→ 韓国のYA小説「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」を読む(1) の続きです。
今年の第2回<創批青少年文学賞>受賞作のク・ビョンモ「ウィザード・ベーカリー」、つまり<魔法使いのパン屋さん>についてです。
この本を読むのに、「ワンドゥギ」の倍くらいかかってしまいました。
主人公の内面描写が多いということもあって、語彙や表現が私ヌルボのレベルにはやや難しかったいうのが第一の理由です。
第二の理由は、<ケーキ>とか<クッキー>とか、そして<魔法>とかのファンタジックな要素も私ヌルボのようなオジサンとしてはちょっと入っていきにくかった、という点。
第三の理由は、これが大きなポイントなんですが、はっきり言って<陰鬱な小説>だからです。こんなに嫌な人間がゾロゾロ登場する少年向き小説もめずらしいです。(笑)
主人公は、「ワンドゥギ」同様男子高校生ですが、コチラは少し年下の15歳。彼は悩みを抱えた吃音症の少年です。いや、悩みを抱えているから吃音症になってしまっているというわけです。
具体的には、家庭が安らぎの場になるどころか、その正反対なのです。父の再婚相手=継母との間が全然うまくいっていません。彼が幼い頃の実の母の思い出も懐かしいものではありません。清涼里駅で「ここで待ってて」と母の言うままに待っていましたが、結果的に置き去りにされてしまい、駅と病院で何日も過ごしてしまいます。母は病に倒れ、父も彼を探そうとしてくれなかったのです。父も心の通う、頼りになる存在ではないのです。
母はその後自殺し、父は再婚しました。しかし継母との関係は悪化するばかりで、猜疑心と誤解が増すばかりになっています。
家庭内で決定的な<事件>があり、家を出た少年が偶然かくまってもらったのが<魔法使いのパン屋さん>でした。そこの(なんと!)オーブンの中でしばらく日を送ることになったのですが、その間、魔法使いの店長の作る<魔法のパン>は、顧客との間のトラブルを引き起こしたりもします。
やがて店長からもらった<魔法のクッキー>を持って、少年が家に戻る日がやってきます・・・。
最後の方は、この先の展開がどうなるのか、けっこうドキドキしました。
ラストですが、ちょっと意表をつかれました。少しネタバレになってしまいますが、作者は<Yの場合>と<Nの場合>の2つの結末がならべているのです。魔法のクッキー>が使われる<Yes>と、使われない<No>の場合。
さらに少しネタバレなんですが、どちらの場合もハッピーエンドとは言いがたい終わり方です。
少年を取り巻く家庭や社会はほとんど(全然?)変わっていません。
ただ、「ワンドゥギ」同様、物語の冒頭の時点からラストまでの展開の中で、少年は確実に成長したんだな、ということを読者として確認し、納得できる。それにこの作品の意義があるということなんでしょうね。
(先に<陰鬱>と書きましたが、それはこの作品の属性の一つであって、読みごたえのある良書であるという評価を損なうものではありません。)
同じ現代の多様化した社会や家庭の中で生きる少年を描いた小説でも、「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」はいろんな点で対照的な作品です。
前者は<外向き>の<明るい>小説。後者は<内向き>の<暗い>小説。
「ワンドゥギ」は現実を描きながらも「非現実ではないか」との評もありましたが、「ウィザード・ベーカリー」は魔法や夢魔のような<超現実>を扱いながらも、むしろ現実に近いのかもしれません。(その分、暗くならざるをえない。) 「ワンドゥギ」同様、こんなに暗い「ウィザード・ベーカリー」が多くの読者の支持を集めているのも、同様の現実で悩みを抱えて生きている人がたくさんいるということなのでしょうか・・・。
※かつての少年文学は、戦前の名作「次郎物語」や「路傍の石」等のように、貧しい中でも希望を持ってけなげに生きる少年を描く、という作品が定番でした。韓国でも同じです。植民地時代や朝鮮戦争等の厳しい時代の子供たちを描いた李元寿(イ・ウォンス)等の小説は、今読んでも感動します。
しかし20年くらい前(?)から、アメリカ、日本等々先進諸国では、社会の変化にともなう、子供たちにふりかかる<新しい形の不幸>をテーマにしたYA小説が増えてきました。
韓国も1990年代以降の社会の変貌の中で、そんな現代的なYA小説がいよいよ目立つようになってきた、ということでしょうか。
今年の第2回<創批青少年文学賞>受賞作のク・ビョンモ「ウィザード・ベーカリー」、つまり<魔法使いのパン屋さん>についてです。
この本を読むのに、「ワンドゥギ」の倍くらいかかってしまいました。
主人公の内面描写が多いということもあって、語彙や表現が私ヌルボのレベルにはやや難しかったいうのが第一の理由です。
第二の理由は、<ケーキ>とか<クッキー>とか、そして<魔法>とかのファンタジックな要素も私ヌルボのようなオジサンとしてはちょっと入っていきにくかった、という点。
第三の理由は、これが大きなポイントなんですが、はっきり言って<陰鬱な小説>だからです。こんなに嫌な人間がゾロゾロ登場する少年向き小説もめずらしいです。(笑)
主人公は、「ワンドゥギ」同様男子高校生ですが、コチラは少し年下の15歳。彼は悩みを抱えた吃音症の少年です。いや、悩みを抱えているから吃音症になってしまっているというわけです。
具体的には、家庭が安らぎの場になるどころか、その正反対なのです。父の再婚相手=継母との間が全然うまくいっていません。彼が幼い頃の実の母の思い出も懐かしいものではありません。清涼里駅で「ここで待ってて」と母の言うままに待っていましたが、結果的に置き去りにされてしまい、駅と病院で何日も過ごしてしまいます。母は病に倒れ、父も彼を探そうとしてくれなかったのです。父も心の通う、頼りになる存在ではないのです。
母はその後自殺し、父は再婚しました。しかし継母との関係は悪化するばかりで、猜疑心と誤解が増すばかりになっています。
家庭内で決定的な<事件>があり、家を出た少年が偶然かくまってもらったのが<魔法使いのパン屋さん>でした。そこの(なんと!)オーブンの中でしばらく日を送ることになったのですが、その間、魔法使いの店長の作る<魔法のパン>は、顧客との間のトラブルを引き起こしたりもします。
やがて店長からもらった<魔法のクッキー>を持って、少年が家に戻る日がやってきます・・・。
最後の方は、この先の展開がどうなるのか、けっこうドキドキしました。
ラストですが、ちょっと意表をつかれました。少しネタバレになってしまいますが、作者は<Yの場合>と<Nの場合>の2つの結末がならべているのです。魔法のクッキー>が使われる<Yes>と、使われない<No>の場合。
さらに少しネタバレなんですが、どちらの場合もハッピーエンドとは言いがたい終わり方です。
少年を取り巻く家庭や社会はほとんど(全然?)変わっていません。
ただ、「ワンドゥギ」同様、物語の冒頭の時点からラストまでの展開の中で、少年は確実に成長したんだな、ということを読者として確認し、納得できる。それにこの作品の意義があるということなんでしょうね。
(先に<陰鬱>と書きましたが、それはこの作品の属性の一つであって、読みごたえのある良書であるという評価を損なうものではありません。)
同じ現代の多様化した社会や家庭の中で生きる少年を描いた小説でも、「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」はいろんな点で対照的な作品です。
前者は<外向き>の<明るい>小説。後者は<内向き>の<暗い>小説。
「ワンドゥギ」は現実を描きながらも「非現実ではないか」との評もありましたが、「ウィザード・ベーカリー」は魔法や夢魔のような<超現実>を扱いながらも、むしろ現実に近いのかもしれません。(その分、暗くならざるをえない。) 「ワンドゥギ」同様、こんなに暗い「ウィザード・ベーカリー」が多くの読者の支持を集めているのも、同様の現実で悩みを抱えて生きている人がたくさんいるということなのでしょうか・・・。
※かつての少年文学は、戦前の名作「次郎物語」や「路傍の石」等のように、貧しい中でも希望を持ってけなげに生きる少年を描く、という作品が定番でした。韓国でも同じです。植民地時代や朝鮮戦争等の厳しい時代の子供たちを描いた李元寿(イ・ウォンス)等の小説は、今読んでも感動します。
しかし20年くらい前(?)から、アメリカ、日本等々先進諸国では、社会の変化にともなう、子供たちにふりかかる<新しい形の不幸>をテーマにしたYA小説が増えてきました。
韓国も1990年代以降の社会の変貌の中で、そんな現代的なYA小説がいよいよ目立つようになってきた、ということでしょうか。
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