◎12月15日(月)~16日(日)午前
12月15日、つまり当日の記事(→コチラ)で書いたようにソウルは小雪がちらつく寒い日。
かねての打ち合わせ通りこの日落ち合ったF氏の運転する車で夕刻出発し、京釜高速道路を南下して大田(テジョン)へ。
彼の車に乗るのは初めてで、実は内心少し不安でした。なんせ右側通行とあって、以前慶州をレンタサイクルで周った時も怖かったし、横断歩道を渡る時もまず右を見ることが習慣化しているためヒヤッとしたことがありました。まして車ともなるとちょっとしたミスが事故につながるし・・・。しかし助手席に座ってしばらく行くほどに不安はほとんど解消。この10年間以上(?)韓国内を何度もドライブして勝手知ったるようすで、標識のハングルも瞬時に読み取っているのか? TV画面に表示されるテロップなんかも前から読んでるようじゃダメなんだな、とここで私ヌルボ、未熟さを痛感。
先の記事に記したように途中のSAで油揚げうどん(ユブウドン)とか「麦飯石オジンオ(いか)」とかを食べて、大田に着いたのは午後8時すぎ。彼が予約しておいてくれたホテルは東横インでした。政府庁舎のすぐ近くで、大田は3回目のヌルボもこの辺に来たのは初めて。
雪はたいしたことなく、南下したわれわれの判断は正解でした。(・・・と、この時はそう思った。)
ホントに、いまやどこに行ってもスタバがある・・・。
翌朝見るとこんな感じ。
おー、いい天気じゃないの。ラッキー!(・・・と、この時はそう思った。)
さて、大田の市内でヌルボの希望で向かった先はここ。
ハンバッ教育博物館(한밭교육박물관)です。
ここは1911年施行の朝鮮教育令により大田最初の小学校である三省洞小学校の校舎が建てられた所。学校は1913年大田栄町公立尋常小学校、1922年大田第一普通学校、そして戦後(1949年~)は大田三星(省?)国民学校(→初等学校)と改称されました。そして1938年6月に完成した校舎が1992年校舎改築に伴って教育博物館としてオープンしたものです。
ハンバッというのは、大田の古称です。そういえば한は「大」、밭は「田畑」ですね。
なるほど、ヌルボにとっては懐かしさを感じるたたずまいのかつての教室にさまざまな資料が展示されています。
見学に際し、日本に2年ほど在住経験がある年配の女性がガイドとしてくわしく説明してくださいました。2013年6月清州の古印刷博物館を見学した時もそうだったのですが、コチラがいろいろ質問するとガイドさんも興に乗ってとても話が盛り上がります。
※展示物等々については、この博物館の公式サイト(韓国語)参照。→コチラ。
ガイドさんの話では、この地は朝鮮戦争当時国連軍と北韓軍との間の激しいせめぎ合いが繰り広げられた所で、この建物にも当時の銃弾痕が残っているとのこと。外に出てみると・・・。
このセメントでふさがれている箇所が弾の痕。たくさんあります。↑
さて、この博物館見学の際に見落としてはならないのが野外展示場です。
上の写真の左端に倒れている石碑のようなものがあります。
「皇国臣民誓詞之柱」です。\t
「皇国臣民ノ誓詞」は1937年皇国臣民としての自覚を促すべく朝鮮で発布されたもので、児童用と大人用があり、この石柱に刻まれているのは児童用のものです。
一 私共ハ 大日本ノ臣民デアリマス
二 私共ハ 心ヲ合ハセテ天皇陛下ニ忠義ヲ盡シマス
三 私共ハ 忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ國民トナリマス
いわゆる皇民化教育の一環として、この文言の暗唱を強要されたことから、今この石柱が引き倒されたまま展示されているというわけです。
※皇国臣民ノ誓詞について→ウィキペディア参照。
この皇国臣民ノ誓詞については、(たぶん)次の記事で別の観点から書く予定です。
現在、この博物館と同じ敷地に隣接して大田三星(省?)初等学校があります。
新しい石碑を見ると、2011年に建てられた開校百周年記念碑でした。
現在の大田三省(星?)初等学校のサイトを見ると、1911年朝鮮人児童のための懐徳公立普通学校が沿革の最初に書かれています。上述の(日本人児童が通った)三省洞小学校との位置関係等はどうもよくわかりません。
1938年にできたこの建物は大田で最古の建物で、1度も改築されてないそうです。たしかになかなかしっかりした造りです。
10時頃から約2時間の見学を終え、次もまたヌルボの希望で唐津(タンジン)・大田高速道路に乗っかって西北西、礼山(イェサン)方面に向かったのでありました。
12月15日、つまり当日の記事(→コチラ)で書いたようにソウルは小雪がちらつく寒い日。
かねての打ち合わせ通りこの日落ち合ったF氏の運転する車で夕刻出発し、京釜高速道路を南下して大田(テジョン)へ。
彼の車に乗るのは初めてで、実は内心少し不安でした。なんせ右側通行とあって、以前慶州をレンタサイクルで周った時も怖かったし、横断歩道を渡る時もまず右を見ることが習慣化しているためヒヤッとしたことがありました。まして車ともなるとちょっとしたミスが事故につながるし・・・。しかし助手席に座ってしばらく行くほどに不安はほとんど解消。この10年間以上(?)韓国内を何度もドライブして勝手知ったるようすで、標識のハングルも瞬時に読み取っているのか? TV画面に表示されるテロップなんかも前から読んでるようじゃダメなんだな、とここで私ヌルボ、未熟さを痛感。
先の記事に記したように途中のSAで油揚げうどん(ユブウドン)とか「麦飯石オジンオ(いか)」とかを食べて、大田に着いたのは午後8時すぎ。彼が予約しておいてくれたホテルは東横インでした。政府庁舎のすぐ近くで、大田は3回目のヌルボもこの辺に来たのは初めて。
雪はたいしたことなく、南下したわれわれの判断は正解でした。(・・・と、この時はそう思った。)
ホントに、いまやどこに行ってもスタバがある・・・。
翌朝見るとこんな感じ。
おー、いい天気じゃないの。ラッキー!(・・・と、この時はそう思った。)
さて、大田の市内でヌルボの希望で向かった先はここ。
ハンバッ教育博物館(한밭교육박물관)です。
ここは1911年施行の朝鮮教育令により大田最初の小学校である三省洞小学校の校舎が建てられた所。学校は1913年大田栄町公立尋常小学校、1922年大田第一普通学校、そして戦後(1949年~)は大田三星(省?)国民学校(→初等学校)と改称されました。そして1938年6月に完成した校舎が1992年校舎改築に伴って教育博物館としてオープンしたものです。
ハンバッというのは、大田の古称です。そういえば한は「大」、밭は「田畑」ですね。
なるほど、ヌルボにとっては懐かしさを感じるたたずまいのかつての教室にさまざまな資料が展示されています。
見学に際し、日本に2年ほど在住経験がある年配の女性がガイドとしてくわしく説明してくださいました。2013年6月清州の古印刷博物館を見学した時もそうだったのですが、コチラがいろいろ質問するとガイドさんも興に乗ってとても話が盛り上がります。
※展示物等々については、この博物館の公式サイト(韓国語)参照。→コチラ。
ガイドさんの話では、この地は朝鮮戦争当時国連軍と北韓軍との間の激しいせめぎ合いが繰り広げられた所で、この建物にも当時の銃弾痕が残っているとのこと。外に出てみると・・・。
このセメントでふさがれている箇所が弾の痕。たくさんあります。↑
さて、この博物館見学の際に見落としてはならないのが野外展示場です。
上の写真の左端に倒れている石碑のようなものがあります。
「皇国臣民誓詞之柱」です。\t
「皇国臣民ノ誓詞」は1937年皇国臣民としての自覚を促すべく朝鮮で発布されたもので、児童用と大人用があり、この石柱に刻まれているのは児童用のものです。
一 私共ハ 大日本ノ臣民デアリマス
二 私共ハ 心ヲ合ハセテ天皇陛下ニ忠義ヲ盡シマス
三 私共ハ 忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ國民トナリマス
いわゆる皇民化教育の一環として、この文言の暗唱を強要されたことから、今この石柱が引き倒されたまま展示されているというわけです。
※皇国臣民ノ誓詞について→ウィキペディア参照。
この皇国臣民ノ誓詞については、(たぶん)次の記事で別の観点から書く予定です。
現在、この博物館と同じ敷地に隣接して大田三星(省?)初等学校があります。
新しい石碑を見ると、2011年に建てられた開校百周年記念碑でした。
現在の大田三省(星?)初等学校のサイトを見ると、1911年朝鮮人児童のための懐徳公立普通学校が沿革の最初に書かれています。上述の(日本人児童が通った)三省洞小学校との位置関係等はどうもよくわかりません。
1938年にできたこの建物は大田で最古の建物で、1度も改築されてないそうです。たしかになかなかしっかりした造りです。
10時頃から約2時間の見学を終え、次もまたヌルボの希望で唐津(タンジン)・大田高速道路に乗っかって西北西、礼山(イェサン)方面に向かったのでありました。