8月6日の記事で小説のタイトルだけ書きましたが、集英社<戦争×文学>第6巻「日清日露の戦争」中の、木村毅の「兎と妓生と」という小説を読みました。
1923年「大阪朝日新聞」に「兎と妓生」のタイトルで連載された、木村毅の最初の小説です。単行本は1925年新詩壇社から発行。この時は「兎と妓生」となっています。
ネット検索してもほとんど情報の得られない作品なので、内容を少し詳しく紹介します。
舞台は1916年の朝鮮・順天の衛戍病院。南原の守備隊にいた「私(森)」は、蛟龍山山麓での演習中卒倒し、以後も高熱が引かず、病院送りとなった23歳の兵士です。
病院と生垣を隔てて、順天新地では一番大きな妓楼・千吉楼が隣接しています。「私」はやはり南原から来た患者仲間の田村の手引きで病院を抜け出し、生垣の木戸をはずして日本人の芸妓たちと話をするようになります。
ところが彼女たちの話によると、同じ妓楼に村里(チョーリ)という美人の朝鮮人妓生(きいさん)がいて、「森さんに岡惚れしている」とのことです。
さらに、その村里の家は「朝鮮でも有名な立派な家柄」だが、父親が「日本に謀反」をして、「四五年前とかに大邱(たいきゅう)で死刑にされた」ので「こんな稼業におちぶれた」というのです。
「私」は、その父親は「任実郡出身の有名な叛徒の巨魁」の李学士だろうと推測します。
日独戦争(第一次大戦)が開戦した際、「守備隊の一部が青島へ送られて行ったのを見すまし、諸道の同志を糾合して、各都府の官衙や日本人商店を襲撃したのが李学士であった」こと、また彼には娘がいて、「幼い頃は父につれられて日本に渡来し、女学校も何年とか修め・・・父の死後は私塾を開いて、かなりの生徒を集めていた」が、「時々憲兵や巡査が様子をさぐりに行くと、大変な剣幕で総督府政治を攻撃する」ということだったが、「一年程前に私塾をたたんで行衛を晦ましてしまった」ということを「私」は皆に説明します。
森は「青島戦争の始まった年の夏休みに・・・非戦演説をして、日本全国を廻った」こともあり、「隊内では社会主義者として睨まれてて、朝鮮の亡国という状態に深く同情している一風変った兵隊」です。そのことが田村から通訳の朝鮮人青年・朴成煥を経て彼女に伝わり、好感情を持って受け容れられている、と田村は言います。朴成煥はしばしば彼女の所に遊びに行っている、ということも。
朴成煥は京城の高等普通学校を出た青年で、「私」と政治や文学についての話し相手です。彼が暇さえあると読んでいる「青春」という「鮮文の雑誌」を「私」が借りて読むと、「どの頁を開いてみても鬱屈たる反抗の気分が横溢」しています。とくに崔南善の「文学の社会的影響」と題する巻頭論文。「民約論」、「猟人日記」、「アンクル・トムズ・ケビン」がそれぞれフランス革命、農奴解放、奴隷解放に刺激を与えたように、「日に日に萎靡してゆく朝鮮民族の精神作興のためには大文学の出現を望むと論断した堂々たるもの」でした。これについて論じ合った後、朴成煥はその後ツルゲーネフの日本訳を釜山の書店から取り寄せて熱心に読むようになります。
ある夕方、病院で飼っていた兎が1匹逃げ出して妓楼の方に行ってしまいます。それを偶然つかまえてくれたのが他ならぬ村里でした。兎のことなど差し障りのない話を交わし、会釈をして別れます。
その数日後、彼女が妓楼から逃げたことを「私」は看護卒から聞かされます。気の染まない客の前で、酔っぱらったあげく、大声で独立の歌を歌った、ということです。独立の歌とは、「日韓合併当時朝鮮人の間では都鄙を通じて流行したもの」で、「今では憲兵隊が歌うことを厳禁した許りか、写しをもっていてさえも厳しく詮議する程、やかましくなっている」と看護卒は説明します。憲兵隊は彼女を拘留しますが、説諭の上翌日放還します。しかし彼女はそのまま行方を晦ませます。
彼女が失踪して6日目、「私」宛に差出人の名のない手紙が届きます。「鮮文でしたためた書状」は村里からのものでした。自分が李学士の娘であることを明かし、「あなた様の思出ばかりは・・・チャンと胸にしまって・・・いつくしみますの」と彼女はしたためています。
この手紙を朴成煥に見せたくて「私」は彼の出勤を待ちますが、その日の朝、朴の妹が彼の辞表を届けて来たということでした。
「日清日露の戦争」の巻に入っていますが、それらの戦争とは直接関係なく、上記のように韓国併合の頃の義兵闘争に関わる作品です。
この小説を読んで、私ヌルボが知ったこと、考えたこと等を列挙します。
①併合の6年後の朝鮮現地の雰囲気をよく伝えている、と言っていいのか・・・。(著者の木村毅は1894年生まれで、1917年早稲田大卒業です。どのようにして彼が併合前後の朝鮮の、とくに義兵関係の情報を知りえたのか?)
②日本の軍隊の中にも、主人公のように「開明的」な兵士がいたのか・・・。
③李学士には具体的なモデルがいたのか?
・・・ネット検索の結果、李錫庸(이석용.イ・ソギョン.1878∼1914)という義兵長がそれらしいように思えます。逮捕されたのは日独戦争前の1913年ですが、小説と同じく大邱で処刑されています。→関係韓国サイト (→日本語自動翻訳)
任実郡の彼の生家は、全羅北道の文化財に指定されています。しかし、彼の娘のことは、韓国サイトを探してもよくわかりません。したがって、この小説もどこまで事実に即しているのかも確認できません。
※参考ブログ記事→コチラ
④看護卒が独立の歌の歌詞の一部を書いた部分は「・・・(以下二十行抹殺)・・・」とされていて、原文は不明です。木村毅は、どうしてこの歌のことを知っていたのか?
※この小説では、この他に村里の手紙の一部が17行削除されています。しかし、このように明確に抗日義兵の側に同情的な作品が新聞連載されていたこと自体をとってみても、1927年当時はまだ検閲がそれほど厳しくなかったといっていいかも・・・。
文学作品としてというよりも、歴史の勉強のような感じで読むことになってしまいました。
ここで著者の木村毅について。
ウィキペディアによると、名前の毅は「き」と読むそうです。
実はヌルボ、彼の名前は以前明治文化研究会についての本を読んだ時に目にしていたはずですが記憶に残っていませんでした。尾佐竹猛の後を受けて、1946年にその明治文化研究会の第3代会長になっています。
尾佐竹猛については、以前「日本新聞協会報」に戦時中なかなか気骨ある小文を載せていたのが記憶に残っています。
木村毅も、上記のウィキの説明に「あまりの著書の多さと雑駁さに、未だ全集等はなく・・・」とある通りおどろくほどの著作の数々です。大正末には社会主義思想の啓蒙活動で全国を遊説した、とか、フェビアン協会や労農党に参加等々、経歴そのものもユニーク。「文学、歴史、政治、経済、あらゆる分野に精通し、生きた百科事典といわれた」というように、スケールの大きな大知識人だったようです。今までよく知らなかったことが恥ずかしいです。
1923年「大阪朝日新聞」に「兎と妓生」のタイトルで連載された、木村毅の最初の小説です。単行本は1925年新詩壇社から発行。この時は「兎と妓生」となっています。
ネット検索してもほとんど情報の得られない作品なので、内容を少し詳しく紹介します。
舞台は1916年の朝鮮・順天の衛戍病院。南原の守備隊にいた「私(森)」は、蛟龍山山麓での演習中卒倒し、以後も高熱が引かず、病院送りとなった23歳の兵士です。
病院と生垣を隔てて、順天新地では一番大きな妓楼・千吉楼が隣接しています。「私」はやはり南原から来た患者仲間の田村の手引きで病院を抜け出し、生垣の木戸をはずして日本人の芸妓たちと話をするようになります。
ところが彼女たちの話によると、同じ妓楼に村里(チョーリ)という美人の朝鮮人妓生(きいさん)がいて、「森さんに岡惚れしている」とのことです。
さらに、その村里の家は「朝鮮でも有名な立派な家柄」だが、父親が「日本に謀反」をして、「四五年前とかに大邱(たいきゅう)で死刑にされた」ので「こんな稼業におちぶれた」というのです。
「私」は、その父親は「任実郡出身の有名な叛徒の巨魁」の李学士だろうと推測します。
日独戦争(第一次大戦)が開戦した際、「守備隊の一部が青島へ送られて行ったのを見すまし、諸道の同志を糾合して、各都府の官衙や日本人商店を襲撃したのが李学士であった」こと、また彼には娘がいて、「幼い頃は父につれられて日本に渡来し、女学校も何年とか修め・・・父の死後は私塾を開いて、かなりの生徒を集めていた」が、「時々憲兵や巡査が様子をさぐりに行くと、大変な剣幕で総督府政治を攻撃する」ということだったが、「一年程前に私塾をたたんで行衛を晦ましてしまった」ということを「私」は皆に説明します。
森は「青島戦争の始まった年の夏休みに・・・非戦演説をして、日本全国を廻った」こともあり、「隊内では社会主義者として睨まれてて、朝鮮の亡国という状態に深く同情している一風変った兵隊」です。そのことが田村から通訳の朝鮮人青年・朴成煥を経て彼女に伝わり、好感情を持って受け容れられている、と田村は言います。朴成煥はしばしば彼女の所に遊びに行っている、ということも。
朴成煥は京城の高等普通学校を出た青年で、「私」と政治や文学についての話し相手です。彼が暇さえあると読んでいる「青春」という「鮮文の雑誌」を「私」が借りて読むと、「どの頁を開いてみても鬱屈たる反抗の気分が横溢」しています。とくに崔南善の「文学の社会的影響」と題する巻頭論文。「民約論」、「猟人日記」、「アンクル・トムズ・ケビン」がそれぞれフランス革命、農奴解放、奴隷解放に刺激を与えたように、「日に日に萎靡してゆく朝鮮民族の精神作興のためには大文学の出現を望むと論断した堂々たるもの」でした。これについて論じ合った後、朴成煥はその後ツルゲーネフの日本訳を釜山の書店から取り寄せて熱心に読むようになります。
ある夕方、病院で飼っていた兎が1匹逃げ出して妓楼の方に行ってしまいます。それを偶然つかまえてくれたのが他ならぬ村里でした。兎のことなど差し障りのない話を交わし、会釈をして別れます。
その数日後、彼女が妓楼から逃げたことを「私」は看護卒から聞かされます。気の染まない客の前で、酔っぱらったあげく、大声で独立の歌を歌った、ということです。独立の歌とは、「日韓合併当時朝鮮人の間では都鄙を通じて流行したもの」で、「今では憲兵隊が歌うことを厳禁した許りか、写しをもっていてさえも厳しく詮議する程、やかましくなっている」と看護卒は説明します。憲兵隊は彼女を拘留しますが、説諭の上翌日放還します。しかし彼女はそのまま行方を晦ませます。
彼女が失踪して6日目、「私」宛に差出人の名のない手紙が届きます。「鮮文でしたためた書状」は村里からのものでした。自分が李学士の娘であることを明かし、「あなた様の思出ばかりは・・・チャンと胸にしまって・・・いつくしみますの」と彼女はしたためています。
この手紙を朴成煥に見せたくて「私」は彼の出勤を待ちますが、その日の朝、朴の妹が彼の辞表を届けて来たということでした。
「日清日露の戦争」の巻に入っていますが、それらの戦争とは直接関係なく、上記のように韓国併合の頃の義兵闘争に関わる作品です。
この小説を読んで、私ヌルボが知ったこと、考えたこと等を列挙します。
①併合の6年後の朝鮮現地の雰囲気をよく伝えている、と言っていいのか・・・。(著者の木村毅は1894年生まれで、1917年早稲田大卒業です。どのようにして彼が併合前後の朝鮮の、とくに義兵関係の情報を知りえたのか?)
②日本の軍隊の中にも、主人公のように「開明的」な兵士がいたのか・・・。
③李学士には具体的なモデルがいたのか?
・・・ネット検索の結果、李錫庸(이석용.イ・ソギョン.1878∼1914)という義兵長がそれらしいように思えます。逮捕されたのは日独戦争前の1913年ですが、小説と同じく大邱で処刑されています。→関係韓国サイト (→日本語自動翻訳)
任実郡の彼の生家は、全羅北道の文化財に指定されています。しかし、彼の娘のことは、韓国サイトを探してもよくわかりません。したがって、この小説もどこまで事実に即しているのかも確認できません。
※参考ブログ記事→コチラ
④看護卒が独立の歌の歌詞の一部を書いた部分は「・・・(以下二十行抹殺)・・・」とされていて、原文は不明です。木村毅は、どうしてこの歌のことを知っていたのか?
※この小説では、この他に村里の手紙の一部が17行削除されています。しかし、このように明確に抗日義兵の側に同情的な作品が新聞連載されていたこと自体をとってみても、1927年当時はまだ検閲がそれほど厳しくなかったといっていいかも・・・。
文学作品としてというよりも、歴史の勉強のような感じで読むことになってしまいました。
ここで著者の木村毅について。
ウィキペディアによると、名前の毅は「き」と読むそうです。
実はヌルボ、彼の名前は以前明治文化研究会についての本を読んだ時に目にしていたはずですが記憶に残っていませんでした。尾佐竹猛の後を受けて、1946年にその明治文化研究会の第3代会長になっています。
尾佐竹猛については、以前「日本新聞協会報」に戦時中なかなか気骨ある小文を載せていたのが記憶に残っています。
木村毅も、上記のウィキの説明に「あまりの著書の多さと雑駁さに、未だ全集等はなく・・・」とある通りおどろくほどの著作の数々です。大正末には社会主義思想の啓蒙活動で全国を遊説した、とか、フェビアン協会や労農党に参加等々、経歴そのものもユニーク。「文学、歴史、政治、経済、あらゆる分野に精通し、生きた百科事典といわれた」というように、スケールの大きな大知識人だったようです。今までよく知らなかったことが恥ずかしいです。
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