愛情はふる星のごとく
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その頃の私はどちらかと言えば堅過ぎる位真面目な考えを持っていました。でも15歳の時お友達の家で学生に抱かれてからガラリと気持が変って不良になり浅草で遊び暮すようになったのです。
その頃、毎日お友達の福島ミナ子さんの家へ遊びに行きました。やはり、そこに遊びに来た福島さんの兄さんの友達で慶応の学生さんと知合いました。私はその人と懇意になり二階でふざけて居るうち、その学生さんに関係されてしまいました。その時大変痛みがあり、二日位出血したので驚いてしまいました。これで自分は娘でなくなったと思うと何だか怖ろしくなって母に話さずにいられなくなったのです。
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その後その学生さんと会ったので自分はこの間の事を話しました。“あなたも親に話して下さい”と言ったところ、その学生さんはその後福島さんに寄りつかなくなり、母がその学生さんのところへ行っても会ってくれず、そのまま泣き寝入りになってしまいました。
当時、その学生さんに遊ばれただけだと思うと口惜しくて堪らず、もう自分は処女ではないと思うと、このような事を隠してお嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もうお嫁に行けないのだとまで思ひ詰め、ヤケクソになってしまいました。母は私の様子を見てお前さえ黙って居れば判らない事だから、と慰めてくれました。お前の知らないことを男がしたのだから何でもないと言ってくれたのです。
『自伝・阿部定の生涯 その1』より
デンマンさんは、定さんが桜の花びらを散らしたのも時代と関係があるとおっしゃるのですか?
そうですよ。定さんが処女を失う事になった15才の年というのは1920年(大正9年)なんですよね。つまり、大正デモクラシーの真っ只中というわけです。
定さんは、大正デモクラシーの享楽的な都市文化の中で慶大生に抱かれて桜の花びらを散らす事になったと言うわけですの?
レンゲさんも僕も時代の落とし子ですからね。その育った時代を無視する事はできませんよ。だから、定さんが思春期を大正デモクラシーの中で過ごした、ということも無視できません。軍国主義が華やかだった頃なら、学徒出陣を控えて、その慶大生は定さんの処女を奪うというような不謹慎な真似はしなかったかもしれませんよ。
大正デモクラシー
大正時代におこった民主主義を要求する思想と運動。
皇室を憚(はばか)って、大正民主主義とは言わなかった。
都市中間層の政治的自覚、世界的なデモクラシーの発展、ロシア革命などを背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して、護憲運動・普通選挙運動が展開された。
第1次護憲運動(1912年)から始まり、政党内閣制と普通選挙の実現を主張する吉野作造の民本主義理論に代表される。
広くは、この時期の労働運動・農民運動・社会主義運動などもふくめるが、第2次護憲運動(1924年)で普選運動の政治目標が達成されてからはおとろえた。
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大正デモクラシーの風潮の中、享楽的な都市文化が発達し、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる風俗も見られた。
「エロ・グロ・ナンセンス」こそが、人間の想像力を豊かにして、困難な現実にも道を間違わずに生きてゆく力を養ってくれるのではないか、と考える人たちも出てきた。
「エロ・グロ・ナンセンス」を「闇」ととらえ、「闇」があるから「光」があるのであって、「闇」をなくしてしまえば「光」もまた消えてしまう、という考え方が受け入れられた。
つまり、定さんは意識してはいなかったけれども、享楽的な都市文化の影響を受けていたという事ですか?
そうですよ。調書を読むと、定さんが不良と遊び歩いた事が書いてありますが、まさに、その中に僕は“享楽的な都市文化”の匂いを感じ取る事ができましたよ。定さんも、その文化に影響を受けていたんです。しかも、レンゲさんが“クラブ・オアシス”でナンバーワンになった頃のホステス時代と良く似ていると思いましたね。
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僕は、調書を読みながら、そんな風に定さんに重ねてレンゲさんのことを想像していましたよ。
“歴史は繰り返す”とおっしゃりたいのですか?
そう言う事になりますね。あの時代と現在の日本は似ていますよ。大正デモクラシーの後に来るものはファシズムと軍国主義ですけれどね、最近の日本はネオ・ナショナリズムに向かっているという歴史学者も居るほどですよ。
つまり、軍国主義ですか?
第二次大戦当時のような馬鹿な時代はもう来ませんが(たぶん)、考え方が国粋的になっている事は否定できませんよ。小泉純ちゃんが羽織袴をはいて靖国神社に公用車で参拝するなんていうことは、どう考えてもネオ・ナショナリズム的ですよね。そう思いませんか?
もし、。。。つうかああああ。。。歴史に“もし”はないでしょうけれど。。。もし定さんと吉蔵さんが1936(昭和11)年ではなく、たとえば、8年後、軍国主義一色に染まっていた1944(昭和19)年5月18日に事件が起きていたら、定さんはどうなっていました?
間違いなく死刑になっていたでしょうね。
まさかぁ~
その“まさか”が、軍国主義の時代には当たり前のように頻繁に起こったんですよ。非常に興味深い事件が1944年に起きています。軍国主義になると、人間の命が一部の軍人によって将棋の駒(こま)のように軽々しく扱われるという、いい例ですよ。おとといの記事(『恋愛と言論の自由』)の中で“竹やり事件”をとりあげましたが、軍国主義の世の中では人間はいわば将棋の“歩”のように、軍人の思いのままに捨て駒にされてしまうんですよ。
あたしも、竹やり事件を読んで、硫黄島に送られて死んでいった250人の兵士のことでは、考えさせられましたわ。全く戦争とは関係のない人たちが、軍人の思いつきで召集されて戦地に送られてしまう。それで、挙句の果てに玉砕で全員戦死でしょう。。。なんだか可哀想だというよりも、竹やり事件そのものが馬鹿馬鹿しく感じられますわ。。。。と、言うかぁ~、呆れてしまいますわ。
だからね、定さんが、太平洋戦争中にあのような事件を起こしていたならば、まず間違いなく見せしめのために死刑になりましたよ。“硫黄島で全員が玉砕までして戦っているのに何事かあ~~!”と、言う事になるわけですよ。
でも、戦争中に、実際に裁判で死刑にされた実例でもありますの?つまり、戦争中だったがために、死刑になるはずのない人が死刑にされたような。。。
ありますよ。
本当ですか?
マジでありますよ。この記事のタイトル「愛情はふる星のごとく。。。」は、実は、その死刑にされた人が獄中で書いた手紙を集めて戦後出版された本の題名としてつけられたものなんですよ。
その死刑にされた人というのは、一体誰ですの。
尾崎秀実という人です。
尾崎秀実(おざき ほつみ)
1901年(明治34年)4月29日 岐阜県加茂郡白川村(現・白川町)で生まれる。
幼少の頃は、台湾の台北で育ち、1925年(大正14年)、東京帝国大学卒業後、一年間、大学院に在籍。そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究に没頭した。
1926年(大正15年)朝日新聞社に入社した。
社内で『レーニン主義の諸問題』をテキストとした研究会を開催。
1928年(昭和3年)11月、上海支局に転勤し特派記者となる。
3年余りを上海で過ごした。その期間に中国共産党と交流するようになった。
アグネス・スメドレーと出会い、コミンテルンの諜報活動に参加するようになる。
リヒャルト・ゾルゲとも出会う。
1932年(昭和7年)2月、大阪本社に戻った。
1934年(昭和9年)10月、東京朝日に転じ、東亜問題調査会に勤務する。
1938年(昭和13年)7月、東京朝日を退社。第1次近衞内閣の嘱託となる。
1939年(昭和14年)1月の第一次近衛内閣の総辞職まで勤める。
同時に、「朝飯会」(近衛首相の私的内閣のような性格を帯びていた)のメンバーにもなり、これは、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続く。
1939年(昭和14年)6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務していた。
1941年10月15日にゾルゲ事件に連座して逮捕された。
1944年、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、国防保安法違反、軍機保安法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルト・ゾルゲと共に絞首刑に処された。
『尾崎秀実: フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)』より
あたしは、この人の名前を聞いたのは初めてですけれど、有名な人なんですか?
最近ではめったに取り上げられないから知らない人がほとんどでしょうね?
デンマンさんはどうしてご存知なんですか?
僕は小説を書くためにゾルゲ事件を調べた事があるんですよ。そういうわけで、尾崎秀実さんについては10年前から関心を持って資料を集めていました。
それで、どうして有名なんですか?
上の年譜を見ても分かるように尾崎さんは特派員として3年余りを国際都市の上海で過ごしているんですよ。その当時の日本は完全に情報鎖国をしていましたからね。国際都市・上海の空気を吸ったら人間が変わらないほうが可笑しいですよ。
どのように変わったのですの?
だから、リベラルな国際人にならざるを得なかった。アグネス・スメドレーと出会い、アグネスの紹介でゾルゲとも出会う。この3人に共通しているのは、教養人でもあり自由人だったということですよ。旧ソ連が情報鎖国をしていたけれど、結局、西側のリベラルな雰囲気がネットを通して浸透してゆき、その結果として良識を持った旧ソ連市民と自由主義的な活動家によって旧ソ連が崩壊していった。尾崎さんがやろうとしていた事もそのような事だったんですよ。当時、アジア問題に詳しいジャーナリストとして知られていた。そういうわけで「朝食会」という近衛首相がやっていた私的内閣の重要なメンバーになった。
首相からも信頼されていたわけですの?
当時、尾崎さんのような国際人は少なかったからね、当然のように近衛首相から頼りにされたわけですよ。
でも、一般の日本人にはどうだったんですの?
当時も一般の日本人には、ほとんど知られていませんでしたよ。
それがどうして有名になったのですか?
もちろん、ソ連のスパイとして“特高”に捕まり裁判で死刑になったから知れ渡るようになったわけです。でも、尾崎さん自身は“スパイ”だなんて思っていませんよ。ちょうど旧ソ連が崩壊して、自由主義的・民主的なロシアだできたように、尾崎さんも日本を軍国主義から民主的自由主義的な日本にしたいと思っていただけなんですよ。やはり、尾崎さんも大正デモクラシーの洗礼を受けている。軍国主義の日本はたまらなかった。その改革の手段を考えたとき、日本内部からの改革が望めないので、海外から改革してゆく他はない。それで、ゾルゲの考え方に共鳴してコミンテルンに協力するようになったというわけですよ。
コミンテルン
(Comintern: Communist International)
共産主義の国際組織である。
共産主義インターナショナル、第3インターナショナル、国際共産党などとも呼ばれる。
1919年3月にモスクワにおいて21ヵ国の代表が参加して設立された。
共産主義思想の普及、革命家の育成、ロシア革命の世界革命化などが目的。
社会民主主義団体である第二インターナショナルに対抗し、レーニンにより指導された。
モスクワを本部とする執行委員会により指導され、レーニンの死後にはソ連の外交政策の擁護も行う。
ドイツ革命に挫折した後は労働者の戦線統一の方向へ指針を定める。
ナチスに対して反ファシズム、人民戦線路線の立場をとり、第二次世界大戦中にはアメリカ、イギリスとの協調のため1943年5月に解散した。
『コミンテルン :フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)』より
尾崎さんは共産主義者だったんでしょう?
共産主義に共鳴していた。でも、徹頭徹尾の共産主義者ではなかった。尾崎さんは日本共産党に入党した事は一度もないんですよ。彼は共産主義者と言うよりも“ヒューマニスト”だったんですよ。
どういうことですか?
簡単に言えば、人間の個性の自由な発達と人間性の尊厳を重んじる人ですよ。竹やり事件を思い出してくださいよ。あの事件でトバッチリを受けて招集された250人の補充兵は硫黄島に送られて死なされた。その250人の個性なんて全く問題にされなかったし、第一、人間性の尊重なんて初めから無かった。まさに、将棋の“歩”のように捨て駒にされてしまったわけですよ。尾崎さんが望んでいたのは、そういう“野蛮な日本”、“病める日本”を、少なくとも大正デモクラシーの日本にもう一度戻したいということだったと僕は思っていますよ。
それで、「愛情はふる星のごとく」という本はどのようなものだったんですか?
尾崎さんが1941年10月にコミンテルンのスパイとして逮捕されてから1944年11月、43才で処刑されるまでに、妻と娘に書き送った個人的な獄中書簡を基にして出版された本なんですよ。
あたしは読んだ事が無いのですけれど、すばらしい本ですか?
僕がすばらしいと思うのは、あの軍国主義の時代に、あのような手紙を書いたということがすばらしいと思いましたよ。
どういうことですか?
太平洋戦争中は、男は“女々(めめ)しい事”を言ったり書いたりしてはダメだったんですよ。「愛国心こそ日本人にとって至高の愛である」というような軍国教育がなされていたんですよ。つまり、お国のためなら、潔(いさぎよ)く死になさい、という教育ですよ。男なら喜んで天皇のために、お国のために命をささげるものだという“建前”が当たり前だと考えられていたんですよ。あの硫黄島に送られて玉砕した250人の補充兵は、現在の我々には、全く馬鹿馬鹿しいやり方で死なされてしまったのだけれど、当時はお国のため天皇のために玉砕したということで、まさに“軍神”並に扱われましたよ。そういう風潮があった。そういう時に尾崎さんは妻や一人娘に対する愛情を隠すことなく手紙に切々と語っている。そういうことを書くことは、当時は“女々しい事”、“日本男児らしからぬ事”だったんですよ。
つまり、身近なものに寄せる愛情を正直に書き綴ったというわけですのね?建前の愛国心に囚(とら)われないで。。。
そういうことですよ。天皇制、軍国主義の下での建前だけの「家族国家」とは全く違う、本物の「家族」への思いやりだった。つまり、最後の最後まで尾崎さんは“ヒューマニスト”だったんですよ。戦後、本が出版された時、戦争中にもそのような人が居たという驚きが口々に伝えられ、その本は3年間ベストセラーになったんですよ。
それで、その本の題名「愛情はふる星のごとく」ですけれど。。。どういうわけで、そのようなロマンチックなタイトルになったんですの?
確かに、女性が飛びつきたくなるような本の題名ですよね。レンゲさんなら、明日にでも買って読みたくなるでしょうね。
分かりますか?
もちろんですよ。レンゲさんの“詩心”を良く知っている僕は、この本がレンゲさんの心を惹き付ける事、間違いないと思っていますよ。この本の題名は尾崎さんが書いた手紙の次の一節から考え出されたものだと言われていますよ。
この一生いたるところに
深い人間の愛情を感じて生きてきたのです。
わが生涯をかえりみて、
今、燦然(さんぜん)と輝く星のごときものは、
実に誠実なる愛情であったと思います。
分かりました。デンマンさんが尾崎さんは“ヒューマニスト”であったんだという意味が分かったような気がしますわ。。。それで、裁判のことですけれど、死刑になるべきでない人が軍国主義の下で死刑にされた。デンマンさんはそうおっしゃいましたよね。