1つ前の記事で、李正子の短歌
<生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙(ごい)にくるしみ閉じゆく絵本 (『ナグネタリョン』所収)
を紹介しました。
そして、川村湊の在日文学論の書名にもなったこの<生まれたらそこがふるさと>という印象深いフレーズが、実は李正子が最初に発想したものではないということを最後に書きました。
『ナグネタリョン』の「生まれたらそこがふるさと」と題されたあとがきで、李正子は児童文学作家堀内純子(すみこ)の『はるかな鐘の音』のことを記しています。
堀内純子については、以前『ソウルは快晴』(1984)という本を買って読んだことがあります。それは児童書らしい装丁ですが、内容は京城第一高女出身の彼女が、戦後初めてかつての同級生たちとソウルを訪れた時の記録です。全斗煥政権の時代で、行く先々で写真撮影禁止等治安の厳しい状況と、そんな中懐かしさに急かれて昔の家を探し歩いたり、京畿女子高校と変わった母校を訪ねて現校長に温かく迎えられ、食事を共にしたこと等が帰国後まもない、興奮さめやらぬ、といった筆致で書かれていました。
『はるかな鐘の音』はその2年前の1982年発行で、野間児童文芸推奨作品賞を受賞した作品です。
その物語の中で、望郷と加害の意識との葛藤に悩む京城生まれの日本人少女みゆきを解き放った言葉が「生まれたらそこがふるさと、わたしたちはふるさとのきょうだい」だった、ということです。
【著者自身の思い出をふまえたと思われる感動的な物語です。】
横浜市立図書館にあったので、さっそく読んでみました。
入院中の小学生のみゆきたちが、ソウルから引き揚げてきた薬局の小島先生から話を聞くというのが基本設定です。小島先生の父が林業技術者というのは、作者と同じ。(あの浅川巧の同僚だたとか・・・。)
朝鮮半島には100万人近い日本人がいて、その少なくとも半分は朝鮮生まれ。残り半分のうち3分の2は家長にしたがって移住してきた家族たち。つまり選んでやってきたのは6分の1。
・・・ということを語った小島先生は、続けて子どもたちに自分の思いを打ち明けます。
「でも、これがよその国をのっとるということなのよ。生まれてきたこと自体が、わたしたちの罪だったの。」
「いちばんつらいのは、毎日が楽しかったことだわ。・・・あの楽しかった毎日が、みんな人の不幸の上になりたっていたなんて。・・・」
「わたしに、ふるさとはないの。あそこをふるさとだなんていってはいけないの。・・・」と語る一方で「でも、わたしのふるさとはあそこだわ。・・・」
このような強い罪責感はもちろん作者自身のものです。彼女は別のところで、「少し考えてみればわかることを、なぜ自分は気がつかなかったのか」と強く自問しています。
・・・みゆきは、そんな加害者意識に苛まれる小島先生の話に聞き入り、真剣に受けとめます。
たまたまみゆきの隣のベッドの女の子の名はミュンヒでした。もちろん韓国人。そのお母さんのヨンスギさんに小島先生から聞いた話をすると、ヨンスギさんは「その人の考え、まちがってる」と言って次のように話します。
「わたし、韓国人です。わたしもふるさとソウルを愛しています。もしだれかがあそこで生まれたことで不幸なら、わたしのふるさとが暗くなります。あそこで生まれてよかったといってくれたら、わたしのふるさと、明るくなります。」
ヨンスギさんのむこうに、小島先生が立っていました。・・・
「生まれたらふるさと。あなたのふるさとはソウル。わたしたちはふるさとのきょうだい。」
・・・肝心のところだけピックアップしてネタをばらしてしまいましたが、この場面、本当に感動的です。おとなが読んでも。
あとがきによると、この「生まれたらふるさと。わたしたちはふるさとのきょうだい。」ということばは「静岡新聞」に加害者の悲しみをテーマに随想を書いた時、読者の一人の韓国人から寄せられたもの、とのことです。
つまりは、もとをたどってみれば「生まれたらそこがふるさと」という言葉は在日の人たちに向けられた言葉ではなく、植民地朝鮮生まれの日本人に韓国人がかけた言葉だったのですね。
しかし、「わたしたちはふるさとのきょうだい」とは、本当に心が癒される言葉です。「反韓」とか「反日」とか街で叫び合っている昨今とは全然別の世界です。
さて、ここで私ヌルボのさらなる疑問があります。
映画「最初の人間」に戻って、最後の母の家の場面。コルムリ(=カミュ)は母に訊ねます。
「なぜ(アルジェリアに)留まりたいの?」。
母は微笑みながら答えます。「フランスにはアラブ人がいない」。
このシーンを観ながら考えたのは、「なぜ植民地朝鮮にいた日本人のほとんどは「当然のように」日本に引揚げてきたのか?」ということです。
アルジェリアでも、コロンとよばれたフランス系入植者約100万人は、1962年アルジェリアが独立すると本国フランスに引揚げたそうです。
前の記事に書いたように、フランスは日韓併合(1910年)よりずっと以前の1847年からアルジェリアを支配してきたので、日本の場合と共通する点もあれば異なることもあるようです。
今になって知りましたが、昨年12月21日NHKの「World Wave Tonight」で「フランスとアルジェリア “過去”とどう向き合うのか」と題した特集を放映していたのですね。NHKのサイトの内容紹介ページ(→コチラ)を見ると、日韓間の<歴史認識>問題といろいろダブってます。
(「日帝36年」にたいして、コチラは132年か・・・。)
当初の予定を変更してあと1回延長し、引揚げ者のことを中心に考えてみたいと思います。
[付記]
李正子「鳳仙花のうた」(影書房.2003)によると、李正子は堀内純子から「はるかな鐘の音」「ソウルは快晴」「なつかしのサバンナ」の3冊の本を受け取っています。
「なつかしのサバンナ」は、サバンナを駆けていたキリンが突然捕らえられ、日本の動物園へ、という物語。
この本について、李正子は次のように書いています。
「人もキリンも、生まれたところをふるさととするのだろう。そうだとしたら、ここで生まれ育った私は、日本をふるさとと思っていいのだろうか。そして私の子供たちのそれも・・・・・・。そう思って近づくと、それはまだ遠い先にある。辿り着いてみても、どこかよそよそしく、やっぱり違うのか、とも。
<生まれたらそこがふるさと>と堀内さんは、『はるかな鐘の音』で書いておられる。それを美しいと思い、理解する一方で、日本生まれの日本育ちの韓国人には、ふるさとはどこかサバンナのにげ水のように思えるのである。キリンが駆ける、一匹、二匹・・・・・・。
草原をにげ水ゆるるままに行くキリンの影かわが子か知らぬ
<生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙(ごい)にくるしみ閉じゆく絵本 (『ナグネタリョン』所収)
を紹介しました。
そして、川村湊の在日文学論の書名にもなったこの<生まれたらそこがふるさと>という印象深いフレーズが、実は李正子が最初に発想したものではないということを最後に書きました。
『ナグネタリョン』の「生まれたらそこがふるさと」と題されたあとがきで、李正子は児童文学作家堀内純子(すみこ)の『はるかな鐘の音』のことを記しています。
堀内純子については、以前『ソウルは快晴』(1984)という本を買って読んだことがあります。それは児童書らしい装丁ですが、内容は京城第一高女出身の彼女が、戦後初めてかつての同級生たちとソウルを訪れた時の記録です。全斗煥政権の時代で、行く先々で写真撮影禁止等治安の厳しい状況と、そんな中懐かしさに急かれて昔の家を探し歩いたり、京畿女子高校と変わった母校を訪ねて現校長に温かく迎えられ、食事を共にしたこと等が帰国後まもない、興奮さめやらぬ、といった筆致で書かれていました。
『はるかな鐘の音』はその2年前の1982年発行で、野間児童文芸推奨作品賞を受賞した作品です。
その物語の中で、望郷と加害の意識との葛藤に悩む京城生まれの日本人少女みゆきを解き放った言葉が「生まれたらそこがふるさと、わたしたちはふるさとのきょうだい」だった、ということです。
【著者自身の思い出をふまえたと思われる感動的な物語です。】
横浜市立図書館にあったので、さっそく読んでみました。
入院中の小学生のみゆきたちが、ソウルから引き揚げてきた薬局の小島先生から話を聞くというのが基本設定です。小島先生の父が林業技術者というのは、作者と同じ。(あの浅川巧の同僚だたとか・・・。)
朝鮮半島には100万人近い日本人がいて、その少なくとも半分は朝鮮生まれ。残り半分のうち3分の2は家長にしたがって移住してきた家族たち。つまり選んでやってきたのは6分の1。
・・・ということを語った小島先生は、続けて子どもたちに自分の思いを打ち明けます。
「でも、これがよその国をのっとるということなのよ。生まれてきたこと自体が、わたしたちの罪だったの。」
「いちばんつらいのは、毎日が楽しかったことだわ。・・・あの楽しかった毎日が、みんな人の不幸の上になりたっていたなんて。・・・」
「わたしに、ふるさとはないの。あそこをふるさとだなんていってはいけないの。・・・」と語る一方で「でも、わたしのふるさとはあそこだわ。・・・」
このような強い罪責感はもちろん作者自身のものです。彼女は別のところで、「少し考えてみればわかることを、なぜ自分は気がつかなかったのか」と強く自問しています。
・・・みゆきは、そんな加害者意識に苛まれる小島先生の話に聞き入り、真剣に受けとめます。
たまたまみゆきの隣のベッドの女の子の名はミュンヒでした。もちろん韓国人。そのお母さんのヨンスギさんに小島先生から聞いた話をすると、ヨンスギさんは「その人の考え、まちがってる」と言って次のように話します。
「わたし、韓国人です。わたしもふるさとソウルを愛しています。もしだれかがあそこで生まれたことで不幸なら、わたしのふるさとが暗くなります。あそこで生まれてよかったといってくれたら、わたしのふるさと、明るくなります。」
ヨンスギさんのむこうに、小島先生が立っていました。・・・
「生まれたらふるさと。あなたのふるさとはソウル。わたしたちはふるさとのきょうだい。」
・・・肝心のところだけピックアップしてネタをばらしてしまいましたが、この場面、本当に感動的です。おとなが読んでも。
あとがきによると、この「生まれたらふるさと。わたしたちはふるさとのきょうだい。」ということばは「静岡新聞」に加害者の悲しみをテーマに随想を書いた時、読者の一人の韓国人から寄せられたもの、とのことです。
つまりは、もとをたどってみれば「生まれたらそこがふるさと」という言葉は在日の人たちに向けられた言葉ではなく、植民地朝鮮生まれの日本人に韓国人がかけた言葉だったのですね。
しかし、「わたしたちはふるさとのきょうだい」とは、本当に心が癒される言葉です。「反韓」とか「反日」とか街で叫び合っている昨今とは全然別の世界です。
さて、ここで私ヌルボのさらなる疑問があります。
映画「最初の人間」に戻って、最後の母の家の場面。コルムリ(=カミュ)は母に訊ねます。
「なぜ(アルジェリアに)留まりたいの?」。
母は微笑みながら答えます。「フランスにはアラブ人がいない」。
このシーンを観ながら考えたのは、「なぜ植民地朝鮮にいた日本人のほとんどは「当然のように」日本に引揚げてきたのか?」ということです。
アルジェリアでも、コロンとよばれたフランス系入植者約100万人は、1962年アルジェリアが独立すると本国フランスに引揚げたそうです。
前の記事に書いたように、フランスは日韓併合(1910年)よりずっと以前の1847年からアルジェリアを支配してきたので、日本の場合と共通する点もあれば異なることもあるようです。
今になって知りましたが、昨年12月21日NHKの「World Wave Tonight」で「フランスとアルジェリア “過去”とどう向き合うのか」と題した特集を放映していたのですね。NHKのサイトの内容紹介ページ(→コチラ)を見ると、日韓間の<歴史認識>問題といろいろダブってます。
(「日帝36年」にたいして、コチラは132年か・・・。)
当初の予定を変更してあと1回延長し、引揚げ者のことを中心に考えてみたいと思います。
[付記]
李正子「鳳仙花のうた」(影書房.2003)によると、李正子は堀内純子から「はるかな鐘の音」「ソウルは快晴」「なつかしのサバンナ」の3冊の本を受け取っています。
「なつかしのサバンナ」は、サバンナを駆けていたキリンが突然捕らえられ、日本の動物園へ、という物語。
この本について、李正子は次のように書いています。
「人もキリンも、生まれたところをふるさととするのだろう。そうだとしたら、ここで生まれ育った私は、日本をふるさとと思っていいのだろうか。そして私の子供たちのそれも・・・・・・。そう思って近づくと、それはまだ遠い先にある。辿り着いてみても、どこかよそよそしく、やっぱり違うのか、とも。
<生まれたらそこがふるさと>と堀内さんは、『はるかな鐘の音』で書いておられる。それを美しいと思い、理解する一方で、日本生まれの日本育ちの韓国人には、ふるさとはどこかサバンナのにげ水のように思えるのである。キリンが駆ける、一匹、二匹・・・・・・。
草原をにげ水ゆるるままに行くキリンの影かわが子か知らぬ
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