11月29日の記事(→コチラ)で少し書いたように、今月いっぱい韓国映像資料院の公式サイトで崔寅奎(최인규.チェインギュ)監督の映画「授業料(수업료)」(1940)を無料で観ることができます。
※観るためには、会員登録が必要ですが、その方法(ちょっと面倒)については先の記事を参照してください。
「授業料」は日本統治時代に作られた映画で、韓国映像資料院が今年6月中国電影資料館で35ミリプリント複写本を入手したことは9月韓国のTVや新聞等で「韓国最初の児童映画」「日帝時代の生活がわかる」等々と報じられました。
この映画の原作は、光州の北町公立尋常小学校(現・寿昌初等学校)4年生の禹寿栄(ウ・スヨン)が書いた同名の綴り方です。それは(京城日報の)「京日小学生新聞」公募で朝鮮総督賞を受けたものです。
さっそく映画を観てみると、舞台は光州ではなく水原(スウォン)になっています。それも水原華城(ファソン)の城域内の北の方にある華虹門のすぐ近くの梅香(メヒャン)女子尋常小学校(現・梅香女子情報高校と梅香中学校)とその付近で撮影されたので、1997年には世界文化遺産に指定された華城の往時の姿が随所で映し出されているのも興味深いところです。
以下、ストーリーをたどってみます。日本で一般公開の機会はなさそう(そのうち京橋のフィルムセンターあたりで上映するかな?)なのでネタバレもろあり、それも相当に細かいです。
主人公は水原に住む小学校4年の禹栄達(ウ・ヨンダル)。勉強もでき、行いも模範的な生徒です。
しかし家が貧しく、父母は行商に出たまま何ヵ月もの間手紙も送金も途絶えています。
悪いことに、廃品回収の仕事をしているおばあさんも病で臥せって、ますます生活は窮迫してしまいます。家主がやってきては溜まった家賃の催促をするような状態で、とても授業料は納めることができません。
クラスには栄達以外にも5、6人ほどは期日に授業料を出せません。担任の日本人の田代先生は優しくて叱られることはありませんが、まじめな栄達少年は授業料のことが気に懸かって、学校を欠席するようになります。
この映画に悪人は登場しません。最初の方で、勉強熱心な女の子・安貞姫(アン・ジョンヒ)に対して男子たちが「女のくせにナマイキだな(계집애가 건방져)」などと言ったりしているので、これはイジメに発展するのかと思ったらそんなことにもなりません。
家主も家賃納入の延期を哀願するおばあさんに対して「今度だけ」と言いつつ立ち去ります。
栄達の家の窮状を知った級友たちは助けに乗り出します。裕福な家の子供炳準(ピョンジュン)は廃品としてあげるために台所から鍋を持ち出そうとしたり、その姉の紫蘭は炳準に勉強を教えてくれる栄達にご飯を出してあげたりします。
その後、栄達の家にようすを見にやってきた先生。臥せっているおばあさんの朝鮮語は少ししかわかりません。「モムサル? この言葉がわからないので困ったな」と言っているところへ、見舞いにやってきたのが紫蘭。教養のある新女性の彼女は日本語が話せるので通訳してくれます。
※モムサル(몸살)とは過労などが原因で起こる体調不良のこと。
事情を知った先生はポケットマネーで授業料+αをおばあさんに渡しますが、翌朝授業料を持って学校に行こうと家を出た矢先、栄達は門口で出くわした家主にそれを家賃として払うことになってしまいます。
結局栄達は、おばあさんの言葉にしたがって、60里(日本の6里)離れた平澤(ピョンテク)の伯母さんの所まで歩いていって援助を求めます。(原作では光州から長城までの60里。) 出かける前夜には自分の弁当だけでなく、おばあさんの翌日の食事まで作ってあげるとは、とことん良い子です(うるうる)。
道すがら牛の引く荷車に乗せてもらったり、民家のおばさんに水をもらったり「愛馬進軍歌」(→コチラ)を歌ったりして無事平澤に到着。伯母さんは栄達にご飯を食べさせ、お金とお米を持たせた上、帰途はバスに乗せてくれます。バスの中では伯母さんにもらった森永キャラメルを食べたりもします。
帰宅した栄達が授業料を持って放課後の教室に行くと、先生は教卓の上の箱を彼に見せて言うには、それは級友たちが栄達のために級友会を開いて作った友情箱というもので、栄達の授業料のため彼らが小銭を入れたり、教師たちが給料の1%を入れたりするものであることのこと。それを聞いて栄達は感激します。
学校から戻ると、父からの封書が届いています。字が読めないおばあさんに代わって栄達が封を切ると5円の為替が入っていて、手紙にはお母さんの病気のため送金もできなかったが、今は治ったので秋夕(チュソク)には帰るといったことが書かれています。おばあさんも栄達もうれし泣き! さらに一緒に送られてきた小包には栄達が欲しかった運動靴が入っています。(前半と対照的に、後半はすべて都合よくコトが運びます。サービス過剰じゃないの?というほど。)
そして秋夕。華城の練武台の前では農楽がにぎやかに繰り広げられています。父母を迎えに栄達は駆け出します。たまたま歩いていた先生と紫蘭にも気づきません。2人はやはり外に出てきたおばあさんと出くわして話を聞きます。再会して喜ぶ親子3人、父「おばあさんは?」栄達「あそこにいるよ」と指差す先は下の画像。
【田代先生は薄田研二、紫蘭役は崔寅奎監督夫人の金信哉(キム・シンジェ)が演じています。】
ラストシーンはこれ。
めでたしめでたしの大団円でした。この映画は興行的にも成功を収めたそうで、多くの観客は満足して帰ったことでしょう・・・と思ったら、11月29日の記事でも紹介した<下川正晴研究室>の記事(→コチラ)には、小学校3年生の時にこの映画を見て「主人公の少年が悲惨なまでに貧しい暮らしを営む姿に涙を流した。そして涙を流す一方で、憤りがこみ上げてくるのを抑えることができなかった」という映画評論家の故・李英一の文章を紹介しています。
この映画から、当時の学校のようすを垣間見ることができます。以下列挙します。
・上述のように、先生は朝鮮語がよくわかりません。おばあさんの話がわからず「困ったなあ」などというくらいなら「勉強しろ!」と言いたくなりますが、それは今の感覚で、当時朝鮮にいた日本人の中では積極的に朝鮮語を学ぼうとした人はごく少なかったようです。(警察官等、職業上必要とした人は別として。)
・先生は、禹栄達を「ウ君」、あるいは「ウ・エイタツ」と漢字を日本読みにして呼んでいます。安貞姫は「アン・テイキ」。地名も「スイゲン(水原)」「ケイジョウ(京城)」等々。これも当時朝鮮にいた日本人の標準。生徒たちは学校内では(遊び時間も)日本語。朝鮮語を使うと叱られました。ただし下校時には朝鮮語になっています。
・日本統治下の朝鮮での教育の枠組みは第1~3次の朝鮮教育令で定められました。
朝鮮語も初等教育で教えられましたが、第1次(1911)→第2次(1922)→第3次(1938)とその時間数は減っていきました。しかしこの映画の時期の第3次教育令期でもゼロではありません。(1941年の国民学校令でなくなる。)
【黒板横の時間割。火曜3時間目等に「鮮語」とあるのが朝鮮語。】
・日本の統治下の朝鮮では、日本人の子供は小学校に通っていたのに対し、朝鮮人の子供は普通学校に行っていたのでは? ・・・と疑問に思った人がもしかしたらいるかも。たしかに第2次教育令期まではそのように分けていましたが1938年の第3次教育令で4月1日から普通学校の名称は消えてすべて尋常小学校に統一されました。しかし1941年国民学校令により尋常小学校、高等小学校の名称はすべて国民学校と改称になったため、この頃の朝鮮人の子供が通う学校は短い間に尋常普通学校→尋常小学校→国民学校と名称が変わったことになります。
【実習地に立てられた標柱に校名が記されています。】
・この映画の基本的な前提である授業料について、「あれ? 義務教育なら授業料はないんじゃないの?」という疑問を持った人も当然いると思います。
まず、日本の統治期の朝鮮では、日本人学校である尋常小学校は義務教育でしたが、朝鮮人児童に対しての義務教育は施行されていませんでした。理由としては、学校の建設費の問題、教員養成の困難、そして朝鮮社会の諸事情(←イイカゲンだな)等が考えられます。
ちなみに、韓国で国民学校(1995年に初等学校に改称)が義務教育になるのは1953年です。また中学校が無償で完全義務教育化されたのがつい最近の2004年とはオドロキです。
公立普通学校の授業料については、「月1円以内」と定められていました。(第二次教育令期)
なお、日本で義務教育の授業料が廃止されたのは1900(明治33)年です。
・この映画の時代の公立普通学校就学率は男子49.4%・女子17.1%。「朝鮮総督府統計年報」等による1939年のデータですが、中退者等も多く必ずしも正確な数字ではありません。入学率は男子67.0%・女子26.6%というデータもあります。
およそ男子は2人に1人~3人に1人、女子は4、5人に1人が学校に通っていたと思われます。
また、日本統治期の朝鮮には他に私立学校もあり、伝統的な書堂(ソダン)も多くあったので、普通学校のみで当時の教育を語るのは不適切です。
・学校では学生服とセーラー服。帰宅後は普段着(男子は洋服、女子はチマチョゴリ)に着替えています。
【授業風景。休み時間に騒いでいた子供たちも先生が来る前にはちゃんと着席し、授業態度の良さは現在の比ではないといえそうです。】
当時の華城や水原川のようすを現在の姿と比べてみるのも興味深いですが、それはまたいずれ。
なお、この「授業料」の他に金洙容監督「저 하늘에도 슬픔이(あの空にも悲しみが)(1965)も12月中無料で見られます。「ユンボギの日記」の映画化作品です。ただ、字幕付きといってもそれが中国語なんですよねー・・・。
※観るためには、会員登録が必要ですが、その方法(ちょっと面倒)については先の記事を参照してください。
「授業料」は日本統治時代に作られた映画で、韓国映像資料院が今年6月中国電影資料館で35ミリプリント複写本を入手したことは9月韓国のTVや新聞等で「韓国最初の児童映画」「日帝時代の生活がわかる」等々と報じられました。
この映画の原作は、光州の北町公立尋常小学校(現・寿昌初等学校)4年生の禹寿栄(ウ・スヨン)が書いた同名の綴り方です。それは(京城日報の)「京日小学生新聞」公募で朝鮮総督賞を受けたものです。
さっそく映画を観てみると、舞台は光州ではなく水原(スウォン)になっています。それも水原華城(ファソン)の城域内の北の方にある華虹門のすぐ近くの梅香(メヒャン)女子尋常小学校(現・梅香女子情報高校と梅香中学校)とその付近で撮影されたので、1997年には世界文化遺産に指定された華城の往時の姿が随所で映し出されているのも興味深いところです。
以下、ストーリーをたどってみます。日本で一般公開の機会はなさそう(そのうち京橋のフィルムセンターあたりで上映するかな?)なのでネタバレもろあり、それも相当に細かいです。
主人公は水原に住む小学校4年の禹栄達(ウ・ヨンダル)。勉強もでき、行いも模範的な生徒です。
しかし家が貧しく、父母は行商に出たまま何ヵ月もの間手紙も送金も途絶えています。
悪いことに、廃品回収の仕事をしているおばあさんも病で臥せって、ますます生活は窮迫してしまいます。家主がやってきては溜まった家賃の催促をするような状態で、とても授業料は納めることができません。
クラスには栄達以外にも5、6人ほどは期日に授業料を出せません。担任の日本人の田代先生は優しくて叱られることはありませんが、まじめな栄達少年は授業料のことが気に懸かって、学校を欠席するようになります。
この映画に悪人は登場しません。最初の方で、勉強熱心な女の子・安貞姫(アン・ジョンヒ)に対して男子たちが「女のくせにナマイキだな(계집애가 건방져)」などと言ったりしているので、これはイジメに発展するのかと思ったらそんなことにもなりません。
家主も家賃納入の延期を哀願するおばあさんに対して「今度だけ」と言いつつ立ち去ります。
栄達の家の窮状を知った級友たちは助けに乗り出します。裕福な家の子供炳準(ピョンジュン)は廃品としてあげるために台所から鍋を持ち出そうとしたり、その姉の紫蘭は炳準に勉強を教えてくれる栄達にご飯を出してあげたりします。
その後、栄達の家にようすを見にやってきた先生。臥せっているおばあさんの朝鮮語は少ししかわかりません。「モムサル? この言葉がわからないので困ったな」と言っているところへ、見舞いにやってきたのが紫蘭。教養のある新女性の彼女は日本語が話せるので通訳してくれます。
※モムサル(몸살)とは過労などが原因で起こる体調不良のこと。
事情を知った先生はポケットマネーで授業料+αをおばあさんに渡しますが、翌朝授業料を持って学校に行こうと家を出た矢先、栄達は門口で出くわした家主にそれを家賃として払うことになってしまいます。
結局栄達は、おばあさんの言葉にしたがって、60里(日本の6里)離れた平澤(ピョンテク)の伯母さんの所まで歩いていって援助を求めます。(原作では光州から長城までの60里。) 出かける前夜には自分の弁当だけでなく、おばあさんの翌日の食事まで作ってあげるとは、とことん良い子です(うるうる)。
道すがら牛の引く荷車に乗せてもらったり、民家のおばさんに水をもらったり「愛馬進軍歌」(→コチラ)を歌ったりして無事平澤に到着。伯母さんは栄達にご飯を食べさせ、お金とお米を持たせた上、帰途はバスに乗せてくれます。バスの中では伯母さんにもらった森永キャラメルを食べたりもします。
帰宅した栄達が授業料を持って放課後の教室に行くと、先生は教卓の上の箱を彼に見せて言うには、それは級友たちが栄達のために級友会を開いて作った友情箱というもので、栄達の授業料のため彼らが小銭を入れたり、教師たちが給料の1%を入れたりするものであることのこと。それを聞いて栄達は感激します。
学校から戻ると、父からの封書が届いています。字が読めないおばあさんに代わって栄達が封を切ると5円の為替が入っていて、手紙にはお母さんの病気のため送金もできなかったが、今は治ったので秋夕(チュソク)には帰るといったことが書かれています。おばあさんも栄達もうれし泣き! さらに一緒に送られてきた小包には栄達が欲しかった運動靴が入っています。(前半と対照的に、後半はすべて都合よくコトが運びます。サービス過剰じゃないの?というほど。)
そして秋夕。華城の練武台の前では農楽がにぎやかに繰り広げられています。父母を迎えに栄達は駆け出します。たまたま歩いていた先生と紫蘭にも気づきません。2人はやはり外に出てきたおばあさんと出くわして話を聞きます。再会して喜ぶ親子3人、父「おばあさんは?」栄達「あそこにいるよ」と指差す先は下の画像。
【田代先生は薄田研二、紫蘭役は崔寅奎監督夫人の金信哉(キム・シンジェ)が演じています。】
ラストシーンはこれ。
めでたしめでたしの大団円でした。この映画は興行的にも成功を収めたそうで、多くの観客は満足して帰ったことでしょう・・・と思ったら、11月29日の記事でも紹介した<下川正晴研究室>の記事(→コチラ)には、小学校3年生の時にこの映画を見て「主人公の少年が悲惨なまでに貧しい暮らしを営む姿に涙を流した。そして涙を流す一方で、憤りがこみ上げてくるのを抑えることができなかった」という映画評論家の故・李英一の文章を紹介しています。
この映画から、当時の学校のようすを垣間見ることができます。以下列挙します。
・上述のように、先生は朝鮮語がよくわかりません。おばあさんの話がわからず「困ったなあ」などというくらいなら「勉強しろ!」と言いたくなりますが、それは今の感覚で、当時朝鮮にいた日本人の中では積極的に朝鮮語を学ぼうとした人はごく少なかったようです。(警察官等、職業上必要とした人は別として。)
・先生は、禹栄達を「ウ君」、あるいは「ウ・エイタツ」と漢字を日本読みにして呼んでいます。安貞姫は「アン・テイキ」。地名も「スイゲン(水原)」「ケイジョウ(京城)」等々。これも当時朝鮮にいた日本人の標準。生徒たちは学校内では(遊び時間も)日本語。朝鮮語を使うと叱られました。ただし下校時には朝鮮語になっています。
・日本統治下の朝鮮での教育の枠組みは第1~3次の朝鮮教育令で定められました。
朝鮮語も初等教育で教えられましたが、第1次(1911)→第2次(1922)→第3次(1938)とその時間数は減っていきました。しかしこの映画の時期の第3次教育令期でもゼロではありません。(1941年の国民学校令でなくなる。)
【黒板横の時間割。火曜3時間目等に「鮮語」とあるのが朝鮮語。】
・日本の統治下の朝鮮では、日本人の子供は小学校に通っていたのに対し、朝鮮人の子供は普通学校に行っていたのでは? ・・・と疑問に思った人がもしかしたらいるかも。たしかに第2次教育令期まではそのように分けていましたが1938年の第3次教育令で4月1日から普通学校の名称は消えてすべて尋常小学校に統一されました。しかし1941年国民学校令により尋常小学校、高等小学校の名称はすべて国民学校と改称になったため、この頃の朝鮮人の子供が通う学校は短い間に尋常普通学校→尋常小学校→国民学校と名称が変わったことになります。
【実習地に立てられた標柱に校名が記されています。】
・この映画の基本的な前提である授業料について、「あれ? 義務教育なら授業料はないんじゃないの?」という疑問を持った人も当然いると思います。
まず、日本の統治期の朝鮮では、日本人学校である尋常小学校は義務教育でしたが、朝鮮人児童に対しての義務教育は施行されていませんでした。理由としては、学校の建設費の問題、教員養成の困難、そして朝鮮社会の諸事情(←イイカゲンだな)等が考えられます。
ちなみに、韓国で国民学校(1995年に初等学校に改称)が義務教育になるのは1953年です。また中学校が無償で完全義務教育化されたのがつい最近の2004年とはオドロキです。
公立普通学校の授業料については、「月1円以内」と定められていました。(第二次教育令期)
なお、日本で義務教育の授業料が廃止されたのは1900(明治33)年です。
・この映画の時代の公立普通学校就学率は男子49.4%・女子17.1%。「朝鮮総督府統計年報」等による1939年のデータですが、中退者等も多く必ずしも正確な数字ではありません。入学率は男子67.0%・女子26.6%というデータもあります。
およそ男子は2人に1人~3人に1人、女子は4、5人に1人が学校に通っていたと思われます。
また、日本統治期の朝鮮には他に私立学校もあり、伝統的な書堂(ソダン)も多くあったので、普通学校のみで当時の教育を語るのは不適切です。
・学校では学生服とセーラー服。帰宅後は普段着(男子は洋服、女子はチマチョゴリ)に着替えています。
【授業風景。休み時間に騒いでいた子供たちも先生が来る前にはちゃんと着席し、授業態度の良さは現在の比ではないといえそうです。】
当時の華城や水原川のようすを現在の姿と比べてみるのも興味深いですが、それはまたいずれ。
なお、この「授業料」の他に金洙容監督「저 하늘에도 슬픔이(あの空にも悲しみが)(1965)も12月中無料で見られます。「ユンボギの日記」の映画化作品です。ただ、字幕付きといってもそれが中国語なんですよねー・・・。
ポイントは、この映画が「非一般映画」とされた理由として、①「オリンピア」(「民族の祭典」「美の祭典」の2部作)の大ヒット とともに、②<生活綴方>を「不健全な思想のおそれあり」とみなされたと推定されること。つまり貧しさが政治・体制のあり方に起因するという(危険な)考え方につながるということで、たとえばこの映画制作の同年(1940年)生活綴方事件では全国で約300人が治安維持法により検挙された、ということでした。
1938年に高嶺秀子主演で大ヒットした「綴方教室」の原作者豊田正子、「家なき天使」や「授業料」の崔寅奎監督とその夫人(!)で清楚な娘役を演じていた金信哉等々の戦後の経歴を見ると、映画作品もそれに関わった人たちも時代の中でいろんな運命をたどってきたんだなと思います。