて初めて『中央公論』を購入してみた。ちょっと勿体無かったけど、買いました、一応(かなり以前に買ったのは『論座』でした)。立ち読みしただけでブログ記事に書くと、「卑怯者」のような感じだし。普段こういうのは買わないから、またしても出版社に「寄附行為」をしてしまった気分ですけど。それは別にどうでもいいけど、切込隊長氏が「書いた」と告知してたのと、「デイトレーダーぶっ叩き」がどんな具合なのか(笑)気になったからです。で、「カモにならないための個人投資入門―特集・ネットトレーダー・バブルの実態」を読んでみました。思ったより、ソフトだった。というか、寧ろ親心というような「大怪我すんな」「大ヤケドに気をつけろ」という印象だった。今までブログ記事に書いてきたことが、ちょっと関連してたので、嬉しかったですね。


記事は3本。切込隊長氏の「ギャンブラー投資家たちは、新しい資本主義を産むのか」、橘玲氏の「カモにならないための個人投資入門」、熊野英生氏の「素人トレーダーの危うい投資生活」でした。ちょっとは予想してたけど、本当に瀬戸際デイトレーダー達がたくさん参入してるんだな、と思いましたね。しかも、ここ2年以内くらいで、所謂、『一発逆転を狙う「下流社会」』層(熊野氏)の素人トレーダーが増加してるそうです。でも、過去の経験則(アメリカのデイトレーダー達の戦績)で言えば99年時点で70%が大幅マイナス、利益を出すのが11%しかいないんですと。切込隊長氏の記事でも、某ネット証券の個人信用取引口座のうち、03年以降に口座消滅は44%だったんですと。つまり半分くらいは「ヤラレ」てるかもしれない、ってことだそうです。そうだと思いますね、やっぱり。だって、どんなゲームにも「強さ」があって、レベルが低くて戦略も悪けりゃ、「必敗組」間違いなし、だもんね。そうすると、やっぱり相場(前にも書きましたが、「市場・マーケット」なんて生易しいもんじゃなく、「相場」って感じですね)の闇に葬り去られてる人々も結構いる、ってことですね。


割と深刻な状況のよう(にも関わらず、新規参入個人が増えそうなのはナゼ?やっぱりメディアの煽りが効いてるのかな?)ですが、特に若年層では「博打打ち」的な人々も存在するようです。「人生の一発逆転」願望があるということで、丁度株式投資がそれに重なっているようです。それ故、「テラ銭のほとんどない公営ギャンブルに足しげく通う博打中毒者とそれほど変わりはない」(切込氏)という、一攫千金夢追い人というかより強い刺激(パチンコで大当たりが来た時と似たような脳の興奮状態?)を求めてしまう人々がいるのかもしれませんね。あんまり過激なのめり込みとなれば、いつかは「破滅」する可能性がありますので、そういう人生は厳しいものがありますね。どんなゲームでも常勝というのは大変なことであり、「その道」で勝ち続けるのは「特殊な才能が必要」ってことが理解されず、成功体験だけが強く印象付けられていて、それを真似する人々がきっとたくさん出て来たってことなんだろうと思いました。


橘氏の記事は、金融商品全般に関して解説されていて、結局は「金融リテラシー」が重要、ということです。平成電電の破綻がいい例でした。これは切込隊長氏も書いてましたが。そういう「ウラ」の読めない人々が、かえって多くの利益を求めてしまい、罠にはまってしまってるんじゃないかな、と。確かにそうですな、きっと。昔のバブル(IT じゃない方の)の時にも、破滅的な損害を被ったのは、分不相応な取引(知識も判断能力も欠けている人達、カモねぎさんたちですな)に手を出してた人々だったのでしょうね、きっと。で、橘氏は次のように述べている。
「投資は偶然性に左右されるゲームであり、確実に儲かる方法などどこにも存在しない。だが、確実に損をする方法ならいくらでもある。金融リテラシーは、投資家が身を守るための唯一にして最大の武器なのである」

そうですよね。でも世の中の人々一般にはそうじゃなくて、先日の週刊ポストの見出しじゃないけど、「乗り遅れるな」「ボーナス倍増させよ」みたいな煽りばかりが出されてくる。天下のNHKさんだって、「ニュース10」で個人投資家の密着みたいなのをやっていて、「この日、○○さんは40万円の利益を手にしました」とかやってるし。サラリーマンが仕事の合間にも「株価チェックしてます」とか、携帯でも株取引をしている大学生とか、そんなのばっかりを放映しとるんですね。まあ、いいけどさ。


少しは両面を報道するようにした方がいいんではないですか?「私はデイトレードで百万いかれました」とかの人を呼んでくるとか。信用取引で「売り」損失が青天井に膨らんでしまって、住宅などの全財産を失いました、とか。そういう「お灸」もちょっとは必要なんではないですかね。公論の記事にもあったけど、極少数の成功者の陰には、その何十倍か何百倍もの「敗北者」達が存在してるんだ、っていう、「厳しい現実」を見せないと本当にわからん人々がいるからね。「オレは大丈夫さ。他の奴らはバカだからしくじったのさ」と思ってるのかもしれないけど。まるで映画『マトリックス』のネオのように、「あたかも銃撃戦の中で、自分は銃弾よりも素早く動けるので、決して命を落とさないと信じている感覚」(熊野氏)の言葉が、なるほど、と思えました。まあ、私も多少は株取引をやり、現物も抱えていますから、「(~~をきっかけに株価が暴落し)幸せな資本主義が崩れ去って」(切込隊長氏)しまうと、それなりに「泣き」なんですけど。


「月が満ちれば欠けるように、潮が寄せては返すように、必ずどこかで止まり、いずれ下がる」(切込隊長氏)というのは、その通りですね。その「いずれ下がる」時点が一体いつなのか、というのが気がかりではありますが。ある程度現金回収は進んできたので、適度なところで「傍観者」になるしかないと思っています。


でもね、株主優待は私みたいなしょぼい個人投資家にとっては、結構重要だったりする。そういうのに期待してる面も少しありますね。そういう魅力ある優待がついていて、配当利回りがそんなに悪くない銘柄は持っていると割と楽しいですね。


他の記事にも、よく見ると面白いのがあったので、折角買った中央公論ですので、ちょびちょびと記事に書いてみようかな、って思います。



検証作業というか・・・

2005年12月11日 19時06分42秒 | 社会全般
学者さん達は自分の研究してる内容などについて、色々と議論したり論文書いたり、書物に書いたりするんですけれども、それはどういう「検証」を受けてるのか全く不明のものも多いですね。特に、所謂昔で言う文系に。研究というのが、「誰かが書いた著書」として存在しており、その人が真実を書いてるかどうかは常に不明のことが多くて、言ってみれば「色んな学説」が氾濫している訳です。理系では、再現性があるとか、数値的答えが常に導き出されて誰でも確認出来るとか、仮説検証が別な人々によってある程度行われるということが多いのではないか、と感じています。


当然、世の中に認められようと思えば、有力学会雑誌や科学雑誌―代表的なのはNatureやScienceなどですね―に論文投稿しなければならず、そこで採用されるかどうか、というのも一つの目安というか、ハードルとなっています。たまに虚偽というかニセの論文投稿もあったりしますが、全体の中での割合はそれほど多くはない(検証してないから不明ですけど)かもしれません。普通は複数科学者に査読を受けて、論文が採用されるか却下されるか決まりますから、少なくとも自分以外の第三者達が複数で検討する、という作業が行われます。


ところが、文系の人達というのは、「誰々が何々に書いてた」ということが大きな拠り所で、大袈裟な表現をすれば「本」命(ほんいのち、です、本命ではなく、笑)みたいな印象を受けなくもない。あと、有力な人物が言ったとか書いたということも重要です。それは「有名人」(その業界内で知られた、という意味ですね)ということであって、無名人がどんなに良さそうな主張してもあまり信じられないかもしれません(日常生活でも、普通はそうですけど)。理系の研究というのは、例えば何かの調節を司る「新たなタンパク質を見つけた」という、普通の大学院生が書いた研究論文であっても、一流誌に採用され、他の研究者達にも確認されて(再現性があるということも有利なのでしょうが)認められれば、多くはその事実を受け入れますね。それまで何の研究成果がなくてもいいのです。有名である必要性も全くありません。そういう事実の積み重ねによって、知見が深まっていくということですね。


基礎研究ばかりではなく臨床的な研究でもいいんですが、先頃話題となったゲフニチブの作用についても、開発段階以前から多くの研究論文で有効性が確認されている(主に動物実験などでも)訳ですが、大規模疫学研究などでは「有意差なし」という結果も出てきたりするのです。高名な薬理学者やガン治療研究者が「この薬はガンに有効なんだ」と言ったことが重要なのではなくて、「研究結果」という客観的事実が重要視されることも多い(厚生労働省は民族的差異により違いがあるので、一概に言えない(日本人に対して有用でないとは断定できない)というような見解を示していました)のです。それが概ね議論の際に必要な基礎的材料と思われます。


文系の方々は、そうした基礎的な判断材料がうまく提示できなかったり、情報の分析が正しいのか正しくないのか、という検証もあまりされず、第三者からの評価もあまり受けず、ただ著書に書いてあることを挙げたり、文献として羅列に加えるのですが、それにどういう科学的な意味があるのかは通常提示されてません。結局「最初に言い出した者」の言うことを信じているのか、それを信じないとしたら否定する科学的根拠とは何か、ということが殆ど不明なのです。社会学とか経済学における(他も色々あるかもしれませんが、よく判らないのでとりあえず例示)研究者達が信じる共通の理論とか原則みたいなものは、一体何なのでしょう?証明できないようなことをいくら取り上げて議論したとしても、何が正しい(正しそう?)のか誰も判定できないように思うけどね。そういうのが、無駄な議論の積み重ねになってる、としか感じないけど。これは以前にも書いたんですけれども(諮問会議批判噴出)。


いつものように、変な例で考えてみたいと思います。
「最近の日本人は赤信号であっても横断歩道を渡ったりすることが多くなり、これは国民の規範遵守の意識が低下していることの顕れである」
こういうご意見があるとします。普通に考えると、まあそうかもな、って思うのですが、本当にそういう国民的な傾向を示しているのか、誰も知らないんですね、実は。で、議論となれば、違うとかそうだとか分かれるのですが、双方とも幾つか考えられる証拠を出して来るのです。

これも全く適当(実在しませんからね)な例を出してみます。
・証拠A
「学者Xは著書~~の中で、『近年の企業や官公庁の偽造事件、不祥事隠蔽事件などからは、規範やモラルの崩壊が見られる』と述べている。」
・証拠B
「赤信号で横断している人を見たことがあるか、という調査では約9割が「見たことがある」と答えている」
・証拠C
「自動車の運転者の違反状況を調べると、赤信号(無視)の反則は経年的に減少傾向である」
・証拠D
「赤信号で渡る時、罪の意識を感じる人は約70%」
・証拠E
「学者Yは著書~の中に、『違法行為を犯す者は、それ以前に小さな規則を破ってる者が多い』と述べている」

こんな感じでいくつか出されたとしましょう。で、上の規範の問題に関する議論があったりすると、自分の意見の強化として学者XやYの述べた言葉が選抜されてきて、「ほら他の学者もこう言ってるでしょ」と提示しなければならんのです。でも中には、「学者Xはトンデモな学者だから、証拠Aは認め難い」とか反論される(笑)こともままあるわけです。企業倫理の信頼失墜は日本国民全部の低下を示す訳でないですし。でも、そういう部分から恐らくこうだろう、という状況証拠みたいな感じで出されてくる。で、その証拠採用にまた別の議論となってしまったりする。反論としては、証拠Cなどが出されたりして、「赤信号無視は減ってる傾向も見られる」ということが本当なのかどうか、ということが議論されるのです。運転者と歩行者は違うだろ、事故に繋がる場合の被害を想定すれば云々・・・という具合ですな。証拠Bで「見たことがある」ということと、常時横断している人の数は違う、交差点で信号待ちしてても、赤信号で横断してるのは待ってる人達の半分もいない、とかも言われる。証拠Dの如く、多くは罪の意識を感じているから、規範が崩壊してるわけではない、とかも。学者Yの主張は、犯罪者を対象としていて通常の国民の実態とは関係ない、犯罪者ではなくとも校則違反とか小さな違法行為の経験はきっとあるはずだ、とか。他にも都会では車の通行量が多いので渡る割合は少なく、田舎では滅多に車が通らないから殆どの人が赤信号で渡る、これは単に車の通行量という周囲環境の問題であって規範意識の問題ではない、とか。


こういう簡単な意見であっても、いくらでも議論の余地があって、それぞれにもっともらしいことを言うわけですね。そのうち、「そんなのは科学じゃない、論理的じゃない」「想定してる前提が違う」とかまで行き着く訳です。普通は、そんなの議論の開始前に判明してるんですね。本来科学的じゃないような事柄を扱うのに、科学的であると信じて疑わない人々が無駄な議論を重ねようとするのです。そもそも議論の以前から、当事者達にそういう意識がないんですね。


赤信号問題であれば、例えば東京の何処かと群馬の何処かで調べて、どの位の割合が赤信号で横断したか、その結果、通行量が影響したのか、横断者達の何の要因なのか、などと検討するんでしょうが、通常面倒なのでそういう調査はされないですね。であれば、単に「こう思う」の域を出ないものなのだ、ということを受け入れていればいいのですが、「それは違う、君達は間違ってる」ということを言い続けるのですね。証拠そのものの正しさの証明すら出来てないものを、双方の議論の土台とか前提に採用するのが、本当に「科学的」ってことなんでしょうか?何だかよく判らんのですが。


ですが、全くの適当な論評をする人達(例えばテレビで解説するとか、新聞・雑誌などに登場する人達)は、極々当然のように日本人の傾向について「総括」してしまったりする訳ですね。この前の選挙結果後に数多く出た、論評のようなもんです。それはそれでいいのですが、そういう「科学的じゃないもの」を、いかにも「科学」として扱う人々が存在することが腑に落ちないのです。それは決して「科学的な考察」などではなくて、純粋に「語り手の思い、印象」に過ぎません。普通はいちいちそんな「断り」をしなくとも、受け手が理解しているはずなのですが、中にはそれを科学的事実であるかのように扱おうとする人々がいるのですね。テレビの解説者が言ったことに対して「俺は違うと思う」という意見をぶつけることは何ら問題はないです。それは感じ方や考え方の違いであったりするので、意見の相違自体は何ら問題ないですね。例えば「小児の臓器移植も法的に認められるべき」という意見に賛否両論あっても不思議でも何でもないです。普通は「どちらが正しいか、どちらが正当か」ということは中々結論が出難いものだろうと思います。ところが、そういう事柄や意見に対して、「科学的・論理的な思考を持っていれば、必ず正しい一つの結論が導き出せるのである」という主張をするのは、それが本当に科学的・論理的なのですか?と疑問に思う訳です。正しさを確かめることが出来ないものに、いくら「そっちが間違ってる」という主張を繰り広げても、判定できないのですから。


私も今までに、経済学に関するいくつかの資料を見つけてきて、紹介したりしました。それは、見かける議論では経済学が正しさを中々証明できず、どちらも意見の一致をみることもなく、そういう非常に「曖昧な学問」なのだろう、と考えたからです。他の文系的な分野での話も同じで、非常に曖昧な条件の下に意見が出されることが多いですね。であれば、通常は考えられる一つ一つの要因などについて、一致点を探し、相違があれば、何が違うかを考えるものと思いますが。知らないことが多すぎる状態で、大きな議論を進めようとする人々が多いのですね。これも何でかな?って思いますね。


せめて裁判みたいに、証拠を一つ一つ確かめていき、その結果考えられる結論を得るのが、まだましだろうと思いますけど。また例で考えてみましょう。この前にあった記事(話題シリーズ17)ですけれども、文系的思考が読み取れるかもしれませんので。それは「株式市場の売買代金が半期で最高を記録し、個人のネット取引が多かった」という事実から導き出された「個人投資家が頻繁に繰り返す売買によって、株式市場の指数(日経平均やTOPIXなど)が上昇した」というものです。

証拠1:個人投資家のネット口座数増加
証拠2:ネット経由取引の売買代金は史上最高
証拠3:市場全体の売買高は空前の増加
証拠4:株式市場の指数上昇

これら証拠はそれぞれ数値データなので、客観性に優れていますね。つまり争う余地は少ない、ということです。なので、全部の証拠を採用していきましょう、ということになりますね。ここまでは、どちらも争点はありませんね。

で、ここからが問題です。これらデータをどのように解釈するのか、ということになりますが、新聞記者氏は上述のように個人のネット取引の売買代金が最高なので、当然株価上昇もそうしたネット経由の個人によるものだと決定したのですが、事実から言えることと推測されることが必ずしも一致するとは限らない訳ですね。しかも、実は関連が確かでないこと(売買代金増加と株価上昇)をあたかも関連する事項として結論を導き出すためにこうした誤解を生じる可能性が高いですね。

証拠1から言えること:特にネット取引の参加者が増加した=株式取引の裾野が広がってきた可能性、でも同一個人が複数所有かも
証拠2から言えること:現在、個人はネット取引が割と多いんだねー
証拠3から言えること:個人が頻繁に売買してるが、特定の人だけが凄く多いのか、全体に多くなってきたかは不明
証拠4から言えること:株価は上昇したんだね=誰が買ってるかは不明(ひょっとして個人?・・・かな?)

この程度でしょうね。だが、記者氏は「売買代金・売買高が多い=頻繁に売買する個人が指数を吊り上げた」という断定をしてしまってるんですね。事実だけから言えることは普通そんなに多くはないのです。何かの推測か示唆が得られる程度でしかない事も多いのですが、記者ともなれば「裏付けた」まで言い切らないとダメなんでしょうかね。上の証拠からだけでは、「ひょっとして個人かな?」程度しか推測できないはずなのに、です(実際は個人が売り越し、外国人が大幅買い越し)。


で、「個人投資家がたくさん買った為に、株価が上昇した」ということであれば、本来は株価上昇の期間で「誰が最も多くの資金投入(買い越し)をしたか」ということが重要なことなので、その証拠を調べてみる、ということが普通なんですね。売買高増加が株価指数の上昇を意味しないし、売買代金増加も同じく指数上昇を意味しないのですから。ですが、そういう証拠に対する検証という面で問題があったのですね。文系的な分野の方々は、こういう検証作業をあんまり熱心にやっていないからなのかもしれませんけど。証拠1についても、「口座数の増加」と純粋な個人の「新規参加人数増加」は一致するとは限りません。昔は、1人平均所有口座が1くらいだったのに、今は平均3.5とかに増加していれば、増加分がほとんど昔からやってた人達だった、ってことも考えられなくはないですからね。でも、多くのメディアは、今は「新規参入者が増加してる、特に若年のデイトレーダーや女性など」などと勝手に結論を導き出してるのですけどね。多分新規参入者は結構増えてると思うけど、実際どうなのかは調べてみないと判らんのですよ。


このように、普通は観察される事実と別な結論を出してくるとなれば、新たな証拠を追加せねばならんのです。その為の検証もしてみないと判らんのです。そういう作業がなされないまま、勝手に「証拠1~4によって、個人投資家云々・・・」という結論を出してくるのが変なんですね。なので、まずは必要な証拠が何か決めてそれを調査し、結果には客観性があるかどうか、証拠として採用するに十分か複数で検証すること、そういう手順がない議論が多いように思えます。


この記者さんばかりじゃなくて、色々な学者さん達もそうなんですが、本当の事実だけから導き出せることを言うのならば、凄く少ない結論になるんですね。それ以外にいくら議論しても、言葉遊びというか、未知の領域・事柄について双方が推量を言い合ってるだけなんです。そういう意識に乏しいと、無駄に相手の推量を「間違ってる」などと断定するんだろうと思うんですね。その「間違ってる」も限りなく自己の推量に過ぎないのに。これは私もよくやってしまいますけど。「オカシイんじゃないか」「間違ってる」などと非難するんですが、本当の答えは逆だったり、とか。まあ、自分達の議論の土台となっている部分の、何が事実で何が確かめられてない事柄なのか、ということも考えないで、他人の推量を否定するだけでは、到底「論理性」が備わってるとも思えないけどね。


多くの社会的な事柄について、客観性を持って調べ始めたのは、実はマーケティングだったんじゃないか、とも思います。全然そういうマーケットがどうのこうのは知らないんですけど。
また変な例で言うと、昔は飲み物の嗜好というのは、「日本人はサイダーやコーラをよく飲むようになった」という現象があったとしましょう。すると、コーラだけじゃなくて、ファンタも発売されたり、ファンタもオレンジ味だけじゃなくて、グレープ味とかフルーツミックス味も出してみよう、ということになる。でも消費者達が本当にフルーツミックス味が好きだった訳でもなく、炭酸飲料が一番好きだった訳でもなかったりするんですが、そういうある種の幻想(炭酸飲料が好きだ)が信じられてきたから、炭酸飲料が多い市場が形成されてきたのかもしれないですね。


でも、消費者に色々聞いてみたら、コーヒー飲料も好きだ、ということであれば、コーヒー飲料を出そう、ってことになり、コーヒーの次は紅茶だ、ってなってくる。もっとよく聞いてみたら、甘い味のコーヒーや紅茶は嫌いだ、とかの意見もあって、昔のようなコーヒーに「ミルクと角砂糖3つ」(こりゃ甘すぎですな、多分)みたいな甘いのは嫌だ、と。なーるほど、と思ってじゃあコーヒー飲料から甘みを抜けばいいんだ、ってなことで、無糖とか濃いブラックとかが出されるんだけど、そういう「甘い飲み物」という意味じゃなくて、よくよく聞いてみたら本当は「お茶」が好きだったりする。ということで、お茶飲料が増えて、確かに「甘くない」飲料はこれだったんだね、と判明したりするんですね。昔は「お茶なんか、誰が金出してまで買うんだ」というような錯覚というか思い込みがあって、そういう商品は出されなかった(昔の駅弁には熱いお茶がついてたけど。今もあるのかな?)。「甘くない飲み物」ということで=「ブラックコーヒー」「ストレートティ」、となってしまってたんですね。でもよくよく調べると実は、お茶や水、というものに需要が結構あったのですね。「甘くない」ということに先入観というか勝手な推測がそこには潜んでいたのかもしれないですね(上の株の話と近いですよね。でも本当のところはどうなのか知りません。勝手に想像しただけですから)。


時代によって価値観も変わりますし、一概に言えないのですが、こういった現象やある意味証拠と思われるものを幾つか検証する過程で、本当の求められてるものに行き着いたんだろうと思えます。そういう検証作業が、マーケティングということにかなり近いのだろうな、と。その検証をしていくと、実は従来の幻想というものが案外と覆されたりしてきたんじゃないかな、と。そういう意味では、昨今流行となった『下流社会』というのは、社会現象とマーケティングの接点というのか、通じる部分は結構あるかもしれません(中身は知らないけど)。


このようなマーケティングに近い作業をやっていかないと事実の積み上げは難しいと思うし、そこら辺も踏まえて内閣府とかその他省庁でもアンケート調査とか実態調査などの資料を集めてるんだろうと思います。でも、そのデータから読み取ることとか、さらに踏み込んで現実世界でどのような施策を考えるか、という部分においては、研究者・学者さん達の能力に欠けてる部分が多すぎるように思えます。逆に、深く研究してるが故に簡単には言えない、という面もあるのかもしれないですけど。


「人間力」という言葉、「ニート」という言葉、これが気に入らねえんだ、ということであれば、別な呼び方に変えて、自分達の世界に通用する用語をきちんと定義して、分類もキッチリやって、その中で救済するべき若者達を救ってくれりゃいいんですよ。現実世界の中で、本当に困っている引き篭もりを持つ親御さんとか本人を少しでも救ってみたらどうですか。いくら言葉遊びをやったって、誰1人として救ってないんですよ。ニートやフリーターって呼び名がダメならダメでいいですから、「遊び人の金さん」とか「プー太郎」でも何だっていいですから、そういう人達を少しでも救ってやってくれりゃいいんですよ。現実世界で結果を出せ、と言いたいね。

普通の人々にとっては、用語が重要なのではなく、現実の事柄や結果だ。ニートって存在を世の中から抹消したけりゃ、そうすりゃいいだけだが、人間そのものが消えることもなければ、急に働きに出るわけでもねえ。今までと同じように引き篭もってたり、仕事に就かずにプラプラしてたり、夜な夜な遊びに出かけたり、日中は死んだようにゴロゴロと寝てたりするだけだ。名称なんてどうだっていい。そういう人々の存在が変わる訳ではないからな。


仮に、つくば市と同じくらいの人口規模の都市が全員そういう状態―「プー太郎」か「ニート」か何でもいいけど―にあって、自分がそこの市長になるとして、彼らをどうにか今後生活させてやっていくことを考えなけりゃならねえ。今は親の寄附で生活の収入は補ってるが、今後彼らが本当に生活していけるのか?親達が死んでいくと市の収入がどんどん減っていく。だが、彼らを食べさせていかねばならんのだ。医療も受けさせてやらねばならん。どうすんだ?誰が一生面倒をみるんだ?そういう想像力すら欠けてんだよ、学者さまってのは。


個人的資質の問題じゃない、単なる景気動向だ、ってんなら、今みたいな好景気となって、みんな自分達で働いて生活していけるだろう?来年度からは、親達からの寄附もすっかり必要なくなるんだろう?上場企業の経常収益は過去最高水準だぞ?これよりもっと景気回復が進まないと、改善しないのか?もっと高い水準の好景気が必要なのか?

そうか、今は、ニートが消滅したのかもしれんな、ひょっとすると。最新データがないしね。今年とかの数が出てないから、きっと数十万人規模で減ってるはずだよね?

なーんだ、景気回復で若年層の就業状況が大幅に良くなっていれば、ニート・フリーター対策もいらねえし。放置で大丈夫に決まってら。そうなんですね。それなら、誰も何の心配もいらんのじゃないか?今そういう人々が存在してないなら、議論自体が全くの無用なことなんですな。そうか、ようやく答えが見つかりましたね。「存在しない」が本当の答えですか。くだらねえ。



誤入力事件のこと

2005年12月10日 18時33分55秒 | 俺のそれ
誤入力事件ですが、本当に誤入力だったようです。ゴメンナサイ。陰謀ではなかったということでした。
みずほ証券は、たった1株売却の注文を出す予定だったとのことです。これも「信じられん」と言ったのですが、どうやら本当だったみたいです。アラーム・チェックも虚しく、取引されてしまったようです。取り消し方も正しく行うことが出来ず、それで被害が拡大してしまったらしいです。でも、10万株以上の買い注文も入れられてしまったみたい。アンラッキーですね。


この悪役としては、やっぱり個人投資家、特にデイトレーダーが挙げられているようですね。私もその瞬間に取引できたんだったら一株くらい買ってみたかったもんです(笑)。昨日テレビには、50株売買して1千万円を儲けたとかいうデイトレーダーが出てた。そういう人が本当にいるんだな、と思いました。でも、50株購入ということは、約2650万円の買い資金が必要で、そんな人は少ないと思うな。新規上場銘柄ということは信用銘柄じゃないのに、信用取引って出来るんですか?そこら辺は知らないけれど。もしもキャッシュで買い資金が数千万円ある、ということは、本格的なセミプロじゃないかな、って思いますね。そういう人がデイトレーダーにいるというのは、凄すぎですな。まさに降って沸いたバブルチャンスだったんですね。


でも、個人ばかりが買ってる訳じゃないんですよ。今日の読売新聞朝刊によれば、モルガン・スタンレーは4522株、野村證券が1000株と大量保有となったようです。つまり、このようなプロも実はごっそり買っており、他人のミスに付け込む根性はいずれも同じ、ということですね。因みにモルガンは発行済み株式の30%以上の大量保有となっており、下手すりゃ経営権に関わる問題となるほど買い占めたんですよ。先の個人投資家は50株で1千万円の利益、ってことは、単純に90倍以上の利益が見込めるので、90億円以上にもなるかもしれないんですよ。みずほ証券の損失270億円の3分の1にもなりますね。これが「プロの仕事」ってことですよ(笑)。「発注ミスかもしれないから、傍若無人なデイトレーダー達が買い占めたりしないように代わりに買っといてあげよう」とか、そんなことではないんですよ。他人のミスに乗じて、利益を上げようって魂胆は、個人のプロも一緒なんですから。もしも本当に「善意」で買ってくれたんだったら、「無償」で返してあげたらいいんだよ。どうせ、そんなことしないだろ?モルガン・スタンレーも野村も。まあ、見ものだな。


でも、発注ミスした社員は、クビになっちゃうかな?やっぱり。本当に可哀想だね。たった1人で出した損失が270億円とかだったら、どんなに謝ってもお詫びしても、許してはくれんだろうな。もし、クビじゃなくても、会社には残りづらいよね、きっと。自分で年間100億円とかの利益を上げられるならば別かもしれないけれど。


因みに、「女王さまの銀行」であった名門ベアリング銀行は、たった1人のトレーダー、ニック・リーソンのオプション取引で倒産したけどね。彼はシンガポールから何処かに逃げていったけど、捕まってしまい投獄されてしまったね。この時の手記が映画化されたから、記憶にある方々も多いかもしれないですね。ユアン・マクレガー主演の「マネートレーダー」という映画だった。天才的トレーダーと言われた彼(ベアリングの利益の2割を1人で稼ぎ出していたらしい)の最初のつまずきは、部下が注文入力ミスで損失を出したことだったらしい。売りと買いを逆に入力してしまったんだそうだ。

で、その損(高々400万円くらいだったそうだ)を取り返そうと裏帳簿での取引にはまることになり、損失累積が300億円に膨らんで・・・・最後には日経平均先物オプションでの「賭け」で勝負に出た。しかし、阪神大震災後の心理的マイナスが大きく響いて株価は大幅に下げてしまい、ニックは破滅した。同時に、名門ベアリングの倒産が決まった。マネーゲームに加担していれば、そういうことも起こりえるということを肝に銘じておくべきなんですよ。


「入力ミス」、これは必ず起こる。実は私も入力画面で株数と株価を逆に入力したことがある。というか、厳密に言えば成行(寄付買い)注文だったから株価を入れる必要がなく、株数だけ入力するのだが、そこに間違えて株価を入れてしまったのだ。でも大丈夫でした。入力画面に戻されて、正しく入れなおしました。全く買える株数ではなかったのです。例えば、株価4000円で100株買おうと思っていて、現在値が4000円だったら、注文を出すのは100株成行だけでいい。そこで「100」の代わりにうっかり「4000」と入力した、ということですね。40倍も違うわけですね。でも、そんな資金がないことが幸いしました。最終的には注文を出す直前にもう一度確認画面があるから、その時点でも見るしね。


まあ、何にせよ、今後の処理に苦慮することでしょうね。モルガン・スタンレーや野村證券が「こちらが金を出して買ったんだから、きっちり払ってもらう」とか言うようだったら、個人のデイトレーダーを批判出来ないだろ?証券の自己売買部門のやることといったら、こういう「ハイエナ行為」に過ぎんのよ。まるで、デイトレーダーと同じだろ?何が違うってんだ。


そんときゃ、メディアも証券業界も全部、モルガン・スタンレーや野村證券にキッチリ非難を浴びせるんだろうな。
「発注ミスにつけ込むなんて、あるまじき行為だ。証券業界として恥ずかしい」
くらい言えよ。



地域間競争と労働

2005年12月09日 22時15分47秒 | 社会全般
フリーターやニートのことについては、今までにいくつか記事に書いてきました。未だに疑問が晴れないのは、「経済学理論がニートという存在をなくせるのか」ということです。これと似てるのは、最近言われる「コミュニケーション能力の問題」といったことを経済学理論が解決してくれるのか、ということですね。

景気がいい時の学生は何故かコミュニケーション能力に優れており、景気が悪いとその能力も悪くなる、というような学説が存在するのかもしれないですが。正しい経済財政政策をもってすれば、それらが解決するというのも本当なんだろうか、と思うのですね。これは誰しもそう感じると思います。


参考記事:
格差社会1
格差社会2
格差社会3
格差社会4
格差社会5
格差社会6
格差社会7
格差社会8



急に仕事を辞めたり、遅刻ばかりするフリーターは、景気が悪くて仕事に恵まれなかったが故にそういう対応なのでしょうか?人間個人の問題ではなくて、単なる景気動向によるとしたら、それも何故なのか判りません。


話が飛びますが、我が家に「人生ゲーム」があるんですけれども、これはとても古いヴァージョンでして、独身の時に買ったものです。因みに、「人生ゲームⅢ」です。子供と遊ぶ時にも、常にこれしか使ってこなかったので、時代には全く合っていません。多分92~93年頃のものだと思います(湾岸戦争ネタとかも満載です)。


で、この中に、スタート直後に選択がありまして、就業するコースとフリーターコースがあるんですね。こんな時代の人生ゲームに既に採用されてる訳です、フリーターコースが。止まったマスの仕事が気に入れば、就業コースの人達は仕事に就けるのですが、フリーターコースの人は仕事に就けない代わりに、臨時収入が多くもらえるという特典があった訳です(しばらく進むと就職チャンスがある)。当時の雇用状況は、バブル期の売り手市場でしたので、フリーターとして好きな仕事を気が向いた時にやれば、ある程度稼げたのですね。


人生ゲームの途中で、自分の意志で仕事に就かない場合やハイリスクコースで仕事を失ったりすると、「プーたろう」になってしまうのです(破産した場合もそうだったかな?難民キャンプ送りの時だったか?ちょっと忘れました)。
懐かしいですね。当時は勝ち組=「まる金」、負け組=「まるビ」と呼ばれていたね。言ってみれば、プーたろうは今のニートみたいな状況ですね。「いつまでもプーたろうじゃあなあ」などと言っていたのかもしれませんね。昔のフリーターというのは、ある程度自分の道を自分で切り拓いて、やりたいことをやり、その後に正規の仕事(就職するとか、自分で会社作るとか)をしてた方が多かったと思いますが、今はそういうのとは変わってしまってますね。バブル崩壊と共に、フリーターを続けざるを得なくなった人々もいたのかもしれません。

まあ、景気が良くてもバブル期のようにフリーターは生まれてくる、ということですね。現在のフリーターとは違ってるのかもしれないですね。定義というか、フリーターという言葉そのものにも、変質している面があるかもしれません。


今は、仕事がないから仕方なくフリーターという人も多いと思いますが、「自分が何をやりたいか判らないからフリーター」という人もいます。「とりあえずフリーター」という感じで、まるで人生ゲームのように進路の選択肢に既に入ってしまってることもあるかもしれません(高校教師の話などではそういう面があると思われる)。もしそうだとすれば、いかに景気が回復しようとも、新卒時にフリーターを選択してしまう割合は減少しないかもしれません(絶対数はいずれ減るでしょう。少子化ですから)。


バブル期並みの新卒に対する求人増加ということで考えると、それほど雇用環境が悪化してるとも言えませんね。もしも、来年度の新卒でフリーターの割合が激減していたら、やはり景気悪化によるフリーター増加だったという面が強くなるでしょうね。ですが、あんまり減ってないとしたら、その理由というのは何が考えられるのでしょう?


あと、正社員からフリーターになる割合が結構いることも謎ですね。単に賃金ということだけであれば、就業状況が厳しいのだから、敢えて退職(転職目的で?)を選択することの利点があまり判らないのですが、「嫌な仕事だから辞めよう」とかの理由だろうと思います。こういう考え方が経済学的な理論では、どのような理解なのかもちょっとよく判りません。これも人間の問題ではなくて、ちゃんとマクロ経済による理由が存在する、という主張なんだろうなと思いますけれども。


それと、国内の仕事が減るってことは経済学理論では有り得るんだろうか?「海外に仕事を取られてしまって、国内の仕事が減る」という現象が有り得ないならば、海外との価格競争というのは、全く無くてもいいような気がするけど。事業を放棄した方が有利なんではないでしょうか?他の産業に即シフトした方が得するんであれば、その方がいいと思うけど。他の産業は誰がどうやって産み出すのかは判りませんが。


また変な例ですけれども、日本でタオル工場を運営していたが、価格競争が厳しくなり、中国に工場を移転するということを考えてみる。仮に中国で土地を買い、工場を建設し、日本から機械類一式を持っていき、現地の人々を雇っておけば人件費が日本の10分の1で済み、5年で元が取れるということにしましょう。今後の見通しを立てて、このまま日本国内での生産を継続すると、構造的に赤字となってしまう、という予測があれば、移転を決定することは十分理解できますね。タオルに余程の付加価値を持たせるとか、別な何かが起こらなければ、販売価格が今と同じくらいか、むしろ安価な輸入品が多くなってくることで、相対的に価格を下げざるを得ないということもあるかもしれないですね。そういう訳で、国外移転を行うと、日本の工場労働者達は仕事を失う訳ですね。景気がよくなったからといって、タオル工場が海外へ移転することを止められるでしょうか?景気がいいと、タオルの販売額が劇的に回復する、とか?それは恐らく困難だろうと推測しています。


工場は海外へ移転しても、人員がそのまま全部移転する訳ではないので、普通はその分仕事が減ってしまいますね。もっと生産性の高い仕事に就けると望ましいのですが、そういう労働生産性の高い仕事というのは、だれでも就ける訳でもありません。イメージとしては、先進国の中で、順番に労働生産性の高い仕事の割り振りをしていき、どんどん所得の低い側へ向かって、仕事が分配されていく、というような感じです。どんなのが労働生産性が高いのかはよく判りませんが、例えば、金融業、IT関連、特殊な製品の製造業、自動車・・・・と言う風に、各先進国に割り振って行く訳です。そうすると、輸入出来ない仕事もあるので、そういうのは自国内で賄わなければなりませんが、大体はその他の競合地域とで割る振ることになる、ということですね。香港やルクセンブルクとかに沢山ある金融企業ですが、こういう生産性の高い仕事も、タオル工場を国外に移転したからとて日本に大挙してやってきてはくれません。日本の金融機関がそういった海外の投資銀行とか金融会社を「押しのけて」仕事を増大させるということでもないですし。ヘッジファンドが国内に何本も誕生して、運用担当者の需要不足をもたらした様子もないですね。


結局、国外に仕事が移転したからといって、もっと労働生産性の高い仕事ばかりが増えるということが必然的にもたらされるのでしょうか。タオル工場が無くなった後の残された労働者達は、別な仕事を探すしかないのですが、前の工場よりも高い生産性の仕事に果たして就くことが出来るでしょうか?景気が良くなれば、更に生産性の高い仕事が大幅に増える、ということならば、それはそれでいいですが。因みに具体的な求人増加が見込める職種というのは、何なんでしょうね。現在、就業してない人達がその仕事を選択しないか採用されず、タオル工場閉鎖で失業したとしても就ける仕事というのは、どんなのか気になります。


国内で低賃金の業種に就業するのと、海外からの労働者が就業するのは、かなり意味が異なるでしょうね。例えば、貨幣価値が10倍異なれば、日本で法定最低賃金で働いて最低の生活水準であっても(かの国から見れば十分ご馳走と言える食事や飲み水かも。上流の生活水準ってこと)、給料の一部を送金するだけで、向こうでは結構な金持ちとなれますね。渡航費用でどのくらい投資したかにもよりますが(中にはぼったくりブローカーが数百万円も取ってるといった報道があったりします)、先行投資がかなり少ないので(たとえかの国で教育投資をしていたとしても)、リターンが期待できますね。

ところが、日本国内でずーっと生活してきて、教育を受けたりしていると、既に多額の先行(教育)投資をしている為、そのリターンを得ようとすると、とてもじゃないが安い賃金の仕事に就業する意味がない、ということはあるかもしれません。先行投資が非常に少なければ、仮に安い賃金の仕事に就業したとしても、金が入ってくればそんなに損する感じがしないかも。教育投資が少ないと、低賃金の仕事に就いてもいい、という妥協が生じやすいのかもしれない。昔で言えば、集団就職という形で中卒の人々が工場の働き手となったり、左官屋とか大工の見習いという具合に、それぞれが割りと早い段階で「選択」していた面があった。義務教育だけだったから、大きな先行投資は多分なかったでしょう。「選ばれた人々」だけが大学教育を受け、そういう人々は「大卒」としての給与体系に基づいて中卒や高卒よりも高い賃金を受け取ることとなっていた。当然似たような職種であっても、中卒や高卒とは最初から違っていた。


けれども、必ずしもそういう面ばかりではなくて、昔だって「大学は出たけれど」という時代も既にあったし、逆に教育を受ける事で放蕩したりすることもあったのではないか、と思う。昔の人達は、芸術だ、音楽だ、文学だ、などと言って、ろくに仕事もせずに自分の世界に耽っていた人々もいたはずだ。そういう人々はいつの時代にもいるはずだろう、と思う。だが、そんな連中ばかりとなっては、本当に困るが。


元の話に戻るが、もしも国際的に競争していくとなれば、強い者から自分の好きな仕事を選んでいける、というゲームみたいなものなんじゃないか、と思う。お金が多くもらえて労働生産性の高い仕事は人気があるので、先に選ばれてしまう。金融業がタックスヘイブンとかに持っていかれるようなものです。ルクセンブルクもそうですかね。そういう海外に仕事を取られると、日本企業がその仕事を選択するということが難しくなるのではないのかな。勿論選んでもいいけど、どれ位仕事が取れるか、採算が取れるか、不明ですね。人数が少なくて済み、尚且つ生産性が高い為に報酬も凄く高くなりますね。ヘッジファンドのファンドマネージャーとかもそうですね。で、残った他の仕事、例えば製造業とかを選択していく、ということになりますが、半導体みたいに「給料は日本人の半分でいいです」という人々が海外に現れると、どうしてもそちらの方が低コストなので、仕事を奪われることになる。じゃあ、半導体製造を他国に譲ったとして、今まで就業していた人々を失業させないようにする為には別な仕事が必要になるけど、半導体製造の時と同じ給与水準の仕事を作り出せるのかどうかは判らない。


イメージとしては、先のタオル工場の例では、中国と同じ賃金であれば運営できるかもしれないが、それは日本国内では無理であり、そこまで賃金を安くは出来ない。法定最低賃金が決まってるし。タオル工場と一緒に人員ごと中国に移転すれば今までと同じように運営でき、生活も出来る(日本と全く同じではないが)。この場合には失業がないけど、人員の移転という大きな障壁がある。タコ漁の漁師さんもモロッコで暮らせば、今までと同じようにタコ漁で生活していける。でも人員移転はかなり困難です。そうなるとモロッコ産のタコと国内タコは競合してしまい、国内タコは価格競争にさらされて負けることも多い。そうなれば、タコ漁で生活していた人達は別な仕事に就かなければならない。もっと生産性の高い、タコ漁を辞めた後にピッタリの仕事があるとしたら、もっと前からタコ漁をさっさと辞めてそちらを選択している人達が多いはずではないかな。「国際競争という競争はない」というのが真実だとすれば、こうした人々に仕事をもたらすことができるはずで、途上国に仕事を任せる(国際競争によって奪われたのではないから)ということであるなら、もっと生産性の高い仕事に皆が就けるはずではないかと思う。


炭鉱が無くなって、この仕事は海外に移りましたが、日本国内では炭鉱夫が占めていた雇用の分は別な仕事に振り替っているだろうと思います。なので、産業構造が変化するということは、海外との競争によっても起こるだろうと思います。その後の変革ではきっと炭鉱よりも生産性の高い仕事になったであろうな、と思います。ただその変革の際には、かなりのコストがかかったであろうし、新たな仕事が出てくるまでは待たねばなりません。炭鉱夫達が大量に失業したとしても、その分海外から仕事を増やしてくれる訳でもないでしょうし。でも、そういう人々を雇えるだけの仕事の量が、多分増えていったのでしょうね。これはどういった要因なのか、良く判らないですけど。



小ネタをいくつか

2005年12月08日 21時04分21秒 | 俺のそれ
昨日の記事消失事件で、未だに気分が復活できず。何年か前に、エクセルにあるデータを入力していて、全部壊れたことがあった。ファイルごと壊れてしまって開けなくなったのです。その入力作業にかけた時間と手間が、ずっしりと感じられたことがある。当時Macを使っていたのだが、時々調子が悪いことがあって、特にエクセル使用時にはよく凍結してた(ような気がする)。あのショックには及ばないが、それなりに泣きました。何でこんな変なジャンル設定をすることにしたんだろう?選ばなくてもいいじゃないか。昔のクイズ番組だって、「ノージャンル」(?、違った?そんな感じではなかったかな)というジャンルがあったじゃないか(笑)。分類しないということもまた、自由でいいと思うけど。


こんな愚痴を「ジャンルに分けれ」とか言われても困るし。


余計な話の連続ですが、東大助教授が捕まったとさ。

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <児童買春>東大助教授を逮捕 中3女子にわいせつ行為

きっと色々なブログ記事などでも指摘されるでしょうね。
『「先端」研究って、「何処の先端」ですか?』
失礼しました。下ネタは得意ではないので・・・


また、ウチの中坊ですけれども、昨今のニュース報道に感化されたのか、下らない歌を歌っておりました。
「アネハネハ~、アネハネハ~、アネハネハネハネハ~~」
前半の方の歌詞が強烈過ぎて、書くことが出来ません。というか、正確には覚えてないし。もしも書いた場合には、大炎上の可能性があるので、公表は差し控えさせて頂きます(急に答弁口調)。感想としては、「ピッタリ」。笑ってしまいました。子供はよく見てるもんだなー、ってちょっと感心したけれど、親としては注意するべきなんでしょうね。



今日の株式市場大暴落は、みずほ証券の誤入力が引き金だったそうです。全然知らなかった。暴落は関係ないようにも思うけど。

でも「一体どこの社のヤツの仕業だ?」という昨今の厳しい「犯人探し」が行われていたようで、どうやらバレるのも時間の問題と悟った犯人は自ら名乗りでたそうです。「ウチが間違えました」って、みずほ証券が白状したんだと。

Yahoo!ニュース - テクノバーン - ジェイコムショック、誤発注した証券会社の損失は1000億円・犯人は誰だ!

Yahoo!ニュース - 共同通信 - みずほ証券が巨額注文ミス ジェイコム株で、東証混乱

バカもーん!間違えたじゃ済まされないでしょ。マイナス300円超だよ?酷すぎる。ほらね、プロが酷いんだよ、やっぱり。個人投資家なんて、全然大したことないもん。だが、本当にそんな誤入力があると思う?


「一株61万円」を「61万株で1円」なんてことが本当にある?

疑問点1:入力項目に「一株」はあるの?
普通、株数と値段しか入れねえだろ?「一株」って入力項目なんて聞いたことがないな。プロ用はそうなのかもしれんが。「一株」ってのを入力するとしたら、まず、「単位=1」「売買単位数=10」「値段=610000」(株価610000円で10株)って、三項目を入力するってことだろ?そんな面倒なシステムがあるか?一般投資家用は「株数=10」「値段=610000」だよ。
もしも、単位が1株単位のものと、1000株単位のものの場合には、毎回分けて入力するんだろ?有り得んぞ、普通は。1000株単位の場合には、例えば「単位=1000」「売買単位数=10」「値段=6100」って入れると、株価6100円で10000株ってことだろ。こんな面倒な入力システムをプロ用だけにやるとは思えないね。
それとも、まさかたった1株だけ売り注文を出そうとしたとでも?ウソだろ。オイオイ、60万株以上を売り切れるほどの玉を建てられるってのに、個人と同じく「たった1株」だけの売買注文を出すつもりだったと?寝言はよしてくれよ。有りえねえだろ。「1株」なんて入力自体が、どう見てもオカシイってこと。間違えずに入力した場合、「61万円で1株売り」だろ?そりゃ、ウソだろ。


疑問点2:ストップ安チェックは機能しないのか?
普通、株価のストップ安(若しくはストップ高)レンジしか、注文発注は受け付けられない。仮に株価1円、1万株売却注文を入力しても、「ストップ安以下」という自動チェックがかかるため、注文執行されない。例えば下限が100円である場合、それ以下の株価での売買注文は全部はじかれる。それがプロ用だとチェックが外れてるとでも?ありえねー。まず、ディーラーの為のシステムが組まれてきていて、その歴史に基づいて、似たようなシステムが一般個人投資家にも提供されるようになったんだろうと思うけど、普通は(専門家じゃないから知らんけど)。個人用の方が圧倒的に有利・チェックが働くシステムで、プロ用がそれ以下のシステムってことは有りえねえだろ。


疑問点3:本当に売り切りで、買戻ししてない?
それが本当なら大変だろ?会社は潰れるんじゃないの?有りえねえ。買い戻したに決まってる。だから、本当に損なんてしてないんだよ。むしろ、逆さ。得したんじゃないの?損益を出させろよ。売買履歴もちゃんと調べた方がいいですね。


この前書いた双日の件(続・双日の謎)だが、似てるでしょ?マジで。そっくりでしょ?こいつら、本当は、「地獄のジェットコースター作戦」を狙ってやったんじゃないの?


今回は幹事の日興が調べたんだと。いつもは誰も調べないが、今回に限って同業者に探りまくられ、他が否定したから、やむなく白状したんじゃないの?今までにも、前歴があるんじゃないの?

こういう決め付けは良くないってことは判ってます。だけど、本当にプロがやる以外には、有り得ないんですって。こういう「誤入力」もどきは。奴らは卑怯な手を使って、一般投資家を陥れるのは「朝飯前」なんですよ。でもね、ターゲットが悪すぎた。上場初日に仕掛けりゃ、そりゃバレバレだわな。きっと、個人投資家は新規上場銘柄が好きだから、そいつらから一網打尽にむしり取る腹だったんだろ?


SECとかもさ、きちんと業界のやつらの売買をチェックしとけよ。証券業界のやつらは個人投資家には、「上がった下がったの投機だ」「ゲーム感覚だ」「デイトレードや止めろ」って説教しとるんですよ。でもやってることはね、素人相手に「かっぱぐ」ことだけ。こいつらはね、自分達が儲ける為ならば、今までにだって酷い取引を散々やってきたんですよ。自己売買部門が収益の大きな柱なんですから。そのくせ、個人には「投資ってのは・・・」って説教垂れるんですよ。裏では、短期売買を繰り返し、上がった下がっただけの投機で他の投資家から巻き上げるのを仕事にしとるんですから。そういう連中が偉そうに説教なんかするな、っての。


今回、もしも嗅ぎ回られなければ、また何度でもやるつもりだったろうな、多分。そういう業界なんですよ、証券業界ってのは。こういう連中を相手に取引せねばならんので、私も苦戦することが多い訳ですね(笑)。


午前にやってて、何で発表がこれほど遅かったか。それは「バレなければ、しらばっくれる」積もりだったからですよ。だって9時半くらいにストップ安だよ?なんで前場(11時まで)が終わって直ぐに申し出なかったのか?それは隠す目的以外にないと思うけど。幹事会社が嗅ぎ回ってるなんて知らなかったからでしょ?そういう奴らの棲息する場所が、「マーケット」ですね。

まずは自分達を浄化しろよ。個人投資家に説教は、それが出来てからだろ?


何となく既に犯人みたいに言ってますが、本当にタダの間違いってことも有り得るから、真実は調査結果の発表を見てね。私の場合、妄想が多いですので。こんなに散々言っておきながら、私の間違いってことも大いに有り得ますから。

因みに私は証券会社を恨んでる訳ではありません。むしろ、今まで得をさせてもらって有難う、ですが、多くは「かっぱぎ」に遭ってるんではないかな、と思ってます。それでいて、個人投資家に文句を言うのが腹立たしいんですよ。彼らと似たようなことをやってる個人が出て来た、ってだけなのに。