愛は野バラのように
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定さんの後半生
刑務所長などの配慮で、阿部定さんは「吉井昌子(まさこ)」と名前を変えて、誰にも過去を知られず暮らすことになった。
定さんは「吉井」という姓が気に入っていたようだ。
予審調書によると26才の頃、丹波の篠山の「大正楼」で娼妓をしていたが、待遇がひどいので逃げて神戸に住み始めた。
その当時、吉井信子と名乗って二週間ばかりカフェーの女給をしていたことがある。
29才の時には東京の三の輪で吉井昌子と名乗って高等淫売をしていたことがある。
現代風に言えば“コールガール”という事になる。
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定さんは、なぜこの名前が気に入っていたのか?
それは、この名前を名乗っていた頃知り合った中川朝次郎(37歳)氏が気に入っていた事と関係があるようだ。
中川氏は日本橋区室町で袋物商を営んでいた。
定さんは昭和8年10月頃、中川氏の妾になっている。
昭和9年9月頃、中川氏が病気になり定さんの面倒が見られなくなったので相談の上別れている。
その後、定さんは横浜市中区富士見町の「山田」という店でコールガールを始めた。
昭和9年の暮に、この仕事で知り合った政友会の院外団という笠原喜之助氏の妾になる。
ところが笠原氏は放埒で、まともな手当ても定さんにやらなかったらしい。
“愛情もなく私を獣扱いにし別れようとすると平身低頭して哀願するという品性下劣な男でした。直ぐ嫌になりました。”と定さんは予審調書の中で述べている。
中川朝次郎氏は定さんが関係した男の中では余程気に入ったらしく、“馴染の中川さん”が恋しくなり昭和10年1月、電話で中川氏を呼出し浅草の上州屋で同宿したこともある。
その後も、この中川氏と定さんは会っている。
そのようなわけで、中川氏と“吉井昌子”という名前が定さんの頭の中でしっかりと結びついていたようだ。
いづれにしても、定さんは出所後その名前で(中川氏とは別人と)結婚をし、戦時中は埼玉県に疎開していた。
だが、終戦後、定さんとその夫が平和に暮らしているところに、新聞記者が取材で訪れた。
これによって、夫は妻が世間を騒がせた定さんであることを知り、それまで平和であった暮らしが崩壊した。
また、カストリ雑誌ブームの中で再び、阿部定事件が脚光を浴び、興味本位の『昭和一代女お定色ざんげ』などいろいろ書かれた。
そのため、1947年(昭和22年)9月、定さんはその著者と出版社を名誉毀損で東京地検に告訴している。
その後、作家の長田幹彦主催の劇団で、自ら「阿部定劇」のヒロインを演じて全国を巡業した。
その後、温泉地の旅館の女中、料理屋の女中、バーやおにぎり屋の経営者になったりして、あちこちを転々とする。
自分の知名度を利用し、逆にそれを利用されたりした。
1959年(昭和34年)、某料理屋の女中頭として、東京料飲店同志会から優良従業員として表彰されている。
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実際に起きた異常ともいえる五大愛憎事件を、スキャンダラスに描いて話題を集めた。
昭和35年に起きた“東洋閣事件”を皮切りに、“阿部定事件”、それに引き続いて各地でおこった“象徴切り事件”、敗戦の年に七人の女を強姦・殺害した“小平義雄強姦殺人事件”、明治の代表的毒婦“高橋お伝事件”まで猟奇犯罪を実録タッチでショッキングに描いた。
“阿部定事件”の当事者である定さんが特別出演するというので、公開当時大きな話題を呼んだ。数分だが定さん本人(当時64歳)が橋の上でインタビューに答えて事件を語る部分がある。
1971年(昭和46年)、千葉県市原市のホテルで、「こう」という名前で働いていた。
ここでは、66歳という高齢にもめげず、若い男に金品を貢いでは気を引いていたそうであるが、置手紙を残したまま、姿を消した。
以後、消息を断った。
その後、ある老人ホームに入っているらしいという噂が立った。
現在は生死不明。
『阿部定事件の波紋と後半生』より
ところでデンマンさん、カストリ雑誌ブームって、何ですの?
いいところに目をつけてくれましたね。実は、今日、何を書こうか?と考えていたところですよ。カストリって聞いた事がないですか?
名前だけは聞いた覚えがありますけれど、深く考えてみた事なんてありませんでした。読み流していましたわ。
そうですか。カストリというのは太平洋戦争後の食料のない時代に作られた低級な焼酎(しょうちゅう)の事ですよ。酒粕(サケカス)から作られたんですよ。サケカスって知っているでしょう?
名前だけは聞いた事がありますけれど、実物は見たことがありしませんねん。
見たことがありませんか?
デンマンさんは?
僕の家は大きな酒造屋の近くにあったんですよ。子供の頃は僕は少年ギャング団に入っていましたからね。自慢するわけではないですが、10人ぐらいの仲間と良く盗みに出かけましたよ。
デンマンさんは子供の頃、不良だったのですか?
不良だと思って不良になっている人はいませんよ。僕は、それが当たり前だと思って、その仲間の中で遊んでいたんですよ。盗むことだって、それが悪いと思ってやっているわけじゃない。遊びの一種だと思ってやっているわけですよ。
それで、サケカスを盗んだわけですの?
そうなんですよ。僕はまだ小学校の低学年だったから、見ていたんですが、中学生のボスが塀を乗り越えて酒造屋の倉庫に入り、ごっそり盗んできましたよ。
それをどうやって食べるのですか?
それを鍋に入れて溶かして砂糖を入れ、甘酒にするんですよ。これが結構うまいんですよ。当時サケカスなんて盗まなくても、その酒造屋で酒や醤油(しょうゆ)を買うと只でもらえたものですよ。
なぜ盗むのですか?
面白いからですよ。つまり遊びなんですよ。僕も見ていて面白かったですよ。中学生になったら、ぜひやってみたいとワクワクしながら見ていたですよ。
それで中学生になったら盗みに入ったのですか?
僕は仲間から抜けましたよ。。。というか、ボスが少年院送りになりましたからね、親たちがビックリして監視が厳しくなったんですよ。僕も母親から説教されました。そういうわけで、少年ギャング団は自然消滅しましたよ。
それで、そのカストリ雑誌とは。。。?
そうです。そのことですよね。ちょっと脱線してしまいましたね。そのカストリという酒は、とにかく悪い酒だった。“カストリ”とは、まさにサケカスから採(と)った焼酎という意味ですからね。つまり、カスからトッた酒で、カストリですよ。
そういう意味なんですの?
そうです。この酒は匂いがひどくって、鼻をつまんで飲むものだったらしいですよ。質が悪くて3合(0.54 リットル)飲むと酔いつぶれて意識が無くなると言われたんですよ。
それがどういう理由で雑誌と関係あるのですか?
語呂合わせですよ。“3合で酔いつぶれる” と “3号で雑誌社がつぶれる” とをかけたものですよ。つまりね、低級で低俗な雑誌の事ですよ。だから、長くは続かないんですよ。実際、カストリ雑誌の発行者たち本人が立派な目的など何もないと、次のように書いていたほどですよ。
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読者諸賢を啓蒙しようとか、教育しようとかという大それた気持ちは全然ありません
読者諸賢が、平和国家建設のために心身ともに疲れきった午睡の一刻に興味本位に読み捨て下されば幸いです
カストリ雑誌の中では有名な『猟奇』の創刊号に、このように書いてあるんですよ。発行者自身がこのように言っているわけです。つまり、読み捨てにしてトイレで落し紙にするような、どうでもいい低級な雑誌だったわけですよ。一口で言うと“低級桃色風俗雑誌”ですね。
このブームの中で定さんがまたスポットライトを浴びたわけですの?
そうですよ。昭和一代女『お定色ざんげ』という本に興味本位でいい加減な事を書かれたというので定さんは頭にきて告訴したわけです。
セックス志向の娯楽読み物の話の種にされたわけですね?
そういうことですよ。定さんが頭にきたのも分かるけれど、でもね、定さん一人が頭にきても、この時代の趨勢(すうせい)が低俗なセックス志向の読み物を要求していた。この傾向は1950年代になっても続いて“カストリ文化”と呼ばれるようになった。
どうしてそうなったのでしょうか?
軍国主義時代の息が詰まる思いの反動ですよ。カストリ文化は古い権威や根拠のない軍部の締め付けからの開放を人々に強く印象付けるような熱気と活力を持っていた。
つまり、古い因習と軍国主義の締め付けに対する反逆ですね?
そうですよ。このカストリ文化を謳歌した人たちのことを“カストリゲンチャ”と言ったんですよ。
インテリゲンチャをもじったのですね。
インテリまたはその原語となっているインテリゲンチャ(露:интеллигенция, Intelligentsiya)とは、知識階級を指す言葉。
なおそのような立場にある個人を知識人ともいう。対比語は大抵の場合において大衆(または民衆)である。
その通りですよ。カストリゲンチャが書いたモノの特徴は道徳を無視した生活の中にも意義や哲学めいた理論があると主張している事なんですよ。
たとえば。。。?
たとえば、作家の坂口安吾さんは退廃こそは本当の正直さであり信頼できるものだと書いていますよ。日本は戦争に負けた。武士道は滅びた。でも、堕落と言う真実の母胎によって初めて人間が誕生したのだ、と言ってますね。同じく作家の田村泰次郎さんは色情的肉体こそは崇拝に値する唯一の“肉体”であると主張して、暗にかつての“国体”をこき下ろしていますよ。
つまり、抽象的な“国体”とか国家は無意味であり、愛欲に満ちた孤独な肉体を持つ個人こそ実体のある、信じるに足るものだと言う事ですか?
そうですよ。田村さんの書いた小説『肉体の門』は社会的自我が目覚めた個人主義に基づく“近代への門”だと言うわけですよ。さらに、心中した作家の太宰治さんは、セックス・退廃・愛は革命に等しいとも言ってますよ。
デンマンさんは、むしろカストリ文化に好感を持っているのではありませんか?
そうですよ。軍国主義と比べたら、まだ健全ですからね。戦後の人たちにとって、戦争中はあれだけ嫌な思いをさせられたのだから、カストリ文化が盛んになるのも分かる気がしますよ。でも、考えてみれば、戦前の大正デモクラシーに戻ったようなものですよ。戻ったと言うより、“歴史は繰り返す”ということでしょうね。
そうでしょうか?
上で引用した『猟奇』と言うカストリ雑誌がありますけれどね、これだって、大正デモクラシーのエログロナンセンスの“焼き増し”ですよ。
大正デモクラシー
大正時代におこった民主主義を要求する思想と運動。
皇室を憚(はばか)って、大正民主主義とは言わなかった。
都市中間層の政治的自覚、世界的なデモクラシーの発展、ロシア革命などを背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して、護憲運動・普通選挙運動が展開された。
第1次護憲運動(1912年)から始まり、政党内閣制と普通選挙の実現を主張する吉野作造の民本主義理論に代表される。
広くは、この時期の労働運動・農民運動・社会主義運動などもふくめるが、第2次護憲運動(1924年)で普選運動の政治目標が達成されてからはおとろえた。
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大正デモクラシーの風潮の中、享楽的な都市文化が発達し、エロ・グロ・ナンセンスと呼ばれる風俗も見られた。
「エロ・グロ・ナンセンス」こそが、人間の想像力を豊かにして、困難な現実にも道を間違わずに生きてゆく力を養ってくれるのではないか、と考える人たちも出てきた。
「エロ・グロ・ナンセンス」を「闇」ととらえ、「闇」があるから「光」があるのであって、「闇」をなくしてしまえば「光」もまた消えてしまう、という考え方が受け入れられた。
大正デモクラシーの中でも“カストリ雑誌”が出版されていたんですよ。上で紹介した『猟奇』と言うカストリ雑誌も次の雑誌からヒントを得たようなものですよ。
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猟奇画報 全9冊
昭和4年(1929年)12月~昭和5年10月
日本風俗研究會により出版された。
国内外の珍奇風俗、性的風俗などの写真版図譜と資料読み物を取り上げて編集したもの。
9月号から編集方針が変わったため発禁処分にあう。
やはり、“歴史は繰り返す”というわけですの?
そういうことですよ。定んは、自分のことが面白おかしく取り上げられて頭に来て訴えたのだけれど、考え方によれば定さんも時代の落とし子なんですよ。大正デモクラシーの中で定さんは青春期を送った。だから、定さんの事件にもその影響が色濃く出ている。
どういうところがですか?
定さんはレンゲさんのように結構、本を読んでいるんですよ。
そのようなことが予審調書の中に書いてありました?
調書の中には出てこないけれど、『昭和史全記録』という本の中に出ている。それによると定さんは吉蔵さんを殺害したあとで、傷口の血を手指につけ、吉蔵さんの左大腿部に「定吉二人」という文字を書き、敷布にも「定吉二人キリ」という文字を書き残したんですよ。
どうしてそのようなことをしたのですか?
レンゲさんもそのように不思議に思うでしょう?実は、裁判でもそれが問題になって、裁判官が定さんに尋ねたそうだ。
定さんは何と言ったのですか?
昭和11年5月5日に明治座で“つや物語”を見たというんだ。これは泉鏡花が書いた新派の名作「通夜物語」のことですよ。この原作品を読んでいたと言う。
どういうお話なんですの?
小きんと言う芸者が出刃庖丁で可愛いい男の田之助を殺して、その血で襖に字を書くのだけれど、定さんは、そこにとても感動したと言うんだ。
明治の新派全盛時代に書かれた名作狂言。
原作は泉鏡花が明治32年(1899)9月、「大阪毎日新聞」に発表した小説。
明治39年(1906)8月大阪朝日座にて、岩崎舜花の脚色で初めて演じられた。
配役は、花魁(おいらん)・丁山に河合武雄、貧乏な画家・清に秋月桂太郎が扮した。
昭和11年(1936)5月明治座にて、昭和新派のエース川口松太郎の新脚色で「新版つや物語」として上演された。
配役は丁山にあたる芸者小今に花柳章太郎、清に柳永二郎が扮した。
演者、脚色者とも若い世代で、古くなった新派の定番狂言をリニューアルしようとした。
しかし、当時まだ原作者の泉鏡花が影響力を持っていたことから失敗した。評判もあがらなかった。
丁山が出刃包丁で宿敵ともいうべき笹山を倒し、自分の乳房をえぐった血で恋人・清に襖に絵を描かせ、息絶えていく血まみれの凄惨な場面が見ものだった。
この演劇の世界は、言ってみれば、エログロナンセンスの世界ですよ。愛憎の果てに花魁・丁山が出刃包丁で宿敵ともいうべき笹山を殺し、それから自分の乳房をえぐって自殺する。その血で恋人・清に襖に絵を描かせながら息絶えていくわけですよ。この血まみれの凄惨なシーンは、どう考えても、純情な神経で見られるものではない。芸術に陶酔してエログロナンセンスの世界にどっぷり浸(つ)かった定さんだからこそ感銘を受けるんですよ。普通の女性なら、怖いもの見たさで見ることは出来るかもしれないけれど、感銘するよりもおぞましさを感じますよ。僕だって、この演劇を見たことはないけれど、荒筋を読んだだけで感銘よりも、狂気の世界を覗いたような気がしましたよ。
でも、定さんは感銘を受けたのでしょう?
そうです。その凄惨な場面に感動を覚えたと裁判官に述べているんです。「定吉二人キリ」の血書のヒントは、この泉鏡花の原作品から得たというわけです。定さんは芸術的に感化を受けやすい性格なんだと思いますよ。つまり、定さんもエログロナンセンス時代の落とし子なんですよ。