愛欲と家庭崩壊
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私は16歳の暮から月経があり、いつも順調で4日間位で済みます。月経の時は少し頭痛がしイライラしますが寝る程ではありません。
神田で生れたのですが、私が物心付いた頃には兄真太郎は嫁を貰っており、姉タカはすでに嫁いでおりました。次の姉和子は年頃でまだ家にいました。
私が育った頃は家が一番隆盛な頃で職人が6人もおり、忙しい時は10人も15人も傭(やと)って畳屋をして裕福でした。私は末子で両親に大変可愛がられました。
母は派手好きで見え坊でしたから小学校2年生頃から私に三味線を習わせ綺麗にしては連れ歩いたのです。そういうわけで、勉強の方は自然に嫌いになりました。先生からお稽古なんか止めなさいと言われましたが在学中ずっと身を入れてお稽古に励みました。
卒業してからは裁縫のお稽古に通ったりしましたが、家には大勢職人が居て色々の話を聞かされ10歳頃から男と女がすることを知りました。それに兄真太郎は少し道楽者で私が15歳位の時、堅気の姉さんを出して外に囲っていた水商売の女を家に入れたのです。
丁度その頃職人を和子姉さんの婿養子にしたので、真太郎兄さんは両親が和子姉さんに家を相続させるのではないかと嫁さんと若夫婦を虐め母は和子姉さんに味方し毎日家中ごたごたしていました。
両親は家が揉めるので私に見せては将来のためにならないと思ったらしく、“表で遊んでおいで”と毎日のように言うので、私はそれを良いことにして毎日お友達の宅等へ遊びに行っていました。そういうわけで、自然外に出歩く事がが好きになりました。
その頃の私はどちらかと言えば堅過ぎる位真面目な考えを持っていました。でも15歳の時お友達の家で学生に抱かれてからガラリと気持が変って不良になり浅草で遊び暮すようになったのです。
その頃、毎日お友達の福島ミナ子さんの家へ遊びに行きました。やはり、そこに遊びに来た福島さんの兄さんの友達で慶応の学生さんと知合いました。私はその人と懇意になり二階でふざけて居るうち、その学生さんに関係されてしまいました。その時大変痛みがあり、二日位出血したので驚いてしまいました。これで自分は娘でなくなったと思うと何だか怖ろしくなって母に話さずにいられなくなったのです。
その後その学生さんと会ったので自分はこの間の事を話しました。“あなたも親に話して下さい”と言ったところ、その学生さんはその後福島さんに寄りつかなくなり、母がその学生さんのところへ行っても会ってくれず、そのまま泣き寝入りになってしまいました。
当時、その学生さんに遊ばれただけだと思うと口惜しくて堪らず、もう自分は処女ではないと思うと、このような事を隠してお嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もうお嫁に行けないのだとまで思ひ詰め、ヤケクソになってしまいました。母は私の様子を見てお前さえ黙って居れば判らない事だから、と慰めてくれました。お前の知らないことを男がしたのだから何でもないと言ってくれたのです。
『自伝・阿部定の生涯 その1』より
デンマンさんは定さんの家庭も崩壊していたとおっしゃるのですか?
僕は阿部定事件の予審調書を何度も何度も読みました。読めば読むほどに、定さんがレンゲさんに良く似てくるんですよ。
それはデンマンさんの思い込みですわ。そう思いながら読むからですわ。あたしと定さんを何とかして結びつけようとしているのですわ。
そういうわけではありませんよ。
だって、定さんは言ってますよ。 “私は末子で両親に大変可愛がられました”と。。。あたしにはそのような記憶はまったくありません。それに、定さんが生まれた頃、家が一番隆盛な時でしたと言ってます。
確かにその通りだったでしょう。でもね、上の引用の中にも家庭崩壊の兆(きざ)しが見えていますよ。
どういうところですか?
丁度その頃職人を和子姉さんの婿養子にしたので、真太郎兄さんは両親が和子姉さんに家を相続させるのではないかと嫁さんと若夫婦を虐め母は和子姉さんに味方し毎日家中ごたごたしていました。
このように家の中がゴタゴタし始めていたんですよ。定さんが“不良”になって遊び始めるのは、この家の中のゴタゴタが直接の原因ですよ。上の文章がそのことを良く物語っていますよ。
つまり、家の中がゴタゴタしていなかったら、学生さんに抱かれることもなかったし、不良仲間と遊び歩くこともなかったとおっしゃるのですか?
そうですよ。定さんの場合には、お母さんが定さんだけにかかわっていられなかった。家の相続の問題で定さんの事をかまってやれなかったわけですよ。定さんは、ほったらかしにされたと言うか、むしろ、定さんが家の中に居て欲しくなかった。揉め事を見られますからね。
それは分かりますわ。
定さんは15歳で感じやすい年頃ですよ。そのような時に長兄が妻を追い出して水商売の女を家に入れる。両親は次女の和子さんに婿取りさせて家を継がせるようなことになってゆく。それで、家の相続の問題が表面化してゴタゴタが始まる。お母さんだって、このような家の中のゴタゴタが定さんに良い影響を与えるとは思わないから、“外で遊んできなさい”と言って、定さんに揉め事を見せないようにするわけですよね。
この頃には、お母さんからまったくかまってもらえなかったと言うわけですか?
そうですよ。両親は家の相続問題で精一杯で、定さんの事などまったく気にかけていなかったでしょうね。あれだけ隆盛した畳屋をやっていたけれど、結局、お父さんは畳屋をたたんでしまうんですよね。
その原因が、この“お家騒動”だとデンマンさんはおっしゃるのですか?
その通りですよ。僕が調書を読んで感じたのは、定さんのお母さんもお父さんも子供の教育なんて、ほとんど考えていなかったようですよ。商売に忙しかったんでしょう。だから、長男を甘やかすことになったんでしょうね。それで、長男は結婚してからも女遊びを続け、挙句の果てに女を作って妻を追い出し、その女を家に入れる。両親は勝手な真似をさせないぞとばかりに、次女に婿取りさせる。これでは、家の相続をめぐってゴタゴタが起こるのが目に見えていますよ。
つまり、定さんのご両親にも問題があったとおっしゃるのですね?
そうですよ。このようなところがレンゲさんの両親とも似ているんですよ。
わたしの胸には、愛情はない。
だって教わってないから。
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2005-08-13
わたしは生まれた時から、
必要な愛情をあたえられなかった。
両親ともに、
こんなめんどくさい生き物の
ニーズなんて考えもしない。
わたしはいつも見捨てられてきた。
わたしの胸には、愛情はない。
だって教わってないから。
わたしは、親を憎んでいました。
今は“血のつながった
やっかいな他人”だと思っています。
これからどうなるか分かりませんが、
今の私には親との和解は無理です。
ウチの親を客観的に見れば、
社会性が欠如していたんです。
ふたりともボンボンとお嬢だから世間知らずだし。
で、わたし親から最後の一撃食らわされて、
自分は将来利用するために育てられてきたことがわかっちゃって。
親はわたしに向かって確かにそう言ったのです。
それで、わたしは親から離れたのです。
by レンゲ
『デンマンさんが私のことをグロリア・スタイナムに似ていると』より
つまり、定さんのご両親もウチの親のように“ボンボンとお嬢”だったのですか?
はっきりとしたことは分からないけれど、調書を読んで感じたことは、子供の教育なんて全く頭の中にはなかったようですよ。商売の方は一生懸命やったかもしれないけれど、子供はほったらかしにしたようですよね。ほったらかしにしなかったのなら、甘やかしてしまったようですよ。そのツケが長男の我儘として現れる。女道楽で家の中がゴタゴタし始める。
つまり、子供の教育を忘れていたと。。。?
最近の家庭と似ていると思いませんか?
デンマンさんが良くおっしゃっている“歴史は繰り返す”ですか?
調書を読んでいて意外だったのは、定さんが事件を起こした1936(昭和11)年に31才だから、生まれは1905年。調べたら定さんの生年月日は1905年5月28日でした。つまり明治38年生まれですよ。
それが意外なのですか?
いや、定さんは明治生まれだろうと思いました。意外なのは、今から思えば当然なんだけれど、定さんのお父さんとお母さんは江戸時代に生まれているんですよ。お母さんは昭和8年(1933)1月、お父さんは昭和9年(1934)1月に、どちらも75歳で病死したんです。だから、お母さんは1858年(安政5年)生まれ、お父さんは1859年(安政6年)生まれということになります。
“歴史”の中の人たちと言うわけですの?
そうですよ。安政と言えば“安政の大獄”を思い出しますが、ペリーの黒船がやってきて、時代もガタガタと揺れ動いていた時ですよね。当時の親たちも、子供の教育どころではなかったでしょう。
つまり、定さんのご両親もまともな教育は受けてこなかったと。。。?
そうですよ。義務教育がしっかりと地に根付いたのは明治になってからですからね。庶民が教育を受けて、富国強兵の政策の下に男は“皇国の兵士”に、女は“軍国の母”になるように育てられていったわけですよ。でも、定さんの両親はそういう教育を受けていない。
デンマンさんは何がおっしゃりたいのですか?
要するに、定さんの両親は家庭教育という考え方を“教育”と言う形では教わっていないんですよ。
今の時代もそうだとおっしゃるのですか?
その通りですよ。戦後の日本はね、経済復興が何よりも優先したんですよ。だから、教育は“産業兵士”を作るための教育がなされてきた。“工専”と言われた工業高等専門学校が竹の子のようにできたのも、政府と財界が手を握って経済復興を早めるためだった。池田内閣の時には“所得倍増計画”。田中内閣の時には“日本列島改造論”。
つまり、経済大国を目指すための教育だったわけですか?
その通りですよ。“日本を背負うビジョンを持った健全な若者を育てる教育”は忘れられていた。“経済大国を築く産業兵士を育てる教育”になっていたんですよ。
それで、家庭教育も忘れられていたと。。。?
そうですよ。経済ばかりが重要で、“家庭教育”などに本腰を入れて政府が取り組んでいませんよ。経済大国にはなった。でも将来の日本を背負ってゆく個性豊かで、ビジョンを持ち健全な精神を持った若者を育てる教育がすっかりおろそかになってしまった。
つまり、本当の教育を忘れた政治のツケが、現在の悲惨な、常識では考えられないような事件をもたらしている、と言うわけですの?
そうですよ。金さえあれば幸せになれる、というような風潮が出来上がってしまった。だから、“人は金で動く”というような考え方をホリエモンが持ってしまった。
でも、あたしは、人がお金だけで動くとは思っていませんわ。
分かってますよ。僕にとってもレンゲさんにとってもお金よりも“愛”の方が大切なんですよ。でも、現実に目を向ければ、お金が大切だと思っている人の方が多いんですよ。ホリエモンがそのいい例ですよ。日本がそのような人たちで動かされているのが現実ですよ。そう思いませんか?
それで、デンマンさんは海外から日本を見ているわけですの?
そうですよ。腐ったりんごのカゴの中に居たら、どんなにうまそうなりんごでも、やがて腐ってゆくんですよ。色あせて、シミができて、やがて腐ってしまうんですよ。一生は一度ですからね、僕は腐ったカゴの中に一生居たいとは思いませんよ。
日本はそれほどまでに腐っているのですか?
僕はそう思っていますよ。今のままでは、やがて完全に日本は腐ってしまいますよ。
あたしも、今、腐ったりんごのカゴの中で腐っているとおっしゃるのですか?
そうですよ。腐る前に、レンゲさんの場合にはファンディーをはいて、パンツの中で清水君とつながったまま、時速100キロで走行中にエッチに熱中して交通事故を起こし、あの世に行ってしまいますよ。
デンマンさんは、そうやって、またあたしを馬鹿にするのですわね?
馬鹿にしていませんよ。僕はこれまでの事実に基づいて、レンゲさんと清水君の将来を予測しているだけですよ。
それが、あたしと洋ちゃんを馬鹿にしていると言っているのです。
レンゲさんはお金よりも愛のほうが大切。僕にとっても、お金よりも愛のほうが重要ですよ。しかも、僕とレンゲさんは心の恋人なんですよ。