9月23日(日)夜、実に久しぶりにテレビを見ました。NHKスペシャル「対立を克服できるか~領土で揺れる日中・日韓~」に木村幹神戸大教授がどんなことを言うか興味があったからです。
本ブログ9月7日の記事で、古田博司・下條正男・重村智計等の韓国を専門とする大学の先生方が雑誌で最近の韓国に対して感情もあらわに政治的主張を展開していることに、私ヌルボ、少し驚きあきれるようなニュアンスの文章を書きました。感情に流れている部分を捨象すれば、相当程度(?)納得できる内容ではあるんですけどね・・・。
その先生方と対照的な研究者が木村幹先生です。
木村先生のtwitterは有用な知見だけでなく、軽いユーモアにもあふれていて、以前から愛読しています。
※木村先生、書店でKSJ先生の新書の上に自分の新書を置いたりしてるのを店員さんに見つかって注意されたりもしてます(笑)。→コチラ参照
木村先生の持ち味は、領土問題や歴史認識問題等について、たとえば「~だから竹島は日本の領土だ」とか、「~だから日本は謝罪し補償すべきだ」等の意見を述べ立てないこと。
日韓がそれぞれの主張を相手方にぶつけ合っても不毛な議論が続くばかりであり、それ以前に、なぜどんな背景の下にそれらの問題が問題化してきたのか、あるいはなぜ両国の認識が食い違うのかを探るというのが基本姿勢です。
木村先生らしいtweetを8月以降の中から拾ってみると・・・
▶「8月15日 またぞろ、お前は日本と韓国のどちらの味方か、みたいなツイートがわらわらと。でもね、本来、研究者にはそんなのないんだよ。
だって、分析の前から結論が決まっている、というのは、あり得ないし、あっては駄目なんだよね。フラットな分析をしてこそ、統治エリートや世論が正確な判断ができるんだし、結果としてより実務にも役に立つ。少なくとも、自分はそう考えている。」
(「@takammmmm 木村幹氏という大学教員には失望した。学会では実績を重ねている人なのかもしれないが、韓国を研究している知識人として、従軍慰安婦問題について、いま「こう見るべき」と言う発言しないとダメだろう。言説研究の手順なんかを解説している場合ではないと思う」というtweetに対して・・・)
▶「9月1日 運動や啓蒙活動のために研究している訳じゃあないんだけどなぁ。」
・・・とまあこんな感じ。上掲の先生方と比べると、木村先生の方がナショナル・アイデンティティに浸りきってなくて、学問的にも信頼がおけるような気がします。(※「信頼がおけます」≠「信頼がおけるような気がします」)
さて、そのNHKスペシャルを見て、おそらく大多数の視聴者もそう思ったでしょうが、私ヌルボの感想も「櫻井よしこの一人勝ち」。
※およその内容は、相当に詳しく書かれている他のブログを参照されたし。→コチラとか、コチラとか、コチラ等々。
木村先生、事前のtweetでは、
▶「どうも役回りは交通整理らしい。が、問題は爆走する車に乗っている人よりも、その車を整理する為に、身一つで交差点の真ん中で交通整理をする人間の方が、遥かに死亡率が高そうだ、ということだ。」
・・・と呟いてましたが、結局は櫻井氏が経験にモノを言わせて巧みに突っ走った、というところでしょうか。
番組終了後の木村先生も、
▶「終わった。桜井さんに、完全に食われた。」
・・・と率直な感想。 そして、
▶「ホテルの部屋に戻った所。いろいろと反省中。役回りもあったのだけど、下手に抑えちゃったかなぁ。日本国内の保守派の議論と、韓国側の議論との間で、割り込むのが難しかった。その点、議論に慣れている人は、割り込んで行くタイミングが絶妙。そこは素直に感心。」
・・・と振り返り、反省しつつも、翌朝からは番組内で言えなかったこと等のtweetが続きます。
以下、いかにも木村先生らしいもの及び私ヌルボが共感を覚えたものを拾ってみます。(全体的に、ちょっと負け犬の遠吠えっぽい感じもしないではない?)
▶「9月24日 昨日のNスペ補逸。討論では、田中さんが日本政府の立場を、桜井さんが日本の保守派の意見を、韓国からの先生方が一致して韓国の公式見解を語った(ちょっと驚いた)のだけど、自分は過去の経験から、この手の「自らの意見の言いっ放し」が意味のある事だと思っていないので、引いた対応になりました。」
▶「ステレオタイプな見解の応酬で相手側を「論破」して、問題が解決するならいろいろな問題は既に解決している筈。また、日韓の大半の問題は資料や証言等々の「解釈」の問題なので、結局、平行線の議論にしかならない。という事で、「論破」は一見「痛快」だけど、余り意味がない。」
・・・櫻井よしこさんの鋭い弁舌に、大方の視聴者は溜飲を下げたでしょうけど、韓国の人たちにはほとんど通じないんだろうなー、きっと。
▶「補逸。更に続き。因みに見ていた人には、誤解した人もいるようだけど、桜井さんは中国との対立を念頭に「日韓関係は重要」と言う立場で議論をしていて、「にも拘らず韓国が反日的な姿勢を取っているのが良くない」というポジションでの議論。ある意味、自分よりも日韓関係重視論者だったりする。」
▶「Nスペこぼれ話。桜井さんは番組が終った後も、韓国からの先生方を捕まえて、彼等を「説得」しようとしていた。その意味では、確かに「熱い」人であり、また真剣に韓国側にメッセージを伝えようとしていた。どうしても分析者として、間をおいて日韓関係を見たい自分とは、全く違う。」
▶「相手を「論破」した先に「日韓友好」がある、と考えていることにおいては、実は桜井さんと韓国の人々の考え方は大きな類似点があったりする(ある意味波長があっている)。で、「そんなことする必要ないじゃん」と思っている自分としては、その考え方こそが日韓関係を阻害している、と思ったり。」
▶「「正しい」歴史がある、それを自分はわかる、だから他国に押しつけてもいい。そうやっておこる問題を歴史認識問題と呼ぶ。」
・・・「さりげなく」表される韓国に対する批判。日本側にもそういう傾向の人はいるが・・・。
※togetterでこの番組関連の木村教授のtweetをまとめて見ることができます。→コチラ。(慰安婦問題関係のtweetも多い。)
ところで、最近の領土問題に関しての、主にマスコミを通じての学者先生の言説を見聞きしながら、私ヌルボが抱いた疑問があります。
それは、「学者たるものは、自分が日本人(or韓国人)であれば日本(or韓国)のために研究すべきなのか? それとも、逆にそうした雑念(?)を排して学問的な正しさを求めるべきなのか?」ということ。大雑把に見ると、韓国人学者は前者が比較的多く、日本人学者は後者の人が多いように思えます。
しかし、意識的に前者の道を択ぶとすると、それは<御用学者>に他ならないでしょう。敗戦後の学界はその否定からスタートしたのではないですか?
おそらく、今日本の国益・国策に沿った線で意見を述べている学者・専門家諸氏は、「公正な研究・考察の結果である」と仰るかも・・・。しかし、日韓両国の学者・専門家の所論に接すると、自分の民族意識や思想性、政治理念等に研究の方向性や結論が左右されるのはむしろふつうのように見えます。
かつて、朝鮮戦争で先に攻撃したのは、左翼の立場に立つ人たちはそのほとんどが韓国の側だと考え、反共の立場の人たちは北朝鮮の側だと考えていて、それは学者の場合もほぼ同じだったと言えるようです。
野球でアウト・セーフの判定が微妙な場合、一方のファンは「アウト!」と叫び、他方のファンは「セーフだ!」と主張する。学者・専門家がそれとほとんど同レベルだとまずいでしょう。
その点、先の引用のように「分析の前から結論が決まっている、というのは、あり得ないし、あっては駄目」という木村先生、9月10日のtwitterで次のように記しています。
▶「「研究者」が一般社会に発言する事に対して批判的な人は実際多い。自らの専門性を踏み外さずに、発言する事は容易ではない。でも、敢えて「踏み外している」ことを承知で、時に発言しなければならないと思う時もある思う。そのリスクを敢えて取ろうとするのは簡単ではない。率直に、自分には出来ない。」
このように、一方の立場での発言については「控えめ」でありながら、論点の整理役・説明役としてはけっこうベラベラと(?)しゃべる。このあたりがマスメディアの側からは重宝がられるのでしょうか? (木村先生がtweetしているように、小此木政夫先生が慶應大を停年退任し、九州大学特任教授となったため需要が増したということもあるかも・・・。)
あーあ、今回も自分の考えを述べる前の段階で終わってしまった・・・。(続く)
本ブログ9月7日の記事で、古田博司・下條正男・重村智計等の韓国を専門とする大学の先生方が雑誌で最近の韓国に対して感情もあらわに政治的主張を展開していることに、私ヌルボ、少し驚きあきれるようなニュアンスの文章を書きました。感情に流れている部分を捨象すれば、相当程度(?)納得できる内容ではあるんですけどね・・・。
その先生方と対照的な研究者が木村幹先生です。
木村先生のtwitterは有用な知見だけでなく、軽いユーモアにもあふれていて、以前から愛読しています。
※木村先生、書店でKSJ先生の新書の上に自分の新書を置いたりしてるのを店員さんに見つかって注意されたりもしてます(笑)。→コチラ参照
木村先生の持ち味は、領土問題や歴史認識問題等について、たとえば「~だから竹島は日本の領土だ」とか、「~だから日本は謝罪し補償すべきだ」等の意見を述べ立てないこと。
日韓がそれぞれの主張を相手方にぶつけ合っても不毛な議論が続くばかりであり、それ以前に、なぜどんな背景の下にそれらの問題が問題化してきたのか、あるいはなぜ両国の認識が食い違うのかを探るというのが基本姿勢です。
木村先生らしいtweetを8月以降の中から拾ってみると・・・
▶「8月15日 またぞろ、お前は日本と韓国のどちらの味方か、みたいなツイートがわらわらと。でもね、本来、研究者にはそんなのないんだよ。
だって、分析の前から結論が決まっている、というのは、あり得ないし、あっては駄目なんだよね。フラットな分析をしてこそ、統治エリートや世論が正確な判断ができるんだし、結果としてより実務にも役に立つ。少なくとも、自分はそう考えている。」
(「@takammmmm 木村幹氏という大学教員には失望した。学会では実績を重ねている人なのかもしれないが、韓国を研究している知識人として、従軍慰安婦問題について、いま「こう見るべき」と言う発言しないとダメだろう。言説研究の手順なんかを解説している場合ではないと思う」というtweetに対して・・・)
▶「9月1日 運動や啓蒙活動のために研究している訳じゃあないんだけどなぁ。」
・・・とまあこんな感じ。上掲の先生方と比べると、木村先生の方がナショナル・アイデンティティに浸りきってなくて、学問的にも信頼がおけるような気がします。(※「信頼がおけます」≠「信頼がおけるような気がします」)
さて、そのNHKスペシャルを見て、おそらく大多数の視聴者もそう思ったでしょうが、私ヌルボの感想も「櫻井よしこの一人勝ち」。
※およその内容は、相当に詳しく書かれている他のブログを参照されたし。→コチラとか、コチラとか、コチラ等々。
木村先生、事前のtweetでは、
▶「どうも役回りは交通整理らしい。が、問題は爆走する車に乗っている人よりも、その車を整理する為に、身一つで交差点の真ん中で交通整理をする人間の方が、遥かに死亡率が高そうだ、ということだ。」
・・・と呟いてましたが、結局は櫻井氏が経験にモノを言わせて巧みに突っ走った、というところでしょうか。
番組終了後の木村先生も、
▶「終わった。桜井さんに、完全に食われた。」
・・・と率直な感想。 そして、
▶「ホテルの部屋に戻った所。いろいろと反省中。役回りもあったのだけど、下手に抑えちゃったかなぁ。日本国内の保守派の議論と、韓国側の議論との間で、割り込むのが難しかった。その点、議論に慣れている人は、割り込んで行くタイミングが絶妙。そこは素直に感心。」
・・・と振り返り、反省しつつも、翌朝からは番組内で言えなかったこと等のtweetが続きます。
以下、いかにも木村先生らしいもの及び私ヌルボが共感を覚えたものを拾ってみます。(全体的に、ちょっと負け犬の遠吠えっぽい感じもしないではない?)
▶「9月24日 昨日のNスペ補逸。討論では、田中さんが日本政府の立場を、桜井さんが日本の保守派の意見を、韓国からの先生方が一致して韓国の公式見解を語った(ちょっと驚いた)のだけど、自分は過去の経験から、この手の「自らの意見の言いっ放し」が意味のある事だと思っていないので、引いた対応になりました。」
▶「ステレオタイプな見解の応酬で相手側を「論破」して、問題が解決するならいろいろな問題は既に解決している筈。また、日韓の大半の問題は資料や証言等々の「解釈」の問題なので、結局、平行線の議論にしかならない。という事で、「論破」は一見「痛快」だけど、余り意味がない。」
・・・櫻井よしこさんの鋭い弁舌に、大方の視聴者は溜飲を下げたでしょうけど、韓国の人たちにはほとんど通じないんだろうなー、きっと。
▶「補逸。更に続き。因みに見ていた人には、誤解した人もいるようだけど、桜井さんは中国との対立を念頭に「日韓関係は重要」と言う立場で議論をしていて、「にも拘らず韓国が反日的な姿勢を取っているのが良くない」というポジションでの議論。ある意味、自分よりも日韓関係重視論者だったりする。」
▶「Nスペこぼれ話。桜井さんは番組が終った後も、韓国からの先生方を捕まえて、彼等を「説得」しようとしていた。その意味では、確かに「熱い」人であり、また真剣に韓国側にメッセージを伝えようとしていた。どうしても分析者として、間をおいて日韓関係を見たい自分とは、全く違う。」
▶「相手を「論破」した先に「日韓友好」がある、と考えていることにおいては、実は桜井さんと韓国の人々の考え方は大きな類似点があったりする(ある意味波長があっている)。で、「そんなことする必要ないじゃん」と思っている自分としては、その考え方こそが日韓関係を阻害している、と思ったり。」
▶「「正しい」歴史がある、それを自分はわかる、だから他国に押しつけてもいい。そうやっておこる問題を歴史認識問題と呼ぶ。」
・・・「さりげなく」表される韓国に対する批判。日本側にもそういう傾向の人はいるが・・・。
※togetterでこの番組関連の木村教授のtweetをまとめて見ることができます。→コチラ。(慰安婦問題関係のtweetも多い。)
ところで、最近の領土問題に関しての、主にマスコミを通じての学者先生の言説を見聞きしながら、私ヌルボが抱いた疑問があります。
それは、「学者たるものは、自分が日本人(or韓国人)であれば日本(or韓国)のために研究すべきなのか? それとも、逆にそうした雑念(?)を排して学問的な正しさを求めるべきなのか?」ということ。大雑把に見ると、韓国人学者は前者が比較的多く、日本人学者は後者の人が多いように思えます。
しかし、意識的に前者の道を択ぶとすると、それは<御用学者>に他ならないでしょう。敗戦後の学界はその否定からスタートしたのではないですか?
おそらく、今日本の国益・国策に沿った線で意見を述べている学者・専門家諸氏は、「公正な研究・考察の結果である」と仰るかも・・・。しかし、日韓両国の学者・専門家の所論に接すると、自分の民族意識や思想性、政治理念等に研究の方向性や結論が左右されるのはむしろふつうのように見えます。
かつて、朝鮮戦争で先に攻撃したのは、左翼の立場に立つ人たちはそのほとんどが韓国の側だと考え、反共の立場の人たちは北朝鮮の側だと考えていて、それは学者の場合もほぼ同じだったと言えるようです。
野球でアウト・セーフの判定が微妙な場合、一方のファンは「アウト!」と叫び、他方のファンは「セーフだ!」と主張する。学者・専門家がそれとほとんど同レベルだとまずいでしょう。
その点、先の引用のように「分析の前から結論が決まっている、というのは、あり得ないし、あっては駄目」という木村先生、9月10日のtwitterで次のように記しています。
▶「「研究者」が一般社会に発言する事に対して批判的な人は実際多い。自らの専門性を踏み外さずに、発言する事は容易ではない。でも、敢えて「踏み外している」ことを承知で、時に発言しなければならないと思う時もある思う。そのリスクを敢えて取ろうとするのは簡単ではない。率直に、自分には出来ない。」
このように、一方の立場での発言については「控えめ」でありながら、論点の整理役・説明役としてはけっこうベラベラと(?)しゃべる。このあたりがマスメディアの側からは重宝がられるのでしょうか? (木村先生がtweetしているように、小此木政夫先生が慶應大を停年退任し、九州大学特任教授となったため需要が増したということもあるかも・・・。)
あーあ、今回も自分の考えを述べる前の段階で終わってしまった・・・。(続く)
全体を確かめてこうだ、ああだ言うのは結論付けられてない証拠。
これは学問でもなく中途半端な下調べ程度だと思うが。
検証して結論を出すのが学者だと思う。
だから何も言えない!
論破出来ないのは、勉強不足ではないか。
自分では論破したつもりでも相手を納得させることができなかったり、相手をさらに奮い立たせるだけだったりすると、それは学問の場での意見の突き合わせではなく、感情のぶつかり合いに堕してしまうのではないでしょうか?
論破が自己満足に止まっているかぎり、それは自己満足にしかすぎません。
(櫻井さんの主張が説得力があるのは私も認めますが。(日本人に対しては、ですけど。)