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韓国人原爆犠牲者慰霊碑をめぐる問題 平和公園外の慰霊碑を「差別」とみなした80~90年代のマスコミ

2015-10-16 19:54:17 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ

 11日(日)、広島の平和公園に行ってきました。前来たのは20年以上前。今回は限られた時間で、見たい所の一部しか行くことはできませんでしたが、平日仕事を持ちながら、月2回日曜日のガイドを10年間続けているというIさんのていねいな説明を聞きながら主な石碑やモニュメント等を見学し、とても勉強になりました。
 続いて原爆資料館へ。外国見学者の来館者がとても多く、展示物の前は割り込みもむずかしいほどの混みようでした。
 一緒に行った仲間の1人が吉永小百合による吹き込みに引かれて音声ガイドを借りたので、同じ物はあえて借りずリスニングの訓練のつもりで韓国語の音声ガイドを借りました。すると「강제징용(強制徴用)」なんて言葉が際立って聞こえるのは時節柄? あるいは私ヌルボ気にしすぎ? 中身は「約35万人の被爆者の中には、強制徴用された労働者を含め数万人の朝鮮人・中国人その外にも東南アジアの人々が含まれていました」というもので、まあ<徴用>=<強制徴用>だし、とりたてて目くじらを立てるほどのものでもないんですけど・・・。仲間に訊いたら日本語版と同じで、その文章をそのまま訳したようですね。
       

 ガイドさんから聞いた話で初めて知ったのは「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」(写真上)移設をめぐる話。ヌルボは、90年代「慰霊碑が公園外にあるのは差別だ」との声が高まったので移設した、と思っていました。ところがガイドさんの説明では「被爆した朝鮮の王族の○○(?)殿下が発見された場所に建てられたもので、差別があったというものではない」とのこと。
 慰霊碑を見ると、なるほど、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の刻字の横に李鍝公殿下外貳萬餘霊位」と刻まれています。
 後で調べたところでは、李鍝[イ・ウ](1912~45)は大韓帝国皇帝だった高宗の五男の子。純宗や李王垠の甥にあたる人物で、当時は広島に置かれた第二総軍の教育参謀中佐で、8月6日は馬に乗って司令部への出勤途中福屋百貨店付近で原爆投下に遭い、本川橋西詰でうずくまっているところを夕刻発見され、市内似島の病院に収容されたが翌7日死亡したとのことです。

 以前広島を訪れた時、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を見た記憶はあります。移設が1999年7月なので、その時はまだ本川橋西詰めにあったわけですが、しかとは覚えていない上、撮ったであろう写真も行方不明です。
 ただ、当時(80~90年代)のマスコミ等で「公園外にあるのは差別」との主張に接していたので、なんとなく私ヌルボもそのように受け止めていました。
 
 そう思い込んでいたのは、文芸評論家・加藤典洋氏も同様で「敗戦後論」(1995年「群像」1月号に初出)に次のように記しています。

 護憲派は、原爆の死者を「清い」ものとし、同じく改憲派は兵士として死んだ自国の死者を「英霊」とし、「清く」する。広島の平和記念公園は韓国・朝鮮人の碑を受け入れていないが、ともに死者を「清い」、無垢な存在として祀ろうとしている点、平和記念公園と靖国神社は相似なのである。

 そして、この文章に次のような注をつけています。

 広島の原爆による朝鮮・韓国人の死者の存在はわたし達に深い意味をもっている。それは、原爆の死者の無垢性というものにわたし達の疑いを向けさせるたぶんはじめての契機となった。この敗戦の死者の問題の「ねじれ」が浮上するのに、この無垢な死者の碑石が取り除かれることはわたし達に不可欠の条件だったはずである。この文章の初出とほぼ同時期に訳書が刊行されたイアン・ブルマ『戦争の記憶—日本人とドイツ人』によれば、広島の記念公園には本国から強制連行され、広島で働かされている時に原爆にあった朝鮮人犠牲者の碑は、おかれていない。一九七〇年に大韓民国居留民団によって建てられた碑が「平和記念公園の外、片隅に隠れるように」立っている。「のちに地元の朝鮮人がこの慰霊碑を公園内に移転させようとしたが、失敗に終わった。広島市当局は、平和公園には慰霊碑は一つでよいといった。そしてその慰霊碑には朝鮮人の過去帳は納めてもらえなかった」。日本人以外には入れない。しかし、日本人でさえあれば、ほぼ個人の特定なしに入ってしまう、というあり方が、やはりこの平和記念公園と靖国神社の共通性格として浮かび上がる。なお、後者に関連し、死者の遺族の意思を無視しての護国神社への合祀をめぐり、山口県の殉職自衛官未亡人中谷康子が訴訟を起こしたことは記憶に新しい。

 上記の引用部分は、単行本の「敗戦後論」(1997.8)にも当然そのまま載っています。しかし最近刊行されたちくま文庫版(2015.7)には、次のような長い補注がつけられています。

 この注記とこれに関連する本文63頁の「広島の平和記念公園は韓国・朝鮮人の碑を受け入れていないが、ともに死者を『清い』、無垢な存在として祀ろうとしている点、平和記念公園と靖国神社は相似なのである」との記述に、重大な事実誤認のあったことを後に読者からの指摘によって教えられた。上記の本文記述を撤回するとともに注を次のように訂正したい。
  前広島市長平岡敬氏の手になる『希望のヒロシマ』(岩波新書.1996.7)によると、この碑は、「原爆の犠牲となった同胞を追悼するために、朝鮮王族李(イ)鍝(ウ)公を敬慕する張泰煕氏ら在日韓国人有志によって建立され、1970年4月10日に除幕された。」。碑の表面に「在日原爆犠牲者慰霊碑」という文字と並んで「李鍝公殿下外弐萬余霊位」と記されている通り、この碑は「韓国人原爆犠牲者の慰霊と李鍝公の追悼というふたつの性格をあわせも」つ。この碑の立つ場所についてはイアン・ブルマの著作『戦争の記憶』(TBSブリタニカ.1994)に「平和記念公園の外、片隅に隠れるように」立っているとあり、わたしも注に引いているが、それはこの地点がこの碑の追悼する李氏の終焉の地(本川橋西詰め)であることからそこに建てられた。碑には、「公の被爆された由緒深い場所に確定された」と記されている。従って、ここに日本人による韓国・朝鮮人差別が見られるというイアン・ブルマとその記述に従ったわたしの判断は、事実を正しく伝えない誤認である。
 このほか、わたしが注に引用したブルマの記述が、以下の点で事実と違っているので訂正する。
 一、慰霊碑の移転を広島市が断った事実はない。広島市は慰霊碑の平和記念公園内への移転にもし希望があれば応じたいと候補地を用意しているが、現在のところ、在日韓国人間にさまざまな意見があり、実現していない。
  二、平和記念公園内の原爆犠牲者の慰霊碑には日本人、韓国・朝鮮人全員の名前が記載されている。また、平岡氏によると、この在日原爆犠牲者慰霊碑の裏面には、建立協力者として、「李鍝公」の陸軍士官学校での同期生である多くの日本人の名前も記されている。
  元ジャーナリストから市長となった平岡氏は、この碑をめぐる誤解が世に広まっていることについて、「私は、いまの日本に韓国・朝鮮人に対する差別が存在しないといっているのではない。慰霊碑ができるまでのいきさつ、背景を調べないで、碑の建立”場所”を差別ととらえてしまう(日本のマスコミの—引用者)固定観念、先入観を問題にしたいのだ」と述べ、不正確な記述が広島に関し出回っている例としてこの一件に言及している。
  わたしの場合がその悪しき一例だろう。深い反省の意をこめてこの誤認を訂正させていただく。

 当時の平岡敬広島市長(1927~)はコチラの記事によると戦時中は京城帝大予科に在学中で、終戦は学徒動員先の興南(現・北朝鮮咸興市)の化学工場で迎えたとのことです。その後広島市に引き揚げて広島高校(現広島大)に編入し、早稲田大学を経て中国新聞社へ入社。中国放送代表取締役社長などを歴任した後、1991~99年の2期8年にわたり市長として在職しました。地元のジャーナリストして豊富な経験・知識を持ち、韓国・朝鮮への思いも深い人です。
 その平岡敬市長(当時)の「希望のヒロシマ」が刊行されたのが「敗戦後論」の1年前なのに、加藤典洋氏も編集者等も気づかなかったのは手落ちでしょう。(・・・って、今まで気づかなかったヌルボも言えたガラではありませんが・・・。)
 ※ここまでは→コチラの記事に拠りました。(大変情報通の、かつ熱心な<嫌韓>サイトですけど。)

 「公園外にあるのは差別」といった新聞記事は、広島大・石田雅春氏の論考(→コチラ)によると「昭和50年代初めごろから韓国人原爆犠牲者慰霊碑が平和記念公園から意図的に締め出されたとか、差別されているという解釈が次第に広まっていった。・・・・関係者の間では、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の公園内移設を求める声が高まっていった。」とのことです。新聞各紙も、80年代後半から「広島市の差別的な措置によって同碑が平和記念公園の対岸に建設された」という言説を形成していきました。
 こうした中、1980年広島市は慰霊碑の公園内移設を認めるとともに、それを期に南北統一の慰霊碑を造るように求め、市と民団と朝鮮総聯の協議が始められました。(1997年はすでにその段階だったのですね。) で、移設が現実のものとなったのが1999年7月21日。翌8月5日に移設後初の慰霊祭が営まれたことは、「毎日新聞」等でも報じられました。移設がこれほども遅れたのは、たとえば「韓国」という名称を維持しようという民団側と、反対する総聯側の協議がまとまらなかったため。結局当面の間は従来の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を公園内に移すことで総聯側が譲歩してようやく移設が実現したというわけです。

 ・・・と、ここまで長々と書きましたが、全体的にみると、80~90年代の<進歩系>言論と、それを支える<良識的>読者(←私ヌルボのような)を取り巻く<時代的フンイキ>といったものがあって、それがちょっと冷静に調べればわかることまで怠って、この「公園外の慰霊碑は差別だ」問題についても誤解がそのまま事実であるかのように流布したといえそうです。例の「慰安婦報道」問題と通じるところがあるようですね。

 ・・・と、ここで記事をオシマイにすると加藤典洋氏の反省を数年遅れでなぞるだけになってしまいます。
 しかし、広島市&平和公園にとっても、韓国・朝鮮人と関係団体にとっても、私たち個々にとっても、重要な、そしてむずかしい問題は依然残っていることを忘れてはいけません。1999年の慰霊碑の公園内移設によって一件落着では決してないのです。
 それについては続きで・・・、といってもいつになるか。むずかしい問題はなおのこと書くのがむずかしいからなー・・・。
 ※イアン・ブルマ「戦争の記憶—日本人とドイツ人」はヌルボも読みましたが、(上記のことは別として)良い本だと思います。

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