5月15日の記事(→コチラ)で卞宰洙(ピョン・ジェス)「朝鮮半島と日本の詩人たち」(スぺース伽耶)を紹介しました。その本で取り上げられている詩人90人の中で、名前からして知らなかった約40人中の1人が中浜哲です。
その本に掲載されている詩は「何處へ行く?」と題された詩の一部です。
髭の凍る冬の晨だつた
京城の裏長屋を借りて住んで居た
『久さん』は漢江へスケートと魚釣りを見に出掛けた
『鐵』は朝鮮芝居の楽屋へ潜り込んで行つた
『大さん』は辦當を携へて圖書舘へ通つた
オンドルは無かつたが
アンカは有った
三人は其日の収穫を語り合つた
朝鮮の夜は重苦しかつた
(※文字の表記は上右画像の「中浜哲詩文集」(黒色戦線社.1992年刊)に拠る。)
つまり、この詩の一節は中浜哲が自身を含め3人で朝鮮・京城にいた時のことを回想したものです。
この詩についての記事は→コチラの<朝鮮新報>のサイトで読むことができます。
※題の「何處へ行く?」が「何故へ行く?」になっていたり、「『大さん』は~」の1行が抜けているので要注意。
その説明にもあるように、『久さん』は和田久太郎、『鐵』は中浜哲(本名:富岡誓(ちかい)、『大さん』は古田大次郎です。(大二郎も誤り。)
では、中浜たちは何のために朝鮮に行ったのでしょうか?
卞宰洙さんの説明文には彼らが「1920年代の無政府主義者」だったこと、そしてこの詩の一節は「朝鮮に身を避けていた時期を描いたもの」とは記されていますが、一体何から身を避けていたのか書かれていません。もう少し詳しく知りたいと思い、図書館で関連書を探してみると、意外なほど多くの本が出ていました。
たとえば竹中労「黒旗水滸伝 大正地獄篇(下)」(皓星社)には、かわぐちかいじによる次のような挿画がありました。
この本のキャッチコピーを見ると「あの竹中労と若き日のかわぐちかいじが描く! 革命家、美女・妖女、テロリスト、大陸浪人、快人・怪人が織りなす大正アナキズムの世界。」とあります。私ヌルボ、竹中労の本を読むのは何年ぶりか・・・。いやあ、やっぱり情熱とパワーのこもった本です。この下巻は、歴史教科書の見出しにふつうにある「大正デモクラシー」という微温的な(?)言葉からイメージされる大正後期の社会とは違い、テロが頻発する殺伐とした時代像を描き出しています。(竹中労は、60年代後期の学生・労働者運動の高揚と、この大正時代後期を重ね合わせていたのですね。)
★テロ事件の例 1921(大正10)年 9月28日 国粋主義者朝日平吾により安田善次郎暗殺。
同年11月 4日 中岡艮一により原敬首相暗殺。
1923(大正12)年12月27日 社会主義者難波大助が皇太子・摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃。(虎ノ門事件)
※この事件は、ちょうど中浜や古田が京城に来ていた時に起こった。
基本的なことですが、彼らが属していた組織は1922年中浜哲が中心になって結成したfont color="scarlet">ギロチン社という組織です。なんとも穏やかではないこの名は「首になった人間の集まりだから」(「中浜哲詩文集」中の倉地啓司「ギロチン社」)という意味とのことです。ギロチン社について高校日本史の教科書には載っていません。中浜哲が1922年10月古田大次郎たちとともに結成した無政府主義の結社です。中浜はすでに単独で同年4~5月来日中のイギリス皇太子の暗殺を計って御殿場・岐阜・京都・神戸とピストルを持って追うものの機を逸して失敗しています。
私ヌルボ、このギロチン社関係の本をいろいろ漁ってみて知ったのは、中浜哲以外にも優れた文才・詩才を示したメンバーが実に多かったこと。古田大次郎は後に死刑に処せられる前に遺書として書いた「死の懺悔」が数十版を重ねるベストセラーとなり、和田久太郎は飄然とした俳句を作る人で、松下竜一「久さん伝」(講談社)や正津勉「脱力の人」(河出書房新社)等で好意的にとりあげられています。
※これらの人々については「日本アナキズム運動人名事典」にかなり詳しく説明されています。また→コチラのサイトは日本(&朝鮮)のアナキズム関係の人物・運動・組織について驚くほど多くの情報を提供しています。
ギロチン社の資金源は、いわゆる<リャク>でした。掠奪の「掠」。つまり大会社に対する強請(ユスリ)で、とくにハッタリが強く弁舌に巧みな中浜が指南役となり、三井・岩崎・古河・安田等の富豪や三越・高島屋等の百貨店、満鉄・芝浦製作所・日本ビール等の大会社から平均20~30円程度、多い時には200~300円をせしめていました。ただ、そのほとんどは生活費と遊興費に費消されたのですが・・・。
このような<リャク>の時も、またメンバーたちが私娼窟に繰り出す時も仲間に加わらなかったのが古田大次郎でした。早稲田大出身(中退)でテロリストの道を自ら選びながらもまじめでピュアな一面を持ち合わせていた人物で、対照的な性格の中浜とは無二の親友といった間柄でした。そんな彼が関東大震災が起こった翌月の1923年10月はからずもギロチン社による最初の(そして最後の)殺人にはからずも手を染めてしまったのは皮肉なことでした。
それは古田が小川義雄、内田源太郎とともに大阪の第十五銀行玉造支店小坂派出所で現金運搬の行員を襲った事件で、彼らは現金の奪取に失敗したばかりか古田が銀行員をはずみで刺殺してしまったというものです。
古田等は逃走し、彼が事件の主犯ということも知られませんでした。しかし「この事件が彼らの運命を決定した。古田大次郎は強盗殺人の現行主犯となり、中浜鉄はその教唆主犯となった。もはやあとがえりできぬ地点を、彼らは踏みこえてしまったのだ。」(平野謙「さまざまな青春」)・・・というわけで、古田は「内地にウロツイていては危険だという中浜の心配からしばらく朝鮮にでも遊ぶということとなった」(古田大次郎「死刑囚の思い出」)のです。
・・・これが古田等が朝鮮に渡った理由その1です。
そして2つ目の理由は爆弾や拳銃の入手。仲間の逮捕に対する報復や脱獄の計画、あるいは(大杉グループの)和田久太郎や村木源次郎が企てている大杉栄虐殺に対する復讐計画への協力のために必要という中浜と古田の判断でした。
まずその年(1923年)11月半ば過ぎに古田が中浜の友人で朝鮮に詳しい高島三次を「お守役兼案内者」として朝鮮に渡ります。
2、3日後内地に帰った高島に変わって中浜がやってきます。その後金策のため古田は12月末に内地に戻り、1月末に和田久太郎とともに再び朝鮮に渡ります。冒頭の詩の一部分は、この1924年2月の3人の京城での生活の一コマです。彼らの当地での生活やそこで見聞したこと等は古田大次郎「死刑囚の思い出」(「日本人の自伝8」(平凡社)所収)にいろいろ具体的に記されています。その内容はなかなか興味深いことが盛りだくさん。
また、朝鮮で爆弾や拳銃を入手するといっても中浜等には成算はあったのか? なんらかの伝手(つて)があったとしたら、それはどのようなものだったのか? これも関連書を20冊ばかり読むうちに見えてきました。
・・・どうもチェーンリーディング(1冊→1冊)というよりも1冊→3冊→9冊という核分裂型リーディングになって収拾がつかなくなってしまいました。次回は中浜等の京城体験か、彼らと朝鮮独立をめざすテロ組織との接点についてのいずれかについて書きます。
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