幸福な自分を感じる場合、いちいち分析する必要は無いのですが、幸福病という概念もありますので、何故、幸福なのかを分析する必要があります。心の奥底で自分は不幸だ、と感じていても、立場上、不幸だと言えない宗教家が居たとします。立場上、檀上で幸福を説く場合、自分が不幸とは大衆の前では職業上言えません。そんな場合、いくら幸福論を説きまいても、身体全体、眼差しは不幸な心を全体として表現しています。これは恥ずべきことではなく、しようがない現象なのです。眼差しは正直で、哀しい時は、どんなに偽っても眼差しは哀しみを表現しているのです。不幸なのに幸福と錯誤したり、あえて幸福だ、と言うのが人間の美しい所でもありますが、病的な領域でもあるので、この分析が必要なのです。「不幸なら、不幸」と意識の上にあげ、堂々と不幸な自分を受け入れていかないと精神病になる傾向が出てきます。幸福病を防ぐ為には、五感と体感のレベルでの意識化の訓練をしていかないと、偽善的、病的に展開していくこと必定です。ではどうするか?明日、考えましょう。今日は幸福か不幸かを正直に意識出来る自分かどうか思索しておいて下さい。人生、幸福な時もあれば、不幸な時もありますので、平然として、今は幸福、今は不幸としゃあしゃあ、と言える自分にしておきましょう。
<自分は何処へ旅しているのだろうか?:144>
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