リンゴの唄、思い出しました?
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リンゴの唄
赤いリンゴに くちびるよせて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
こういう歌詞なんですよね。
これが1番です。
歌詞は4番まであり、
歌詞の最後に
“リンゴ可愛や 可愛やリンゴ”というリフレイン(繰り返し)がついています。
4月18日にQLEPで書いた記事(『日本を繁栄の道に導いたリンゴの唄』)にメンバーの“ケムシ”さんから次のようなコメントをもらいました。
りんごの唄にはその時代背景がありながらも明るさが存在しているんですね。
りんごの唄、大好きでよく口ずさんでしまいますが、そこまで考えたことなかったです。
りんごの唄と
鐘のなる丘
2大ハナウタとして、私の大好きなメロディーです。
by ケムシ at 2006-04-18 16:55(火) / URL
僕は早々、次のような返信を書きました。
コメントありがとうございます。
>りんごの唄と
>鐘のなる丘 2大ハナウタとして、
>私の大好きなメロディーです。
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ケムシさんはキビシー時代を知っているようですね。
リンゴの唄に忘れがたい思い出を持っている人はたくさん居るようですよ。
検索エンジンで探しても結構たくさんのエピソードを見つけることが出来ます。
日本人の心にしみこんだ唄の一つでしょうね。
僕自身はキビシー時代をじかには知りませんが、
リンゴの唄のエピソードを聞くと日本人の誇りを感じますね。
たくさんの人が、あの歌を聞きながら頑張ったんですね。
中には、軽い気持ちで聞き流した人もいたでしょうけれどね。。。
へへへへ。。。。
とにかく、コメントありがとうございました。
また気が向いたら、書いてください。
じゃあね。
by バークレー(デンマン) at 2006-04-19 18:51(水) / URL
『日本を繁栄の道に導いたリンゴの唄』のコメント欄より
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この“リンゴの唄”は太平洋戦争後、大ヒットしたんですね。
もちろん、あなたも僕もまだ生まれていません。
並木路子(みちこ)さんが肉声で歌ったのをマジで聞いた人は、この記事を読む人の中には、まず居ないはずです。
この歌のどこがすばらしいのか?
一言で言えば、“明るさ”でしょうね。
リンゴが嫌いな人はまず居ません。
並木さんが歌っていた昭和20年10月当時は若手女優の月給が100円から300円だったそうです。
リンゴは1個5円!
高かった!
食料のない時代でした。
並木さんはコンサートで歌いながらリンゴを投げたそうです。
聴衆は、まるで幸福に手を伸ばすようにリンゴに手を伸ばし、それを掴み取ろうとしました。
食べ物が無い時代でした。
政府の配給だけでは生きて行けなかった。
だから、“闇市”が日本全国に広がった。
厳格な裁判官がいて、政府の配給だけで生きてゆこうとしたら、餓死してしまったという笑えないマジな話があります。
この人は34歳で亡くなった判事の山口良忠さんです。
1947年11月の事です。
この人については、別の記事で書きたいと思います。
こういう暗い、惨(みじ)めで、殺伐とした時代だったから、“リンゴの唄”が大ヒットした。
とにかく、食べ物が無かったから、リンゴについて“明るく”繰り返し繰り返し歌う事が、
戦後の人々の気分を高めたとしても、うなづけます。
でも、この歌の良さは、食べ物を歌っていたからだけではなかった。
歌詞が軽くて気取りがなく、
赤いリンゴと青い空のイメージが、戦後の人々の心の中の灰色の気分に
赤い鮮やかな色彩を加えてくれたからです。
“リンゴの唄”が、戦争という厳しい時代を生き抜いてきて、くたびれて、ひもじい思いをしていた日本人に“生きる希望”を与えてくれた!
この並木路子さんも、苦労して戦中・戦後を生き抜いてきた人です。
この当時、若手の女優さんでした。
“リンゴの唄”とともに1本の映画が封切られたのですが、この映画の内容はすっかり忘れ去られてしまった。
でも、この唄は、その当時の人の心を捉えて歌い続けられた。
並木さんの人生も戦争で狂わされてしまった人たちの1人でした。
お母さんは1945年3月10日の東京大空襲で亡くなってしまった。
並木さん自身も空襲後、隅田川から助け出された。
お父さんとお兄さんは戦争に行って、帰らぬままだった。
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空襲で焼け野原になってしまった江東区
当時は、深川区・城東区と呼ばれた。
昭和22年(1947年)、両区が合併して江東区が誕生した。
並木さんは松竹のニューフェースの1人でした。
撮影現場で食べたリンゴの味が忘れられなかったと述べています。
並木路子さんと彼女の作品について、もっと知りたい人は次のリンクをクリックして読んでみてください。
『リンゴの唄 --- 並木路子』
僕がなぜ、この“リンゴの唄”を、今さら持ち出したのか?
実は、僕の母親もこの唄から元気をもらった人だった。
僕の叔父も、この歌を聞いて、何とかしなければ。。。と、改めて生きる事を考えたと言います。
こういう人たちによって戦後の復興がもたらされた。
日本人は戦後の焼け野原から復興を遂げて、
経済大国にまでのし上がった。
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“日本人はすばらしい!”
僕も心のどこかで、日本人としてこの事を心の支えにしています。
僕自身は、すでに海外生活が日本で生活していた期間を越えている。
つまり、僕は人生の半分以上を海外で生活してきました。
青春時代をあの“大学紛争”で過ごしたのです。
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経済大国の道をまっしぐらに進んでいた日本は、“大きな教育問題”を抱えながらも、
さらに経済大国の道を突き進んでいった。
(しかし、問題は見えないところで膨らんでいった!)
“本当の人間教育”は忘れ去られ“産業兵士を育てる教育”だけが推し進められた。
各都道府県に、“高等工業専門学校”(いわゆる工専)が竹の子のように作られた。
“産業兵士”が生み出されていった。
この兵士たちが、次のような大企業にどんどん吸収されていった。
ソニー
パイオニア
ヤマハ
トヨタ
ホンダ
トーシバ
ヒタチ
パナソニック
ミツビシ
セガ
キョーセラ
ニンテンドー
。。。
。。。
日本はますます経済大国の道を突き進んでいった。
人間教育は忘れられたまま。。。
そして、この繁栄の影で家庭崩壊は着々と進んでいった。
そして、“バブルがはじけた!”
バブルがはじけて、これまでの見えなかった社会問題が一挙に日本全国に広がっていった!
テレビニュースを見ると、
“息子が親を殺した!”
“親が息子を殺した!”
“実の母親が8歳の長男と5歳の長女をダムに突き落として殺した!”
“娘が内縁の夫にそそのかされて、両親と妹夫婦、合計7人を殺して、死体をミキサーにかけてジュースにして捨てるという死体なき殺人事件を起こした!”
“子供が友達の弟の首を切り取って門柱の上に飾る!”
。。。
。。。
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常識では考えられないようなニュースが日常茶飯事のように起きている!
“日本はどこかが狂ってしまった!”
あなたも、そう思う事がありませんか?
ところで、ケムシさんから、さっそく2度目のコメントをもらいました。
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ん?Realog??と思いながら、、、
一応 たまにバークレーさんのblogをのぞいては、
"コメントを書くときは"URLを記入すること(HPアドレスあるいはブログアドレスを書くこと)"
をネチケットとして話されていましたので、それは書くようにしました。
おそらく、私の場合 不正なトラックバックやコメントとして記入しているわけではないので、
バークレーさんから こわいこわい攻撃を受けることはないだろうと思いつつも、
バークレーさんの主張されているネチケットは守るようにしました。
だって感じたことをそのままコメントしているだけなのに、
URLのことで お話が滞ってしまうのはもったいないと思ったからです。
私はネットもブログも初心者ですので、率直な感想をお伝えさせていただくと、
URLを書くと、なんだか宣伝しているような気がしてしまっていたんです。
なんとなく書くのがおこがましいような気がしていたんです。
でも、書いても全く問題ないようですね♪ホッ
私、Qblogのブログ仲間の皆さんのコメント欄には
名前とコメントしか記入しないことが多く・・・すみません!
(ほとんどが、記事を読んだ感想をサラサラと書くだけでURLまで書いていません。苦笑)
さてさて、本題。
りんごの唄 について。
私は今26歳です。
当然、当時の時代背景を実際経験しているわけでもありません^^
仕事が介護関係のため、専門学校時代に"(私たちが学生時代だった当時で→)70~80代のお年寄りの方々"の時代背景を教わる授業がありました。
特に、唄は私の中でも印象的でした。
先生から教わり、また自分が実習時代にお年寄りの方々と関わっていて りんごの唄 によって、自然と口が動く利用者の方々が多く、本当にびっくりしました。
おこがましい言い方かもしれませんが、昔とったキネヅカ?のような・・・
たとえ今現在、認知症だとしても 昔うたっていた歌が流れると自然と口元が動き出す、そこに感銘を受けました。
りんごの唄はすごい力をもっている!
そんな感じを受けたんです。
そこから、ついつい普段も口ずさんでいます>^_^<
日本の古きよき伝統である、すばらしい唄・メロディーはいつまでも引き継いでいきたいです。
唱歌や童謡ももちろんです。
情景を思い出させたり、目に涙を浮かばせるような そんな豊かな歌。大切にしたいです。
もしかしたら、私がおばあちゃんになって支援を受けるときは、若い介護者たちに ユーミンやウルフルズなど歌ってもらうことになるのかな?なんて想像しています。
by ケムシ at 2006-04-21 00:46(金) / URL
『リンゴの唄を忘れた日本人』のコメント欄より
“現在、認知症だとしても 昔うたっていた歌が流れると自然と口元が動き出す、
りんごの唄はすごい力をもっている!
そんな感じを受けたんです。”
興味深いエピソードでした。
確かにすごいですよね。
認知症の人の記憶の中にも、消し去ることが出来ないほど強烈に刷り込まれている唄ーーそれが“リンゴの唄”なんですよね。
なぜ?
やはり、その人の忘れがたい思い出の中で“リンゴの唄”がバックグラウンド・ミュージックになっているんでしょうね。
僕は初めてケムシさんからコメントをもらった時、
60代の男性かと思ったんですよ。へへへ。。。
理由は2つあります。
一つはハンドル名ですよ。
“ケムシ”というハンドル名から男だと思ったわけです。
女性が好んでつけるような名前ではないと思ったからです。
おそらく、この“ケムシ”にも、どうしてそう名づけたのか?ケムシさんらしいエピソードがあるのだろうと思います。
2つ目の理由は“リンゴの唄”と並んで“鐘のなる丘”が好きな鼻歌として挙げられていたことです。
僕もこの歌を子供の頃ラジオで聞いたことがありますよ。
。。。といってもこの歌が作られたのは、調べてみたら、1947年ですよ。
僕はまだ生まれていません。
緑の丘の赤い屋根、
とんがり帽子の時計台、
鐘が鳴りますキンコンカン。。。
と歌われたんですよね。