恋愛と言論の自由


その頃の私はどちらかと言えば堅過ぎる位真面目な考えを持っていました。でも15歳の時お友達の家で学生に抱かれてからガラリと気持が変って不良になり浅草で遊び暮すようになったのです。
その頃、毎日お友達の福島ミナ子さんの家へ遊びに行きました。やはり、そこに遊びに来た福島さんの兄さんの友達で慶応の学生さんと知合いました。私はその人と懇意になり二階でふざけて居るうち、その学生さんに関係されてしまいました。その時大変痛みがあり、二日位出血したので驚いてしまいました。これで自分は娘でなくなったと思うと何だか怖ろしくなって母に話さずにいられなくなったのです。
その後その学生さんと会ったので自分はこの間の事を話しました。“あなたも親に話して下さい”と言ったところ、その学生さんはその後福島さんに寄りつかなくなり、母がその学生さんのところへ行っても会ってくれず、そのまま泣き寝入りになってしまいました。
当時、その学生さんに遊ばれただけだと思うと口惜しくて堪らず、もう自分は処女ではないと思うと、このような事を隠してお嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もうお嫁に行けないのだとまで思ひ詰め、ヤケクソになってしまいました。母は私の様子を見てお前さえ黙って居れば判らない事だから、と慰めてくれました。お前の知らないことを男がしたのだから何でもないと言ってくれたのです。
母に、慰めてもらえば、もらうほど、学生さんに抱かれた事がシャクにさわり、ある日どこかへ行って遊んで来ようと思い、家の金15円程持ち出しました。その頃、私の近所には不良が沢山いて、私の姿を見ると何とか声をかけてはからかいました。でも、それまでは私は振り向きもしませんでした。
ところが、その時は私が不良に声をかけ、今日は気分が悪いから面白い処へ連れて行ってくれと言うと快く連れて行ってくれることになりました。一日中遊び暮し、帰る時金を持ち帰ると悪いと思ったから全部分けてやりました。
丁度和子姉さん夫婦が家出した頃で家の中がゴテゴテしていました。親達は別段私の事を気に止めず母から“随分遅かったね”と言われたのですが、上野の山に行って来たと言ってごまかしていました。金を持ち出して遊びに行き不良仲間におごったり小遣をやったりすると皆からサーチャン、サーチャンと騒がれるので面白くてたまらず、親が余り小言を言わないのをいい事にして段々増長してしまいました。朝は目が覚めても仲々起きず、二階までお膳を運ばせ御飯がすむと直ぐ着換えては浅草へ遊びに出かけました。金竜館などで一日遊び暮しては夜9時頃でなければ帰りませんでした。
ある時、金を一掴み持ち出し外で勘定すると60円もあったので怖ろしくて震え上り、返そうと思って戻りましたが職人が居たので、そのまま使ってしまったことがありました。このようにして一年位不良仲間に入っていましたが、和子姉さんは家出してから亭主と別れて家に戻って居るうち、和子姉さんが近所の職人を情夫に持つ様な不行儀な事があり、私もそれを知っていたので親達が叱ると「姉さんだって」と言うものですから親は黙って居りました。
それに今考へて見ると、父は外出がちでした。外で私が晴気姿で遊びに出るところを見ても知らぬ顔をするという可愛がり方でしたから益々増長したと思います。それでも、たまには父が怒って二階の私の寝間を釘付けにしたり晴着を風呂敷に包み物置へ投げ込んだりしましたが、私は隣の小母さんを呼んで窓から屋根伝ひに外出したり、職人に着物を取り出させたりして、遊びに出かけておりました。
私の不良仲間は男は10人位、女は2人位あり大抵は浅草で待っており、小遣をたかられながらイイ気持ちで遊びましたが性的関係はなく、一夏鎌倉で遊んだ時20歳位の男2人と一度関係しただけでした。
16歳の四月、その頃和子姉さんに嫁の話があり私が不良になったので呆れたためもあると思いますが、私が姉の不行跡を口外してその妨げになるのを恐れたらしく母が私に
“今姉さんに縁談があるから姉さんを片付けるためにお前も温和しくして居なければならないから小間使に行け”と言われて芝区聖坂の聖心女学院の前のお屋敷に奉公に出されました。お嬢さん付の女中になりました。
ところが今まで可愛がられて放縦な生活をしていたので、窮屈でたまらずその上台所で食事をするので情けなくなり、食事の度に涙が出て淋しい思いをしました。浅草で遊んだ事が忘れられず奉公に来て一月位経った時、無断でお嬢さんの晴着や帯や指輪を身につけ、後で返せば良ひと簡単に考へ浅草に行って金竜館に入りました。すると、そこで捜しに来た姉に会い連れ戻され、この時初めて警察に連れて行かれました。
『自伝・阿部定の生涯 その1』より
デンマンさん、今日は“恋愛と言論の自由”についてお話するのですか?なんだかお堅いお話ですのね?恋愛と言論の自由がどのように関係してくるのですか?
直接の関係はないように見えるでしょう?でもね、言論の自由も恋愛に強烈にかかわっているんですよ。
どういうことですか?
だから、その事について話そうと言うわけですよ。でもね、その前に定さんが思春期をすごした時代を考えてみる必要があるんですよ。
どうしてですか?
時代が違うとね、恋愛の成り行きや結果までが変わってきてしまうと言う事を話したいんですよ。
つまり、時代の風潮が恋愛にも影響を与えると言う事ですか?
そうですよ。普段、恋愛をしている時って、あまりそういうことを考えないけれどね、振り返ってみるとね、。。。と言うかあ~、歴史的に、たとえば、阿部定事件の中で定さんが経験した恋愛を時代の背景を考えながら見直してみるとね、やっぱり時代の風潮が根強く影響を与えていますよ。
でも、“愛のコリーダ”の評論記事の中で大島渚監督が時代背景を考えて、いろいろと言った人たちに対して批判的なことを言っていましたよね。
愛のコリーダ

この作品は「純粋な愛」「真実の愛」を描いたものだと言われてきた。しかし、24年を経てスクリーンを見ても、そこには濃厚な“愛”と“性”と“死”が描かれている。定が欲望のおもむくままに自分の体をむさぼるのをながめる吉蔵の目は、極限のエロスの世界に到達した“死人”の目だ。
二人が閉じこもる旅館の一室に満ちていたのは、初めはエロスであったかもしれないが、途中からエロスの極限を目指す死への欲動にすり替わっていたのではないか?
この作品は、これまでは「軍国主義が台頭する中、社会に背を向け、真実の愛に生きた二人」といった過度に政治的な評論をされてきた。こうした評論に対し、大島監督は「みんな馬鹿ばかりだ」と立腹していたらしい。
意外に男性よりも、多くの女性がこの作品に興味を示したことが取りざたされたが、女性も無関心ではいられない題材を扱っていたのだろう。
『愛のコリーダ 2000年版』より
確かに、レンゲさんの言うとおりですよ。僕が思うには、大島監督だって時代の風潮が定さんと吉蔵さんの恋愛に強い影響を与えている事は当然考えていたと思いますよ。あの映画の脚本も大島監督が書いたているんですよ。時代背景も当然考慮に入れていますよ。
だったら、大島監督はそれほど腹を立てる必要はなかったのじゃあありませんか?
大島監督が腹立たしく思ったのは、時代はあくまでも背景であって、映画の主題ではないと言うことでしょう。それにもかかわらず、“軍国主義が台頭する中、社会に背を向け”て愛し合う二人。。。そのように考えられる事は大島監督が望んでいた事ではないでしょう。
。。。で、一体何を望んでいたのですか?
あの映画は政治的なことはどうでもいいわけですよ。それにもかかわらず、軍国主義がどうのこうのと言われる事が監督はたまらなかったんだと思いますよ。つまり、主題はあくまでも“愛のコリーダ”なんですよ。“反軍国主義”じゃないんですよ。政治は背景の一部なんですよ。それにもかかわらず、映画評論家が知ったような口をきいて政治を映画の主題として盛り込んでしまう。そういう評論家の勝手が監督にはたまらなかったと思いますよ。
でも、デンマンさんは、時代的背景もきわめて重要だとおっしゃるのですか?
その通りですよ。映画監督には映画監督の考え方があるでしょう。政治評論家はあの映画を政治的に見るでしょうね。だから、“軍国主義が台頭する中、社会に背を向け”て二人が愛し合った、と考えたって不思議ではないですよ。映画評論家だって、勝手な事を言って原稿を書いて金をもらっているわけだから、何も監督のことだけを考える必要はない。評論を読んでくれる人のために面白く書く必要がありますよ。
それで、デンマンさんは。。。?
僕は歴史馬鹿だから、当然あの映画を歴史的な観点から眺めますよ。
そういうわけで時代背景に注目するわけですか?
そういうことですよ。映画は作られたら、監督の手を離れて独り歩きを始めますからね。だから、何を言われようが監督が腹を立ててガタガタ言う性質のものではないですよ。“ああ、そうですか?そういう見方もあるのですか?” そう答えるのが頭のいい監督でしょうね?
つまり、腹を立てた大島監督はオツムが足りないと。。。?
あれがあの人の性格でしょう?あまりオツムとは関係ないでしょうね。うへへへ。。。
それで、定さんの思春期の頃の時代背景というのは。。。?
定さんが処女を失う事になった15才の年というのは1920年(大正9年)なんですよ。つまり、大正デモクラシーの真っ只中というわけです。
定さんは、大正デモクラシーの享楽的な都市文化の中で慶大生に抱かれて桜の花びらを散らす事になったと言うわけですの?
レンゲさんも僕も時代の落とし子ですからね。その育った時代を無視する事はできませんよ。だから、定さんが思春期を大正デモクラシーの中で過ごした、ということも無視できません。軍国主義が華やかだった頃なら、学徒出陣を控えて、その慶大生は定さんの処女を奪うというような不謹慎な真似はしなかったかもしれませんよ。
大正デモクラシー
大正時代におこった民主主義を要求する思想と運動。
皇室を憚(はばか)って、大正民主主義とは言わなかった。
都市中間層の政治的自覚、世界的なデモクラシーの発展、ロシア革命などを背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して、護憲運動・普通選挙運動が展開された。
第1次護憲運動(1912年)から始まり、政党内閣制と普通選挙の実現を主張する吉野作造の民本主義理論に代表される。
広くは、この時期の労働運動・農民運動・社会主義運動などもふくめるが、第2次護憲運動(1924年)で普選運動の政治目標が達成されてからはおとろえた。

大正デモクラシーの風潮の中、享楽的な都市文化が発達し、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる風俗も見られた。
「エロ・グロ・ナンセンス」こそが、人間の想像力を豊かにして、困難な現実にも道を間違わずに生きてゆく力を養ってくれるのではないか、と考える人たちも出てきた。
「エロ・グロ・ナンセンス」を「闇」ととらえ、「闇」があるから「光」があるのであって、「闇」をなくしてしまえば「光」もまた消えてしまう、という考え方が受け入れられた。
つまり、定さんは意識してはいなかったけれども、享楽的な都市文化の影響を受けていたという事ですか?
そうですよ。調書を読むと、定さんが不良と遊び歩いた事が書いてありますが、まさに、その中に僕は“享楽的な都市文化”の匂いを感じ取る事ができましたよ。定さんも、その文化に影響を受けていたんです。しかも、レンゲさんが“クラブ・オアシス”でナンバーワンになった頃のホステス時代と良く似ていると思いましたね。

僕は、調書を読みながら、そんな風に定さんに重ねてレンゲさんのことを想像していましたよ。
“歴史は繰り返す”とおっしゃりたいのですか?
そう言う事になりますね。あの時代と現在の日本は似ていますよ。大正デモクラシーの後に来るものはファシズムと軍国主義ですけれどね、最近の日本はネオ・ナショナリズムに向かっているという歴史学者も居るほどですよ。
つまり、軍国主義ですか?
第二次大戦当時のような馬鹿な時代はもう来ませんが(たぶん)、考え方が国粋的になっている事は否定できませんよ。小泉純ちゃんが羽織袴をはいて靖国神社に公用車で参拝するなんていうことは、どう考えてもネオ・ナショナリズム的ですよね。そう思いませんか?
もし、。。。つうかああああ。。。歴史に“もし”はないでしょうけれど。。。もし定さんと吉蔵さんが1936(昭和11)年ではなく、たとえば、8年後、軍国主義一色に染まっていた1944(昭和19)年5月18日に事件が起きていたら、定さんはどうなっていました?
間違いなく死刑になっていたでしょうね。
まさかぁ~
その“まさか”が、軍国主義の時代には当たり前のように頻繁に起こったんですよ。非常に興味深い事件が1944年に起きています。軍国主義になると、人間の命が一部の軍人によって将棋の駒(こま)のように軽々しく扱われるという、いい例ですよ。ちょっと長くなるけれど、“竹やり事件”の顛末をここに引用します。