今日はレイモン・ラディゲの「肉体の悪魔」の事についてお話しするのでしょう?
そうですよう。
でも、めれんげさんの短歌を持ち出してきて、それに対してデンマンさんが詠んだ返歌を並べただけですよね?
そもそも、レイモン・ラディゲの「肉体の悪魔」を持ち出したのは、めれんげさんなのですよう。
それで、めれんげさんを紹介する意味で、このページのトップにめれんげさんが詠んだ短歌を載せたのですか?
そればかりではないのですよう。「肉体の悪魔」を書いたレイモン・ラディゲは早熟だったのですよう。14才の頃、「肉体の悪魔」のモデルとされる年上の女性と出会い、勉強しなくなって、不登校!そのために学校を放校処分になってしまう。。。で、その頃から「肉体の悪魔」を書き始めたと言うのですよう。
その事とめれんげさんが何か関係あるのですか?
あるのですよう。実は、めれんげさんも早熟だったのですよう。
どのように。。。?
めれんげさんは、小学生の頃から「チャタレー夫人の恋人」を読んでいた。そう言う訳で、年少の頃から愛や性について、いろいろと考えるところがあった。。。ちょうど、レイモン・ラディゲのように愛と性の対象を求めるようになったのでしょうね。
それで、めれんげさんの場合には。。。どうなったのですか?
16才でボーイフレンドと愛し合い、桜の花びらを散らしてしまったのですよう。
つまり、16才で初体験ですか?
そうですよう。レンゲさんと同じですよう。うへへへへ。。。
デンマンさん!。。。そういうヤ~らしい笑いだけは止めてくださいな。
とにかく、めれんげさんは文学少女だったのですよう。それは今でも、めれんげさんが書いた詩や短歌を読むと、文学的な才能を垣間見る事ができるのですよう。だから、めれんげさんが本格的に詩や小説を書くならば、必ず日本文学に新風を吹き込むだろうと僕は信じているほどですよう。
それ程デンマンさんは、めれんげさんの文学的な才能を素晴しいと思っているのですか?
そうですよう。そうでなければ、僕はめれんげさんの短歌や詩をこのブログで取り上げないですよう。
分かりましたわ。。。で、今日はデンマンさんがレイモン・ラディゲが年上の女性に惹かれた理由を話してくれるのですよね?
レンゲさんは忘れずに覚えていましたか?
もちろんですわ。楽しみにしていたのですもの。。。
僕もその事について、大いに関心があるのですよう。じっくりとレンゲさんと語ろうと思っているのですよう。ところでねぇ、僕は昨日の『小百合物語』を読んで驚いた。
どうしてですか?
ジューンさんが次のように書いていたのですよう。
マダム・ド・ラファイエットの
「クレエヴ公爵夫人」
こんにちは。ジューンです。
わたしもデンマンさんに言われたので
さっそく上のリンクをクリックして
(堀辰雄が書いた)『美しい村』を読み始めたのですわ。
ビックリしました。
なんと、デンマンさんが上の記事の中で書いている
レイモン・ラディゲの事が1ページに出てくるのです。
その部分を書き出してみますわ。
僕の机の上には、マダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ公爵(こうしゃく)夫人」が読みかけのまんま頁(ページ)をひらいています。
はじめてこのフランスの古い小説をしみじみ読んでいますが、そのお蔭(かげ)でだいぶ僕も今日このごろの自分の妙(みょう)に切迫(せっぱく)した気持から救われているような気がしています。この小説についてはあなたに一番その読後感をお書きしたいし、また黙ってもいたい。二三年前、あなたに無理矢理にお読ませした、
ラジイゲの「舞踏会(ぶとうかい)」は、この小説をお手本にしたと言われている位ですから、まあ、あれに大へん似ています。
このラジイゲの「舞踏会(ぶとうかい)」と言うのは
レイモン・ラディゲの遺作となった
『ドルジュル伯の舞踏会』のことです。
ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。
暑さを笑って吹き飛ばしたかったら
ぜひ読んでみてくださいね。
■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
『森林浴@軽井沢 (2008年8月16日)』より
ジューンさんが引用した文章は堀辰雄が書いた小説『美しい村』の最初のページからコピペしたものでしょう?
そうですよう。僕が驚いたのは、堀辰雄が『美しい村』を書いて出版したのが1933(昭和8)年ですよう。レイモン・ラディゲの『ドルジュル伯の舞踏会』が出版されたのはラディゲが亡くなった1年後。つまり1924年だった。僕はこの事実を知った時に、パリで1924年に出版された小説が1933年に東京で出版された『美しい村』の中で紹介されるのが早すぎるのではないか?
9年後ですよね?
そうですよう。でも、堀辰雄が読んだのは、当然それよりも3,4年前でしょう。。。と言うことは堀辰雄が『ドルジュル伯の舞踏会』を読んだのは1930年頃ですよう。日本ではまだ翻訳されて出版されていなかったのではないか?
それでデンマンさんは調べてみたのですか?
そうですよう。僕がネットで調べた一番古い本が次の新潮文庫本ですよ。すでに絶版になっているようです。
ドルジュル伯の舞踏会=新潮文庫=
著者名 ラディゲ著/生島遼一訳
出版社 新潮社
発行年 昭和28 (1953)
詳細 初版 帯 元パラ有 ※送料無料
大分類 絶版文庫
中分類 翻訳
【古本・古書 (販売/買取)】より
堀辰雄は原本をフランス語で読んだのでしょうか?
その可能性が大いにありますよう。堀辰雄はドイツ語を主に学校で勉強したようだけれど、フランス語と英語も読めた。僕が調べた限りでは、堀辰雄が『ドルジュル伯の舞踏会』を読んだ当時、堀自身も小説の書き方について、ずいぶんと考えていたようですよう。
どうして、そのような事がデンマンさんに分かるのですか?
ネットで調べていたら、たまたま次のような素晴しい評論に出くわしたのですよう。
堀辰雄、「文化翻訳者」
堀辰雄は早くから西欧現代文芸を「伝統」の上に花開いたものとして見ようとしていた。
〈伝統はいつも思ひがけないところに、みづみづしい姿をして、生き返つているのだから、用心したまへ〉(「フランス文学を如何に観るか」、四-175)と。
彼はコクトーの詩句にも「伝統」を〈蘇らせるに充分な新しさ〉(四-173)を見ている。〈コクトオの新しさを理解すること。彼のクラシシズムを理解すること〉(同前)。
それは彼に、あるひとつの系譜を読みとらせる。
「アルテユル・ランボオ」(一九二六)では、アルテュール・ランボー(J. N. Artur Rimbaud) の詩に強烈な「非欧化」の精神を読み取り、絵画におけるセザンヌ (Paul Cézanne)と同様の[5]、当時は世に容られることのなかった革命家の位置を与え、その詩句について、ほとんど「新感覚派」について解説するような言葉を与えながら、その系譜にダダや現代詩人たちを並べる。
いわば反伝統の伝統を見ているのだ。
「小説のことなど」(一九三四)では、モーリアックが〈われわれの民族の天性に従つて、構成し、秩序づけること〉(三-231)を尊重しつつも、イギリス文学やロシア文学、とくにドストエフスキー(F. M. Dostoevskii)の書く人間の不合理、不確実さ、複雑さを取り入れて、文芸をより豊富にする道を提案していることを紹介しながら、〈丁度、今日のわが文壇はその当時に似てはいないか〉、〈モオリアックの出した問題は私達にもたいへん有益に思へる〉(三-252)という。
これは、日本では明治末に次ぐ第二のドストエフスキー受容の季節にあたる時期の到来を的確に言い当てている。
そして実際、室生犀星の「神々のへど」について、〈ドストエフスキー的な人物を描こうと努力してゐるにせよ〉、モーリアック的に合理的方法ではなく、もっと野蛮で、混沌とした、「ずぼら」な行き方をとっているところに、〈日本人らしい、最も独創的な点がある〉(三-355)と評価している。
そして、この「ずぼら」の認識はプルースト評価と結びついてもいて、彼はそれを〈無構成の構成〉(三-379)と名づけたこともあった。
このように堀辰雄はフランス当代の文芸の背後にある「伝統」と反「伝統」意識、異文化受容の欲求をよく知り、それを自らの同時代の日本文芸の問題として考えていたのである。
堀辰雄は、このような態度を、同世代でいえば石川淳と同様、森鴎外にはじまる西欧文芸翻訳者の系譜に連なる者として身につけていたと想われる。
それゆえ、当代の日本に対しては戦闘的な啓蒙家として振舞わずにはいられなくなることもあった。
他者の作品に温厚柔和な態度で接する堀辰雄の評言が、〈僕らの欲するのは、現在の僕らの作品を一遍に時代遅れにしてしまふやうな、一箇の傑作でしかない〉(四-612)など、思いのほか過激であるのも、そのせいだろう。
また、時として、〈
現代の新しい傑作は何等のモダアニズムなしに生まれ得るのであります〉(四-17)というような鋭い警句が発せられるのも、そのためといえよう。
これはレイモン・ラディゲの「ドルジュル伯の舞踏会」(Raymond Radiguet, Le Bal de conte d’Orgel, 1924)をめぐるエッセイ(一九二九)の結びの一句だが、
このジャン・コクトーが見出した天才による心理分析小説への礼賛は、堀辰雄のコクトーに対する親しみだけではなく、芥川龍之介への敬愛と結びついて生まれたものといえよう。
『堀辰雄、「文化翻訳者」としての』より
これを読むと、なんと堀辰雄は1929年にレイモン・ラディゲの「ドルジュル伯の舞踏会」について、すでに書いている。つまり、それ以前に読んでいるのですよう。要するに、「ドルジュル伯の舞踏会」がパリで1924年に出版されて評判になると、堀辰雄は、おそらく同人の誰かから聞きつけて原本をフランス語で読んでいる。その心理分析の素晴しさに心を打たれて、自分の小説『美しき村』の中にも本の事を書いたのですよう。
それほどレイモン・ラディゲが書いた「ドルジュル伯の舞踏会」に堀辰雄は感銘を受けたのでしょうか?
そうですよう。自分が求めていた小説の書き方に出会ったようなものでしょうね。
でも、レイモン・ラディゲの遺作となった『ドルジュル伯の舞踏会』と、彼が年上の女性に惹かれるようになった事が何か関連があるのですか?
当然ですよう。関係あるのですよう。
どのように。。。ですか?
僕はレイモン・ラディゲの生い立ちをもう一度読み直しました。
レイモン・ラディゲ (Raymond Radiguet)
1903年6月18日にフランスはパリの郊外、サンモール・デ・フォッセで生まれる。
1923年12月12日に、まだ20才なのに腸チフスで亡くなる。
フランスで生まれた小説家、詩人。
生涯
幼少の頃は学業優秀でならすものの、思春期にさしかかる頃から文学にしか興味を示さなくなり、
学業そっちのけで風刺漫画家として活動していた父の蔵書を読み耽るようになる。
そのときフランス文学の古典の魅力にとりつかれる。
14才の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分になる。
その後、自宅で父親からギリシア語とラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染める。
15才の時に父親の知り合いの編集者のつてをたどって知り合った詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、同じ詩人のジャン・コクトーに紹介される。
コクトーはラディゲの才覚を見抜き、自分の友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわる。
数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移しはじめ、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかる。
途中、詩集『燃ゆる頬』、『休暇中の宿題』の出版や、いくつかの評論の執筆を行ないつつ、「肉体の悪魔」の執筆を続行。
数度のコクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行される。
このとき出版社は新人作家対象としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びるが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼びベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになる。
「肉体の悪魔」で得た印税を元手に、コクトーとともにヨーロッパ各地を転々としながらも、
ラディゲはすでに取りかかっていた次の作品『ドルジュル伯の舞踏会』の執筆を続行。
同時に自分がこれまで書いた評論などの原稿や詩作を整理しはじめる。
1923年11月末頃に突如、体調を崩し腸チフスと診断され入院。
病床で「ドルジュル伯」の校正をしながら治療に専念するが、快方には向かわずそのまま20才の短い生涯を閉じる。
遺作の「ドルジュル伯の舞踏会」は、死後出版された。
コクトーはラディゲの早すぎる死に深い衝撃を受け、その後およそ10年にわたって阿片に溺れ続けた。
フランス文学界での位置づけ
ラディゲのフランス文学史全体における位置づけは、作家としての活動期間が短かく、作品の本数も少ないせいもあってか決して高くはない。
しかし処女小説「肉体の悪魔」は、題材のセンセーショナルさに溺れることなく、
年上の既婚者との不倫に溺れる自らの心の推移を冷徹無比の観察眼でとらえ、
虚飾を排した簡潔な表現で書きつづったことで、
今日もなお批評に耐えうる完成度に達している。
「ドルジュル伯の舞踏会」に至っては、
ラディゲ自らが参考にしたとしているラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を、
高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、
別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げていることからも、
「夭折の天才」の名にふさわしい文学的実力の持ち主であったことが容易に推察される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、『クレーヴの奥方』を書いたラファイエット夫人にレイモン・ラディゲは傾倒したのですか?
その通りですよう。
。。。で、ラファイエット夫人って、どんな人だったのですか?
ウィキペディアからコピペしました。読んでみてください。
ラファイエット夫人
ラファイエット夫人マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ=ラファイエット夫人
(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette、
1634年3月18日(洗礼日) - 1693年5月25日)、
いわゆる、ラファイエット夫人(Madame de La Fayette)は、フランスの女流作家。
生涯
1634年にパリに下級貴族の家庭で生まれ、若くしてギリシャ語、ラテン語、イタリア語などを学んだ。
少女時代から摂政母后アンヌ・ドートリッシュに仕え、サロンの花形となった。
1655年、ラファイエット伯爵と結婚。
オーヴェルニュの領地に暮らすが、1660年ごろには夫婦仲は疎遠になっていた。
シャイヨのサント・マリー修道院にいる2人の妹達を度々訪ねるうちに、
亡命中のチャールズ1世の未亡人であったヘンリエッタ・マリアと末娘の王女ヘンリエッタ・アンの知遇を得た。
ラファイエット夫人は下級貴族の出身に過ぎなかったが、10才年下のへンリエッタと深い友情で結ばれ、
その友情は生涯変わらず、へンリエッタ・アンの最期も看取った。
義兄ルイ14世とへンリエッタの不倫を擁護するために、小説を刊行する。
『クレーヴの奥方』などの作品を残し、1693年に死去。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』