省略の美
雨は激しく二人きり
う~~ん。
分かりますよう。
思いがあふれているのに
言葉にならない。
言葉にしようとすると
なぜか言葉の間から
思いがもれてしまいそうな。。。
そんなもどかしさを感じる。。。
分かるねぇ~~
思いを言葉で伝える事の難しさ。
でも、伝える方法が
必ずあるはずなんだよね。
たとえば。。。次の短歌。
思いは全く語られていないのに、
何よりも雄弁に語りかけるものがある。
\(^_^)/うしししし。。。
言葉にならない思いを
伝える方法をめれちゃんは
ちゃんと心得ているのですよう!
めれちゃん、ばんざ~♪~い!
\(^Д^)/ギャハハハハ。。。。
by デンマン
2008/07/25 4:49 AM
いやぁ~。よく読みとってもらえて、
とてもうれしいです!
詠み甲斐があります
ところで。
次女猫が(名前は「ねね」です)
いつも以上に甘えてきます♪
わたしがケータイを、いじっていると、
ぷーぷー言いながら、
全身を押し付けてきます
「ねね」と呼ぶと、キスしてくれます
可愛くてたまりません!
(*´ω`*)モキュ~♪
by めれんげ
2008/07/25 5:13 PM
うん、うん、うん。。。。
ぴったりの名前だよねぇ~。
うへへへへ。。。
ねんね(寝ん寝)をちじめて
“ねね”ねぇ~~
これ以上の素晴しい名前は
考え付きませんよう!
\(^Д^)/ギャハハハハ。。。。
ケータイにヤキモチを焼いて
めれちゃんに絡み付いてくる次女猫。
それで、めれちゃんも、
“いい子だから「ねんね」してくれへん”
それで、“ねね”。。。
うしししし。。。
よ~♪~く納得しましたよゥ。。。
ヽ(´ー`)ノキャハハハ。。。
by デンマン
2008/07/26 5:44 AM
長女は「タンタン」
次女は「ねね」
三女は「にこちゃん」
みんな、なかなか可愛い
名前でしょう?
ねねは、もらってきた時
小さくて頼りなくて
いかにも「ねね」という
雰囲気だったのです
今では、すっかり巨大化
してますが…(笑
by めれんげ
2008/07/29 3:48 PM
うん、うん、うん。。。
どれも可愛い名前だねぇ~。
ねねが小さくて頼りなかったなんて
信じられないねぇ~。
ねねが、自力でぶら下がって
移動してゆくシーンは
目で見えるようで、
実にワロタ。
ヽ(´ー`)ノキャハハハ。。。
あの巨大な体で、ぶら下がって
移動するシーンは
チョ~見ごたえがあるだろうねぇ~
\(^Д^)/ギャハハハハ。。。。
by デンマン
2008/07/29 6:31 PM
『即興の詩 言葉にならず』のコメント欄より
デンマンさん。。。このページのトップのめれんげさんが詠んだ短歌「言葉にならず」は、すでに記事の中で取り上げましたよね。
レンゲさんは、よく覚えていますね。
だって、つい最近の事ですわ。
■ 『言葉にならず (2008年7月28日)』
確かに上の記事の中で取り上げたのですよう。
それなのに、どうしてまた取り上げる気になったのですか?
実は、次の文章を読んだのですよう。
また、『拝啓 漱石先生』ですか?
そうですよう。初め、僕は、この本を投げ出そうと思ったのですよう。でもねぇ、読んでゆくうちに、この本には、ところどころに、なるほどと思うような事が書いてあって、結局、全部読んでしまいました。次の箇所もそのような所なんですよう。ちょっと読んでみてください。
省略を強(し)いられて現れる真実
芥川(龍之介)・久米(正雄)宛の手紙は、いずれも彼(夏目漱石)が心を開ききって語っている点で、晩年の手紙のうちでは異色あるものであるが、その中で彼が言った「うんうん死ぬまで押すのです。(中略) 人間を押すのです。文士を押すのではありません」という言葉は、『明暗』について語りうる最上の解説でもあるように思われる。彼は『明暗』の中で、ひたすら、人間をうんうん押しているのである。決してそこで「則天去私」や現世離脱やのイデーを押しているのではない。
その点で、『明暗』を『虞美人草』的段階のやや高次なものにすぎないとし、『明暗』の作意を「則天去私」のイデーに則(のっと)る勧善懲悪思想にあり、清子がここでは津田を勧懲し救済する「天」の具象化である、と見る岡崎義恵氏の意見は、漱石自身によって拒否されているといっていいであろう。そのような割り切り方は決して漱石の人間的な、あまりに人間的な苦悩をすくいとったものではないし、本来、文学がそのように割り切られうるものなら、文学など必要なものではないであろう。文学者の唯一の存在理由は、彼が考え、書こうと思うことのすべてを決して書くものではないし、また書きうるものでもないところにある、といっても過言ではないからである。
ドフトエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』について、ある女流画家に宛て、かねていおうと思い、またいいえたかも知れないことを、実際には二十分の一ほどもいい表していないことを常に苦しく思っている、という意味のことを書いていることなどを思い合わせてもいいだろう。しかもドフトエフスキーは、決して『カラマーゾフの兄弟』をなおざりに書いたわけではない。文学とは本来そのような、省略を強(し)いられ、かつそれによってのみ、貴重で真実な表現が得られるていのものであろう。(172ページ)
『拝啓 漱石先生』 著者: 大岡信(おおおか まこと) 出版社: 株式会社世界文化社
1999年2月10日 初版第一刷発行 ISBN: 4-418-99503-X
この部分を読んだ時に、めれんげさんの上の短歌が思い浮かんだ訳ですよう。僕も似たような事を書いたから。。。
思いは全く語られていないのに、
何よりも雄弁に語りかけるものがある。
\(^_^)/うしししし。。。
言葉にならない思いを
伝える方法をめれちゃんは
ちゃんと心得ているのですよう!
デンマンさんが書いた、この箇所ですか?
そうですよう。めれんげさんが詠んだ次の短歌は、まさに言葉で思いを説明していない。でも、それにもかかわらず、愛の予感、恋の予感が行間からにじみ出てくるのですよう。むしろ、説明を全く省略したことによって、読む人に、愛の緊張感、恋の緊迫感が、ひしひしと伝ってくるのですよう。レンゲさんも、そう思いませんか?
う~ん。。。そうですわね。。。短歌とか俳句は、もともと思いのうちを説明すると言うよりも、その時の情景を描き出すものではありませんか?
そうですよう。写生するようなものですよう。その時の情景を写生して思いを伝える。大岡さんが漱石の俳句について面白いことを書いていました。
写生文の開拓者
僕(大岡信)は写生文の影響というのではなく、漱石自身が写生文の一人の開拓者ではないかと思っているんです。それが、『道草』には非常にはっきりとあるのではないか、ということです。実際に自分で俳句をつくっていた頃から、漱石にはそういう実力がちゃんとあったわけですね。
それまでの小説では、まず図式をつくり、きちんとその図式通りに人間を動かしながら、一種の心理ゲームというか、それをずっと追究していくというやり方でやってきて、それが結局心理を追うだけでは小説としてどうしてもある種の未解決な問題が残ってしまう、ということに気がついたのではないでしょうか。というよりは、『こゝろ』でそこまで行っちゃったから、改めてもともとの彼のもっていた地金の部分が『道草』で戻った、という気がします。
漱石は俳句をずっとつくっていますからね。彼の俳句は本当に気軽にできているんです。気軽にできていて、ものの摑み方が非常に明確なんですね。その点は芥川(龍之介)の俳句よりはずっと上だと思います。芥川の俳句は実にみごとな、技巧的な意味で水際立ったものだと思いますけれども、俳句の土壌というものを考えると、俳句の非常に豊かな土壌は漱石のものの中にある。漱石は多分口からでまかせくらいにして、句を作ることもできたと思います。
例の、一時恋愛感情を抱いていたと噂される大塚楠緒子(くすおこ)が死んだときに、「有る程の 菊なげ入れよ 棺の中」というふうな句を作ります。明治43(1920)年11月、漱石がちょうど大吐血後、療養している最中です、寝込んでいるとき。
「有る程の…」なんていうのは、追悼の句としてはかなり唐突ですよね。ふつう追悼の句というのは、もっと慎重にしんみりとしているんだけど、「有る程の 菊なげ入れよ…」なんて、勢いがあるでしょう。あれは、漱石がパッと頭に浮かんだ言葉をスッと出しているんだと思います。それがいいとすぐに判断できたんですね。彼は即座に言葉をパッと吐き出して、その言葉がよければそれをそのまま採用する人だった。
だから飼い犬が死んだ、というようなときでも、句をパッパッと書いて、それを墓碑代わりにしているでしょう。
ああいうふうにすぐにできるということは、俳句のつくり方としては本当なんですね。俳句というのはそういうものなんです。つくり捨てで、つまり投げ捨てるようにしてつくるのが俳句なんです。その点でいうと、漱石は本当の俳人だったと思うんです。(43ページ)
『拝啓 漱石先生』 著者: 大岡信(おおおか まこと) 出版社: 株式会社世界文化社
1999年2月10日 初版第一刷発行 ISBN: 4-418-99503-X
どうですか、レンゲさん。。。? 面白いと思いませんか?