ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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12月11~18日ヌルボの韓国日常の延長旅行 ⑧温陽観光ホテルと温陽温泉の歴史

2015-01-28 21:50:14 | 韓国旅行の記録
温陽観光ホテルについて帰国後に調べてみたら、あらら!

 この旅行記録シリーズの前回の記事が1月17日。その後すんなりと最終日まで書き進むはずだったのが結局ここまで遅れてしまった一因は、前回載せた次の写真にあります。

 温陽観光ホテルで撮ったこの3枚の図(温陽温泉の歴史・温陽行宮図・朝鮮王朝と温陽温泉の関わり)の写真は前を通った時になとなく撮ったもので、内容は全然読んでいませんでした。(これがよくなかった。)

 そこで記事を書くにあたって一応何が書かれているか写真を拡大してみました。ここではとくに「温陽温泉の歴史」(上の写真左)について見てみます。

 記されているハングルの翻訳は次の通りです。

 ・百済時代 温泉として使用される。
 ・1396(太祖5年) 臨時行宮を建てる。
 ・1433(世宗15年) 行宮を建てる。
 ・1464 (世祖10年) 「神井」を発見、駐蹕神井碑(주필신정비)を建てる。
 ・1795年(定祖19年) 霊槐台(영괴대)築造。霊槐台碑(영괴대비)を建てる。
 ・1871 (高宗8年) 涵樂堂(함락당)と惠波亭(혜파정)新築。
 ・1904 温陽温泉株式会社温泉経営、温陽館新築。
 ・1927 京南鉄道株式会社が買収。
 ・1956 温陽鉄道ホテルにより営業開始。
 ・1967 民間に移譲、温陽観光ホテルに変更。


 訳していてわからなかったのは주필신정비영괴대という言葉。調べてみると、この温陽観光ホテルの敷地内にある文化財の名称ではないですか。
 たとえば、<visitkorea>の記事(→コチラ)には次のようなことが書かれています。

 ・温陽温泉は百済以来からの歴史のある韓国で最も古い温泉の一つで、朝鮮の王たちが楽しんだ温泉地としても有名で、温陽行宮(離宮)のあった場所に建てられたのが温陽観光ホテルである。
 ・温陽行宮は1396年に臨時に建てられ、1432年9月に温泉宮殿として増築された。温陽別試という科挙を行っていた王室専用の温泉宮殿である。


 ・・・と、ここまではよしとして・・・、

 ・ホテルの敷地内には、霊槐台神井碑という文化財がある。霊槐台は朝鮮英祖王が温陽行宮に出かけた際、一緒についてきた荘献世子(思悼世子)が武術を練磨した場所を記念して建てられた記念碑である。神井碑は世祖王が温泉の横に冷泉を発見し、神井と称したことを記念する碑である。

 ・・・ということで、神井碑と霊槐台の写真が載っているではないですか!
       
 左が神井碑、右が霊槐台です。正確にはこの建物ではなくて、その中の石碑が忠清南道の文化財です。
 さらに韓国サイトを見ると、この他にもこのホテルの敷地内には李忠武公事蹟碑温泉里石仏という2つの忠清南道文化財もあることがわかりました。
 うーむ、全然気づかなかったなー!
 そればかりではありません。<温泉が大好きおやじの独り言>というブログの管理者さんが一昨年の元日前後にこのホテルに宿泊した時の記事(→コチラ)を読むと、上記の文化財の他にホテル内にある資料室のことも書かれています・・・って、うーむ、そういう部屋があったのか!  全然気づかなかったなー!(その2)

 今回の温陽温泉宿泊はまったくの予定外だったということはありますが、少なくとも現地でもっと注意深くいろいろ見回してみるべきだったですね。

 ことのついでに近代以降現在に至るまでの温陽温泉の歴史を見ると、やはり日本の業者が日韓併合前から進出して日本風の温泉旅館として温陽館を設立したのがこのホテルの前身ということで、上掲の「温陽温泉の歴史」の図の背景にもその写真が用いられています。
 当地の研究者が2014年5月「温陽新聞」に寄せた記事(→コチラ.韓国語)には1920年代の温陽館と神井碑閣の写真や、1028年の温陽館とその周辺の見取り図が載っています。見取り図を見ると、温陽館の入口近くには「内地人湯」があり、道を隔てた南側にある「鮮人」用と区別されていたことがわかります。
 近代化により身分によって差別されることはなくなったのでしょうが、日本人と朝鮮人の「別扱い」はこうした所でも当たり前だったのでしょうか? ・・・と考えつつ、先の「温陽新聞」の記事を見なおすと「正祖大王が民間に温泉を開放するように命じた後、民が使用する民間浴場がされていたことを推察させる」という記述とともに「1904年日本人が温宮を奪取した際にも、朝鮮の民たちが使っていた浴場は継続して使用するように許可されたものとみられる」とありました。つまり朝鮮時代の支配者用施設部分を日本人用に、庶民用の部分を朝鮮人用としたということ? ま、それも差別の継続ですけど・・・。
 またこの記事には、昔の温陽行宮の敷地はこのホテルの敷地の約半分に過ぎなかったこと、1926年京南鉄道が買収した後「神井館」と名称を変更し、大々的に温泉設備が拡充されて敷地が拡大され、その時神井碑も南西に移設されたこと等々、この温泉やホテルの歴史について詳細に記されています。

 ま、3度目に行く機会があったら、今度はじっくり見て回ることにします。

※参考:鳥瞰図絵師・吉田初三郎が1929年の朝鮮大博覧会宣伝に合わせて描いた「朝鮮京南鉄道沿線名所交通図絵」にも、温陽温泉が詳しく描かれています。→コチラ
コメント
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