これまでの4回で、五木寛之の一家が植民地朝鮮に渡り、敗戦後引き揚げてくるまでのことと、その中での彼の「原体験」について「雑民の魂」を通じて見てきました。
今回は「付け足しの付け足し」として、私ヌルボが「これは重要な指摘だな」と思った下りを挙げておきます。
「最も悲惨な運命を背負った難民は、東北や裏日本の貧農の中から外地へ送り込まれた開拓者が大部分である。そして、特に私が深い感慨をおぼえるのは、外地においてその地の民族に対して最も苛酷であったのは、それらの日本における被圧迫民衆であったという事実である。
むしろ敗戦後に、中国人や朝鮮人から逆に保護を受けた一部の人々は、高級官吏やブルジョアジーに属する有力者が多かった。そして彼らのほとんどは鉄道や航空機で敗戦と同時に素早く引揚げてしまい、放り出されたのは現場の貧しい日本人たちで、彼らは直接に激しい報復の対象となった。貧しい者はより貧しい者が敵であるという不気味な真実を、私は幾度となくながめてきた」(「深夜の自画像」より)
同様の例はたくさんありそうですね。
現代ではアメリカの貧困層から多数アフガニスタンやイラクに派遣されている米軍兵士たちなど、その代表例といえるのではないでしょうか?
さて、ヌルボが「貧しい者はより貧しい者が敵である」という言葉から思い出す歌があります。
昔小学校で教わった文部省唱歌「冬の夜」。今も好きな歌、心に響く歌です。→YouTube 歌詞は以下の通りです。
一、
燈火(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊の樂しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ、
日數(ひかず)かぞへて喜び勇む。
圍爐裏火(いろりび)はとろとろ、
外は吹雪。
二、
圍爐裏のはたに繩なふ父は
過ぎしいくさの手柄を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて、
耳を傾け、こぶしを握る。
圍爐裏火はとろとろ、
外は吹雪。
戦後民主化教育の下、ヌルボがこの歌を教わった時には、二番の歌詞の「過ぎしいくさの手柄を語る」の部分は「過ぎし昔の思い出語る」と変えられていました。
大学時代二番の本来の歌詞を知って、何と悲しい歌なのか、と思いました。
この歌が作られたのは1912(明治45)年。(その年7月に明治から大正に変わります。) つまり、歌詞中の「過ぎしいくさ」というのは日露戦争と思われます。(日清戦争かもしれませんが・・・。)
「悲しい歌」と思った理由は、大学生当時の語り口で言うと、「資本主義の発展とともに進められた寄生地主制の下で、小作人として収奪されていた多くの貧しい農民が、対外的には日本の帝国主義的侵略の先兵となった」という鳥瞰図を念頭におきながら、囲炉裏を囲んでの一家の団欒を歌ったこの歌を聴くと、まさに日本の近代の諸矛盾がこの歌に凝縮されているような感じがしていたたまれなくなる。そういうことです。温かみのある美しいメロディだけに、一層悲しく感じられます。「悲しい歌」というより「痛い歌」という方が適切かもしれませんね。
植民地時代そして終戦直後、朝鮮人から親切にされたり助けられた日本人もいればひどい目にあった日本人もいました。逆にいえば、日本人を助けた朝鮮人もいればひどい目にあわせた朝鮮人もいました。また個々の朝鮮人に対して「優しく接した」日本人が、朝鮮という民族に対して善いことを為したとは限りません。
総体として日本人は支配民族であり、朝鮮人は被支配民族だったことは歴史認識の基本事項であるとしても、そのモノサシだけですべてを裁断するとなると、歴史の理解が浅薄な、単なる思い込みのレベルにとどまってしまいます。
これまで「駒尺喜美「雑民の魂」を読む」を5回にわたり長々と書きました。最初、副題に「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」とつけた時には気づいていなかったのですが、その後「深夜の自画像」を読むと、「雑民の魂」に引用されていない部分で次のような記述がありました。
「・・・みずからの体験そのものを書かない時でも、私たち(植民地からの引揚げ者)の書くもののどこかには、その後遺症の影がさしていると考えるのだが、果たしてどうであろうか。つまり、引揚を素材とした作品を内在化していると私は思っている。たとえ、ユーモア小説やドタバタ劇を書いてもである。」
つまり、五木自身が、どんな作品にも植民地での体験が内在化しているという自覚を持っているんですね。まさに「原体験」。後付けながらピッタリの副題だったというわけです。
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(1)
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(2)
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(4)
今回は「付け足しの付け足し」として、私ヌルボが「これは重要な指摘だな」と思った下りを挙げておきます。
「最も悲惨な運命を背負った難民は、東北や裏日本の貧農の中から外地へ送り込まれた開拓者が大部分である。そして、特に私が深い感慨をおぼえるのは、外地においてその地の民族に対して最も苛酷であったのは、それらの日本における被圧迫民衆であったという事実である。
むしろ敗戦後に、中国人や朝鮮人から逆に保護を受けた一部の人々は、高級官吏やブルジョアジーに属する有力者が多かった。そして彼らのほとんどは鉄道や航空機で敗戦と同時に素早く引揚げてしまい、放り出されたのは現場の貧しい日本人たちで、彼らは直接に激しい報復の対象となった。貧しい者はより貧しい者が敵であるという不気味な真実を、私は幾度となくながめてきた」(「深夜の自画像」より)
同様の例はたくさんありそうですね。
現代ではアメリカの貧困層から多数アフガニスタンやイラクに派遣されている米軍兵士たちなど、その代表例といえるのではないでしょうか?
さて、ヌルボが「貧しい者はより貧しい者が敵である」という言葉から思い出す歌があります。
昔小学校で教わった文部省唱歌「冬の夜」。今も好きな歌、心に響く歌です。→YouTube 歌詞は以下の通りです。
一、
燈火(ともしび)ちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊の樂しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ、
日數(ひかず)かぞへて喜び勇む。
圍爐裏火(いろりび)はとろとろ、
外は吹雪。
二、
圍爐裏のはたに繩なふ父は
過ぎしいくさの手柄を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて、
耳を傾け、こぶしを握る。
圍爐裏火はとろとろ、
外は吹雪。
戦後民主化教育の下、ヌルボがこの歌を教わった時には、二番の歌詞の「過ぎしいくさの手柄を語る」の部分は「過ぎし昔の思い出語る」と変えられていました。
大学時代二番の本来の歌詞を知って、何と悲しい歌なのか、と思いました。
この歌が作られたのは1912(明治45)年。(その年7月に明治から大正に変わります。) つまり、歌詞中の「過ぎしいくさ」というのは日露戦争と思われます。(日清戦争かもしれませんが・・・。)
「悲しい歌」と思った理由は、大学生当時の語り口で言うと、「資本主義の発展とともに進められた寄生地主制の下で、小作人として収奪されていた多くの貧しい農民が、対外的には日本の帝国主義的侵略の先兵となった」という鳥瞰図を念頭におきながら、囲炉裏を囲んでの一家の団欒を歌ったこの歌を聴くと、まさに日本の近代の諸矛盾がこの歌に凝縮されているような感じがしていたたまれなくなる。そういうことです。温かみのある美しいメロディだけに、一層悲しく感じられます。「悲しい歌」というより「痛い歌」という方が適切かもしれませんね。
植民地時代そして終戦直後、朝鮮人から親切にされたり助けられた日本人もいればひどい目にあった日本人もいました。逆にいえば、日本人を助けた朝鮮人もいればひどい目にあわせた朝鮮人もいました。また個々の朝鮮人に対して「優しく接した」日本人が、朝鮮という民族に対して善いことを為したとは限りません。
総体として日本人は支配民族であり、朝鮮人は被支配民族だったことは歴史認識の基本事項であるとしても、そのモノサシだけですべてを裁断するとなると、歴史の理解が浅薄な、単なる思い込みのレベルにとどまってしまいます。
これまで「駒尺喜美「雑民の魂」を読む」を5回にわたり長々と書きました。最初、副題に「五木寛之の強烈な朝鮮原体験」とつけた時には気づいていなかったのですが、その後「深夜の自画像」を読むと、「雑民の魂」に引用されていない部分で次のような記述がありました。
「・・・みずからの体験そのものを書かない時でも、私たち(植民地からの引揚げ者)の書くもののどこかには、その後遺症の影がさしていると考えるのだが、果たしてどうであろうか。つまり、引揚を素材とした作品を内在化していると私は思っている。たとえ、ユーモア小説やドタバタ劇を書いてもである。」
つまり、五木自身が、どんな作品にも植民地での体験が内在化しているという自覚を持っているんですね。まさに「原体験」。後付けながらピッタリの副題だったというわけです。
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(1)
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(2)
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(3)
→駒尺喜美「雑民の魂」を読む -五木寛之の強烈な朝鮮原体験(4)